外交史料館

概説と主な展示史料

平成27年10月14日
【展示史料25】
「移住および植民に関する日本国とブラジル合衆国との間の協定」

 1942(昭和17)年、日本とブラジルの外交関係が断絶し、1945(昭和20)年6月にブラジルは日本への対日宣戦布告を行いましたが、まもなく、日本は終戦を迎えることになりました。

 明治期以来良好な関係を継続してきた両国は、戦後においても再び経済や文化面から友好関係の模索を開始しました。政治面においては、1951(昭和26)年9月8日に署名された、サンフランシスコ平和条約が、翌年4月28日発効したことにより、両国の外交関係が回復しました。同年9月には君塚慎(きみづか・しん)が戦後初の駐ブラジル国大使として着任しました。

 1954(昭和29)年にサンパウロ市400年祭が開催され、岡崎勝男外相がブラジルを訪問しました。日本は慶祝親善使節団を派遣し、国際見本市への日本製品の出品、日本館の建設、日本切手展、日本祭りなどを行いました。

 こうして日本とブラジルの良好な関係が取り戻されていくで、岸信介総理は1959(昭和34)年7月にブラジルを訪問しました。岸総理とジュセリーノ・クビチェック・デ・オリベイラ(Juscelino Kubitchek de Oliveira)大統領は27日に共同宣言を発表しました。このなかで「日伯経済関係が投資、移住及び貿易のごとき諸部門が相互に関連する有機的な形で更に一層緊密化しつゝ発展」するとの希望が表明されました。

 このような政治、経済、文化面における両国関係の進展によって、1960(昭和35)年11月14日、リオデジャネイロ市で安東義良駐ブラジル大使とオラシオ・ラフェール(Horacio Lafer)外務大臣日本とブラジルの両代表は「移住および植民に関する日本国とブラジル合衆国との協定」に署名しました。この協定は、日本では翌年4月12日国会の承認を得、ブラジルでは1963(昭和38)年5月30日に上下両院の承認を得て、10月29日東京で批准書が交換されました。

 本協定では、移住に関する両国間の協力を調整し、それぞれの利益に合致する形で移住を組織化することが必要であるとの認識のもと、日本人の技術と労力の活用によるブラジル合衆国の経済開発を目的とし、国際協力の精神に基づいた適切な政策を実施することが両国の伝統的な友好のきずなを強化することにつながると明記されています。

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