外交史料館

概説と主な展示史料

平成27年10月14日
【展示史料6】
笠戸丸移民名簿

 日伯修好通商航海条約締結後、東洋移民会社、日本移民会社などの移民会社がサンパウロ州との移民契約に臨みましたが、コーヒーの価格暴落などにより関係者の警戒心が高まり、いずれも結実しませんでした。最初にブラジル移民を実現させたのは、水野龍(みずの・りょう)の設立した皇国殖民合資会社でした。水野もまた杉村公使の報告書を読み、ブラジル移民実施の機が熟しつつあるのを感じていました。水野は実地調査のため単身渡伯し、サンパウロ州と契約を結んで日本移民送出に至りました。水野自身も乗船した第一回移民船笠戸丸は、781名の移民を乗せて1908(明治41)年4月28日に神戸を出航し、同年6月18日にサントスに到着しました。

 第一回移民の成否はブラジル移民の今後を左右する大問題であったため、在ブラジル公使館は日本移民の雇用形態、生活、収入などの状況に目配りし、次々と外務省に調査報告書を送りました。サンパウロ州の移民事情について野田良治(のだ・りょうじ)公使館二等通訳官が1909(明治42)年に作成した調査報告書は、ブラジル側が「コーヒーコロノ」(コーヒー園での契約労働者)を求めていたにもかかわらず、コーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1に過ぎなかったため、今後の渡航者の選出に一考を要すると述べています。第一回移民については他方面からも同様の批判があり、農業者だけを選ばなかったことや家族組織が不完全であったために離散を生じたという指摘に対し、水野龍は外務省に提出した報告書で反論しました。

 その後、渡航回数を重ねるごとに移民の状況は改善され、日本移民の評価は次第に高まりました。

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