外交史料館

概説と主な展示史料

平成27年5月18日

1.鉄道をめぐる交流

 明治期以来、ペルシャでは列国による鉄道建設の計画が持ち上がっていました。まず1914年(大正3年)、ロシアによってジョルファ―タブリーズ間の約280kmに鉄道が敷設されました。第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)には、英国がイラク・インドのペルシャと接する地点に鉄道を建設し、鉄道をめぐる英露の争覇戦の様相になりました。
 その後、皇帝に即位したレザー・シャー・パハラヴィーは、1926年(大正15年)2月、ペルシャ縦貫鉄道建設の財源確保のため、砂糖・茶の輸入税率増額法案をペルシャ議会に提出しました。さらに、1927年(昭和2年)2月、ペルシャ議会においてペルシャ縦貫鉄道の建設に関する法案が可決されました。これまで英露の勢力の渦中にあって政治的に困難な位置に立たされていたペルシャでしたが、国内の国権回復熱の高まりを背景に、縦貫鉄道については「愛国的事業」として、外国資本を導入せず建設に取り組みました。縦貫鉄道の建設は政治・外交上において諸外国からの独立性を高める意志の表れであり、近代国家として歩み出したペルシャの国民主義のシンボルとしても大きな意味をもっていました。その完成に向けて国民の総力が結集され、工事従事員数は一日あたり4~5万人、セメント消費量月1万トン、爆発薬消費量月10万トンであったともいわれます。
 また、1928年(昭和3年)4月から、米独資本との共同ながら、南北各基点での試験線路建設も開始されました。この路線は時期により政府の直轄経営、米独による経営、デンマーク・スウェーデンの合同工業会社による経営など紆余曲折あったものの、着実に進められました。
 上記のように国内の鉄道建設が軌道にのるなかで、1930年(昭和5年)4月、ペルシャ政府から日本人の鉄道技師を招聘したいとの申し出がありました。笠間駐ペルシャ公使は技師派遣について、ペルシャの意向を「東洋ニ於ケル両国親善」にあるとみていました。笠間公使はかねてイラン交通大臣に日本からの鉄道材料購入を勧めていた経緯もあって、この派遣が日本の技術の進歩をペルシャに紹介し、ペルシャの鉄道材料等に日本製品を売り込む機会になると考え、極力協力すべきことを具申しました。
 外務省は鉄道省と協議した結果、鈴木一鉄道局技師を適任として派遣を決定しました。ペルシャ政府が日本から技師を招聘するのは初めてのことであり、鈴木技師の招聘は、両国間の相互理解を増進する試みでもありました。10月15日、笠間公使とペルシャ交通大臣との間で技師派遣に関する契約が調印され、鈴木技師は最高技術顧問として設計の審査、鉄道技術上の意見などを交通大臣に提示する任務につきました。
 その後、笠間公使の狙い通り、1933年(昭和8年)に三菱商事が日本の商社として初めてペルシャとの貿易を開始し、1936年(昭和11年)にはレール2万トン供給について交通省関係者から内々に打診を受けるなど、両国の通商関係が進展していきました。
 縦貫鉄道は、1937年(昭和12年)2月、バンダルシャー―テヘラン間が開通しました。1938年(昭和13年)8月27日には、南北両端を連結する最後のレールを国王の面前で敷設する式典が開催され、翌28日にカスピ海のバンダルシャーからテヘラン経由でペルシャ湾のバンダルシャプール間をつなぐイラン南北縦貫鉄道が完成しました。テヘラン駐在の中山詳一公使は、縦貫鉄道完成によりイラン北部の産物をペルシャ湾経由で輸送することが可能となり、イランがソ連に対する経済依存関係から脱却しうることとなった意義が大きいと報告しました。

2.「そよかぜ」号の奉祝飛行

「そよかぜ」号のテヘラン到着を知らせる 中山駐イラン公使より有田外務大臣宛電報

 1939年(昭和14年)にイラン皇太子の成婚が発表されると、日本政府は、奉祝親善の表現として国産航空機「そよかぜ」号(三菱式双発輸送機)をイランに向けて訪問飛行させることを決定しました。(「そよかぜ」はペルシャ語で「ナスィーム」といい、東天の曙光を浴びてよい便りが来るという寓意があります。)
 搭乗者は、政府代表である大久保武雄(おおくぼ・たけお)逓信省航空局国際課長のほか、江口穂積(えぐち・ほづみ)海軍少佐、鶴岡千仭(つるおか・せんじん)外務事務官、大日本航空の総務部長、機長以下5名の乗組員でした。
 「そよかぜ」一行は、皇室などからの祝い品とともに1939年4月9日午前7時過ぎに羽田東京飛行場を出発し、台北、広東、バンコク、カルカッタ、カラチ、バスラ、バグダッドを経由して、予定通り4月15日にテヘランに到着しました。 イラン滞在中の一行は、皇帝に拝謁し、イラン機誘導によるイタリア機・トルコ機などとの編隊飛行・分列式をこなし、日本・イラン航空交渉に向けた働きかけも行いました。往路と同じルートをとった帰路では、「そよかぜ」が立ち寄ったバンコクなどで歓迎を受けた様子が、現地紙の記事に残っています。
 なお、1939年8月には、イランにおける航空技術の発展・向上に資するため、皇帝を名誉総裁とする「イラン航空倶楽部」が発足し、それに合わせて日本からも航空機の売り込みが行われました。イラン航空倶楽部の幹事会長(皇帝の親戚で側近)は、年間200~500台の商業用飛行機を製造できる工場の設立を計画していました。同幹事会長は、日本がすべて引き受けるならば、飛行機に関しては日本に依頼し、さらに他の重工業についてもイランに進出する機会となると述べました。中山公使は詳細な計画を立案して、イランを導くつもりで詮議するよう、外務本省に電報を発出しました。
 この時期すでに日中戦争が始まっており(1937年7月7日、盧溝橋事件勃発)、日本の航空路の拡大は国際的な政略も絡んだ重要政策でした。友好国のドイツとも航空連絡の話を進め、バンコクで接続する計画や、ベルリンからイスタンブール・テヘラン・カブールを経由して満州国・日本へと連絡するルートの開設が進められていました。イランとの航空交渉はこの連絡航路の実現のためにも重要でした。

3.その他の親善関係

イラン国王より昭和天皇宛 即位を知らせる親電

 1939年に勃発した第二次欧州大戦に対して、イランは中立を宣言して静観を保つことを基本姿勢としました。その頃の日本とイランとの関係をみると、1940年(昭和15年)に予定されていた東京オリンピック計画(最終的には実現せず)についてイラン側が、同じ枢軸国であるドイツのベルリン・オリンピック(1936年(昭和11年)開催)には参加しなかったにもかかわらず、日本とは特に親交を欲するとして、早々に参加応諾を日本に伝えていた(1938年6月23日付中山駐イラン公使より宇垣外務大臣宛電報)ことや、1941年(昭和16年)の時点でも、イラン新国王即位についての親電が届くと、それに対する昭和天皇の祝電が送られたことなどから、両国の親善関係が維持されていたことがわかります。
 しかし、国際情勢の変化は、両国の親善ムードにも影響し、影を落としました。1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、イランは当初厳正中立を宣言したものの、英ソとの関係にも配慮して1942年(昭和17年)4月に対日断交を決定し、1945年(昭和20年)2月28日には対日宣戦を布告しました。それによって、日本とイランの国交は途絶えることになりました。

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