外交史料館

概説と主な展示史料

平成27年10月14日

 1935(昭和10)年、川崎造船社長の平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)を団長とするブラジルへの経済使節団が派遣されました。本使節団派遣は、両国経済関係の促進を主眼としていましたが、同時にブラジル新憲法の移民制限※を緩和する親善使節としての役割も期待されました。使節団との協議において、当時コーヒー輸出が不振であったブラジルは、綿花輸出により自国側の入超であった貿易の均衡を図ろうとし、使節団もブラジル綿業が今後有望であるとしてこれに理解を示しました。使節団はブラジル各所を視察した後、同国外務省委員との間に通商に関する各種勧告、決議、宣言を採択して帰国しました。使節団団長を務めた平生は、帰国後の同年12月5日、昭和天皇に日伯貿易に関する御進講を行いました。平生の御進講草案には、ブラジル国民は概して親愛的で、ブラジルには移民制限はあるが排日なるものは無い、と記されています。

 また翌1936(昭和11)年には、訪伯使節団への答礼としてブラジルからも使節団が来日し、日本の商工関係者と通商関係促進に関する協議を行いました。日本各地を巡遊し歓迎を受けました。ブラジル経済使節団の副使節が記した滞日印象記には、「ブラジル人のハートと日本人のハートが触れ合った」と感激ぶりが示されています。

ブラジルの移民制限問題

【展示史料24】
「文化的協力に関する日本国ブラジル国間条約」批准書

 外交関係樹立以来、日本とブラジルの関係はおおむね友好的でしたが、移民問題をめぐって摩擦もありました。ブラジルの移民制限は1923(大正12)年にレイス(Fidelis Reis)下院議員が提出した欧州移民奨励・有色人種移民排斥を基礎とする移民制限法案によって国家的な問題となりました。

 レイス法案は廃案となりましたが、1930(昭和5)年からのサンパウロ護憲革命で設置された新憲法起草委員会が提出した憲法草案には移民制限条項が含まれ、1934(昭和9)年にそのまま可決されました。この条項は、移民の毎年の受入数を、過去50年間で定住した移民数の二分(2%)に各国一律に制限することを規定しており、当時最多であった日本移民を標的としたものとみられました。これに対し、日本政府は遺憾の意を表する覚書を発しました。

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