外交史料館
特別展示「日本とブラジルの120年」
V 移民社会の発展
概説と主な展示史料
1924(大正13)年のいわゆる「排日移民法」によってアメリカへの移民が禁止されたことで、ブラジルは移民送出先として一層注目されました。また、1923(大正12)年にブラジル移民に対する渡航費補助が開始され、移民数は年々増加しました。戦前最多の23,299人を送り出した1933(昭和8)年には、ブラジル移民開始から25周年の記念式典が行われました。式典では、移民社会発展に尽くした功労者に表彰状が贈られ、記念の銀杯やポストカードも作製されました。また、日本政府は、ブラジル移民事業創設者として、水野龍と上塚周平に勲章を授与しました。上塚は、皇国殖民合資会社代理人として笠戸丸で水野とともに渡伯した人物で、「ブラジル移民の父」といわれています。上塚が詠んだ「夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」は、初期移民の苦労を綴った句として知られています。
ブラジル移民25周年記念式典では、移民開始初期から建設が望まれていた日本病院の定礎式も行われました。この病院建設のためには、内山岩太郎(うちやま・いわたろう)駐サンパウロ総領事が宮内省に下賜金を願い出るなど尽力し、重光葵(しげみつ・まもる)外務次官に支援を求める書翰を送っています。その結果、1934(昭和9)年には宮中より金5万円の下賜がありました。また、日本での後援会も発足し各所より義捐金が寄せられ、移民たちも献金を行いました。設計図案は日本側で何度か練り直されましたが決まらず、最終的にはレゼンデ・ピュッシュ(Resende Puech)サンパウロ医科大学副学長に依頼し、日本外務省派遣の建築技師と共に検討した結果、病床150~200を備えるL字型、総建築面積7,125m2、地階を含め6層構成の鉄筋コンクリート製と定まりました。また、鉄筋などの資材は日本から輸送されました。