外交史料館
特別展示「日本とペルシャ・イラン」
II ペルシャとの国交樹立とその発展
概説と主な展示史料


明治初期の吉田正春使節団派遣は、ペルシャとの貿易開始の可能性を探る商況調査の意味がありましたが、その後、具体的な動きはありませんでした。
1903年(明治36年)頃になると、だんだんと通商発達の望みが出てきたことや、ペルシャに公使を駐在させることは政治上の利益があるとして、日本政府は時機をみて条約を締結する方針を決定しました。しかし、日本とロシアの関係の悪化にともない(日露戦争の開始は1904年)、ペルシャから条約締結に関する商議中止の申し出があったため、条約は締結されませんでした。
第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)、ペルシャとロシアの関係が一変したことで、両国関係に転機が訪れました。ペルシャは条約締結交渉の再開を日本に申し入れました。これを受けた外務省は、機が熟したものと認め、ペルシャ代表者と非公式に協議するよう、駐伊国大使に指示しました。その結果、1921年(大正10年)5月に条約の成案ができ、調印の準備も整いましたが、ペルシャ議会の不承認により調印に至りませんでした(1921年2月、レザー・ハーンがテヘランに入城してクーデターを成功させていました)。
こうしたなかでも、外務省は中央アジア方面で通商貿易発展の道をひらく取りかかりとして、1923年(大正12年)8月、縫田栄四郎(ぬいた・えいしろう)総領事を首班とする6名のペルシャ調査班を組織しました。同班は9月、ペルシャに向けて出発しました(翌年6月帰朝)。外務省は調査班の帰朝を待って条約締結交渉の方針を決定することにしました。縫田総領事は後年の講演で、ペルシャ国民ことごとくが大変な親日であったとの印象を述懐しています(文明協会刊行『波斯より土耳古まで』による)。
この調査班の報告書には、ペルシャとの間の法権問題を解決する取極めを急速に成立させる必要はなく、「今少シク局面ノ推移ヲ傍観」し、ペルシャから「相当保障条件」が示されてから条約締結交渉を開始する方が「実際的政策」であると結論されていました。またしても、日本とペルシャとの間に条約は結ばれませんでした。
このようななかで、1926年(大正15年)4月25日から同月28日まで、ペルシャ国王レザー・シャー・パハラヴィーの戴冠式が盛大に挙行されました。レザー・シャーは、対外的には中東諸国の指導者を自任しつつ、民族的独立を基調として国内の統一やペルシャ縦貫鉄道の延長など各種の内政改革に取り組みました。
1928年(昭和3年)5月10日、ペルシャが各国との不平等条約を廃棄し、治外法権の撤廃および関税自主権の回復に成功したことにより事態は進展しました。交渉上の障害はなくなり、1929年(昭和4年)3月30日にテヘランにおいて二瓶兵二(にへい・へいじ)駐トルコ大使館参事官とモハメット・アリ・カーン・ファルジーヌ外務大臣代理との間で「日本国「ペルシャ」国間通商暫定取極」の成立をみました。この取極により外交官・領事官、居住、通商などに関する最恵国待遇を相互に認め、両国の経済関係の発展の途が開かれることになりました。
同年12月には笠間杲雄(かさま・あきお)公使がテヘランに赴任して国王に信任状を奉呈するとともに、出張所に替えて公使館が開設されました。ペルシャ側は翌1930年(昭和5年)5月に、モサーエット公使が信任状を奉呈し、東京に公使館を開設しました。
1929年12月、笠間公使の着任を契機としてペルシャと正式な通商航海条約締結交渉を開始し、折衝を重ねた結果、1932年(昭和7年)10月18日、テヘランにおいて「日本・波斯修好通商条約」が調印されました。本条約には修好、居住、輸出入禁止制限、通商の自由などが規定されました。また有効期限の経過後も、一方の締約国が廃棄通告をしなければ自動更新されることになっていました。