外交史料館

令和4年7月19日

 戦後期の『日本外交文書』は、「サンフランシスコ平和条約」シリーズ(全3巻)、「占領期」シリーズ(全3巻及び関係調書集)、「国際連合への加盟」及び「日華平和条約」を特集として刊行済みです。これらの既刊と並行して「昭和期IV」(昭和20~35年)シリーズについても作業を進めており、本巻では、外交史料館が所蔵する「特定歴史公文書等」より、1952(昭和27年)の対日平和条約発効から1954年(昭和29年)末までの日米関係に関する主要な関係文書を選定し、「昭和期IV 日米関係 第一巻」として編纂・刊行しました。
 本書の採録文書数は計685文書、本文1318頁、日付索引を含めた総ページ数は1388頁です。本書の刊行で『日本外交文書』の通算刊行冊数は224冊となりました。

本巻の構成

 本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。

  • 一 日米外交関係一般
    • 付 吉田総理訪米(昭和二十九年)
  • 二 日米経済関係
    • 1 日米友好通商航海条約
    • 2 共産圏に対する輸出統制問題
    • 3 外資導入問題
  • 三 MSA交渉
    • 1 東京会談
    • 2 池田・ロバートソン会談
    • 3 諸協定の締結
  • 四 奄美返還問題
  • 五 第五福竜丸事件
  • 六 朝鮮情勢をめぐる問題
    • 1 国連軍による防衛水域設定問題
    • 2 朝鮮戦争休戦問題
    • 3 国連軍との地位協定締結交渉
      • (1)協定案をめぐる交渉
      • (2)日米行政協定の改訂と交渉の妥結
  • 七 戦後処理をめぐる問題
    • 1 ガリオア資金の返済問題
    • 2 戦犯釈放問題
  • 日本外交文書 昭和期IV 日米関係 第一巻 日付索引

本巻の概要  

一 日米外交関係一般

 1952年(昭和27年)4月28日、対日平和条約の発効により外交関係が再開し、在外事務所は大使館・総領事館に昇格しました。しかし、独立後間もない日本は防衛・経済面での米国への依存度が高く、吉田政権の国内政治基盤の弱体化もあって、様々な機会を捉えて米国からの経済支援を得ることに努めました。1953年1月のアイゼンハワー新政権成立後は、日本の自衛力増強への要求が強まり、米国による経済支援と日本の再軍備が合わせて議論されるようになりました。1954年10月17日、吉田茂総理の訪米に先立ち愛知揆一通商産業大臣が米国に派遣され、日本の経済政策の説明と共に世銀借款や余剰農産物処理問題、小笠原元住民の帰島問題、防衛分担金減額、戦犯問題等に関し、日本側の要望を申し入れるなどしました。
 本項目では、1952年から1954年における日米外交関係を全般的に示す文書や特定の項目に収まらない文書を幅広く収録しています。具体的には、平和条約発効以後の米国との外交関係再開に関する文書や、本巻において独立項目を立てなかった諸案件について日米間でやりとりした文書、世界情勢や複数の主要案件について日米要人が会談した記録、米国の対アジア政策について見通した外務省作成文書などを収録しました。
 (採録文書数59文書)

付 吉田総理訪米(昭和二十九年)

 1954年5月、日本政府は吉田総理が欧米・アジアの民主主義諸国を訪問すると発表しました。米国訪問に際しては、経済自立に向けた協力取り付けをはじめ、議題になる両国間の諸懸案について米国側への事前申し入れと調整が進められました。しかし、翌6月の警察法をめぐる国会の混乱により外遊が延期となったため、岡崎勝男外務大臣より向井忠晴外務省顧問に経済問題の代理折衝を訓令し、米国に対する支援取り付けを要請させるなどしました。
 その後、1954年9月に再び吉田総理の欧米諸国外遊が発表されました。吉田総理は同年9月26日に出発し、カナダ・フランス・西ドイツ・イタリア・バチカン・英国を歴訪した後、11月2日に米国に到着しました。アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官との会談において吉田総理は、アジアの共産主義に対抗する機関としてシンガポールに「対共産主義国際機関」を設置し、日米英仏がソ連通・中国通の専門家を派遣して情報を交換し、対抗宣伝等について常時相談する体制の構築を提案しました。また、ウィルソン国防長官、スタッセン対外活動本部長、ブラック世界銀行総裁等の要人とも会談し、東南アジアの経済開発促進、余剰農産物処理問題、防衛道路建設案等について申し入れを行い、米国側の好意的配慮を懇請しました。
 本項目では、1954年の吉田総理外遊に関する文書のうち、米国との関係についての文書を収録しました。特に米国に対する経済支援要請をめぐる日米間の応酬に関する文書や、米国訪問時の会談記録といった文書を収録しています。
 (採録文書数36文書)

二 日米経済関係

1 日米友好通商航海条約

 米国より、対日平和条約調印後速やかに戦前の通商航海条約に替わる条約について折衝したいとの申し入れがあったことを受け、1951年から東京で新たな日米通商航海条約の締結交渉が開始されました。交渉では、米国側が当時他国と結んでいた通商航海条約を基礎とした草案に基づき、技術的な諸点について検討されました。1952年2月から5月までの第一次交渉、1952年10月から1953年3月までの第二次交渉を経て、1953年4月2日、相互に無条件で最恵国待遇を認める原則に基づいた日米友好通商航海条約が調印されました。ただし、米国側の批准過程において自由職業条項(第8条)に関する留保条項が付されたため、日本側でも同様の留保を設ける旨決定し、公文が交換されることになりました。
 本項目では、米国による交渉申し入れから、米国側基礎案、交渉の経緯や問題点を報告する経済局作成文書、対処方針を諮る高裁案などの文書を収録しました。またこの時期には、通商に関連して、日米民間航空協定(1952年8月11日調印)や、日米カナダ三国による北太平洋漁業条約(1952年5月9日調印)といった実務的な国際約束も締結されており、これらに関する文書も本項目で収録しています。
 (採録文書数30文書)

2 共産圏に対する輸出統制問題

 1952年初頭の対日平和条約発効前から、米国側は日本に共産圏向け輸出統制の共同措置を申し入れていました。他方、中共地域への輸出統制を緩和したい日本は、西欧諸国が設置していた共産圏全体を対象とする輸出統制委員会(COCOM)の情報を入手し、それに加入して西欧諸国の輸出条件に足並みを揃えることが有利とみていました。日本は1952年5月30日に、米国に対してCOCOMへの加入希望を正式表明しましたが、対中共地域に対する独自の枠組みを設定して統制を強化したい米国は、極東における新たな統制機関の設置を構想しており、引き続き日米間で統制に関する協議が続けられることになりました。米国の極東新機構案などを検討するため、1952年7月に米・英・仏・カナダ・日本による五国会議がワシントンで開催されましたが、英仏は米国案に反対し、日本もCOCOM本体への加入を優先する態度で臨んだため、COCOMの下に中共向けの分科会(CHINCOM)を設置することで妥協が成立しました。ただし、会議と並行して行われた日米間の協議において、日本の中共地域に対する輸出品目は米国との調整を前提とする主旨の書簡が交わされました。日本は1952年9月にCOCOMへの加入を果たしましたが、その後も、COCOMの統制と対中共地域輸出の整合性を図るため、上記書簡に基づいて日米間で対中共地域輸出品目に関する調整が続けられました。
 本項目では、米国からの輸出統制共同措置の提起、ワシントン五国会議での議論を経て日本がCOCOMに加入するまでの経緯、日米間で引き続いて行われた対中共地域への輸出品目調整交渉に関する文書を収録しています。
 (採録文書数96文書)

3 外資導入問題

 占領地援助(ガリオア・エロア)に依存できない独立回復後の外貨不足に対処し、朝鮮戦争後に予想される特需の減少に備えるため、日本は米国の対外経済援助、世銀借款、EXIM(ワシントン輸出入銀行)借款、余剰農産物借款等による外資導入を図りました。米国側から日米経済協力や日本の経済的自立を根本方針とするよう指摘を受けつつ、吉田内閣は積極的に米国政府や世銀にアプローチしました。日本側が最も優先する電源開発のための融資については、世銀側からの勧めもあり、火力電力借款の成立に向けた交渉が行われました(1953年10月に火力借款契約成立)。さらなる融資の可能性を調査するため、世銀は1953年11月に調査団を派遣し、主に日本の鉱工業開発の状況を視察しました。1954年になると米国余剰農産物の買い付けと、その見返り円貨による資金導入が模索され、愛知通産大臣が世界銀行や米国の余剰農産物関係機関と会談して輸入量と見返り円貨の調整を行うとともに、その後の吉田総理訪米においても外資調達のための申し入れが行われました(1954年11月13日、余剰農産物購入に関する日米実質合意成立)。
本項目では、上記の通り折々の機会に米国側に外資導入を働きかける動きに関する文書を収録しています。
 (採録文書数49文書)

三 MSA交渉

1 東京会談

 1953年5月、ダレス国務長官は日本にMSA援助(Mutual Security Assistance:相互安全保障援助)を与える用意があることを明らかにしました。米国側の意向を受けて日本側でも援助を受け入れるための検討を開始し、法的な整理、協定の形式などにつき研究が行われました。同年6月に日本側は、MSA援助の日本適用について米国側の見解を求め、「経済的安定が日本の自衛能力の発展のために考慮されるべき必須の要件である」ことを確認したうえで、7月より、日米間でMSA協定締結交渉が開始されました。交渉は東京で行われ、協定の条文案などにつき協議が続けられましたが、9月30日の第12回会合をもって会談は中断してしまいました。
 本項目では、米国による日本へのMSA援助声明後の米国側との予備的な協議や外務省内での検討に関する文書、東京会談の第1回から第12回までの議事録などを収録しています。
 (採録文書数40文書)

2 池田・ロバートソン会談

 MSA協定交渉が停滞する中、吉田総理は池田勇人自由党政調会長を「個人的特使」としてワシントンに派遣し、米国側と防衛問題や対日援助問題等の諸懸案について協議させました。池田特使一行は1953年10月1日に米国へと到着し、同月5日から30日までロバートソン国務次官補らと会談し、日本の防衛力増強、米国の援助、ガリオア返済問題、日本の経済財政措置、対外投資、対中共貿易等について話し合いました。10月30日の最終会合において共同声明が発表され、日本の自衛力増強の必要性や、MSAに基づき日本に5000万ドルを目途とした物資を供給することなどに関して日米間の意見が一致したことなどが明らかにされました。会談終了後、池田特使は吉田総理の早期訪米を具申するとともに、諸案件について文書に縛られない自由な討論によって有益な結果を得ることができたとの所見を報告しました。
 本項目では、池田特使とロバートソン次官補らによる会談の記録、両国間で交わした覚書、最終会合で発表した共同声明などの文書を収録しています。
 (採録文書数38文書)

3 諸協定の締結

 1953年8月から、米国側の照会に応じ、MSA被援助国に対する投資保証制度に基づく投資保証協定締結についての交渉が開始されました。農産物購入に関しては、購入価格について米側が譲歩したことなどもあり、小麦50万トン、大麦10万トンなど総額5000万ドル分をMSA余剰農産物として受け入れることになりました。協定締結に際し、日本側は協定を農産物購入と見返り円資金使用の二本立てとし、後者に経済援助の体裁を持たせたいと考えていました。米国側は協定を二本立てとすることには同意したものの、今回の協定は一回限りのものであることを言明し、日本側の望んだ将来の経済援助の呼び水となるような協定とはなりませんでした。
 1954年3月8日、長く中断していたMSA会合の第13回において、「日米相互防衛援助協定」・「農産物購入協定」・「経済的措置に関する協定」・「投資保証に関する協定」の4協定が調印されました。
 なお、MSA協定に基づく武器援助とは異なる艦艇の貸与について、「日米艦艇貸与協定」が1954年5月14日に調印されました。
 本項目では、MSA交渉によって結ばれた上記の諸協定(いわゆるMSA四協定)の締結に至る経緯を示す文書などを収録しています。
 (採録文書数38文書)

四 奄美返還問題

 1953年8月8日、ダレス国務長官が奄美群島の返還に関する声明を発表し、日本政府は直ちに返還に向けた準備作業に着手しました。現地への政府調査団派遣や法律の整備等、国内受入れ措置を進めるとともに、関係各省間において対米折衝事項についての協議を行いました。その結果を踏まえ、在京米国大使館を通じて対米予備折衝が行われましたが、米国内での調整が難航したため、返還の実現を急ぐ日本側の督促にもかかわらず、日米間の正式会談の開始は大幅に遅延してしまいました。11月27日にようやく第1回正式会談が開始され、その後3回の正式会談及び分科会において意見調整が行われました。日米間の話し合いは概ね順調に進行しましたが、現地通貨(B円)の処理については折衝が難航、早期解決を重視した日本側が妥協する形で回収B円の米側への無償引き渡しが決定しました。それに伴って、それまで交換公文の形式によるとされていた返還取極は、協定の形式をとることとなりました。12月24日、外務省において岡崎外務大臣・アリソン駐日大使による協定の調印が行われ、奄美群島は日本に返還されました。日本政府としては、奄美群島に続いて沖縄・小笠原の返還についても進展を望んでいましたが、ダレス長官は返還当日の談話の中で「極東に脅威と緊張が存在する限り、米国が残りの琉球諸島や平和条約第3条に明記されたその他の諸島における現状の力と権限を維持し続ける」旨を発表しました。
 本項目では、奄美返還交渉の端緒となったダレス声明や、その後の交渉に関する記録、奄美返還協定などの文書を収録しています。
 (採録文書数34文書)

五 第五福竜丸事件

 1954年3月16日にビキニ環礁での第五福竜丸の被災が報じられると、日本側は直ちに事実関係の調査を開始しました。米国側からは早々に、被災者に対しできるだけ治療の援助をしたい旨の伝達がありました。日本側は、福竜丸へのスパイ疑惑や、被災当時の福竜丸が危険区域内にあったといった米国内での言説を反証する資料を準備するなど、船員の補償に向けての障害を取り除くことに努めました。同年4月より、日本側は具体的な額を示して米国側との補償折衝を開始しました。事件の早期解決を望む米国は、福竜丸船員の生活費及び治療費として10数万ドルの慰謝料を提案しました。これに対し日本側は米国側の責任を明示し、損害額を約25億円(約700万ドル)としました。米国は最終解決案として100万ドルの支払いを通知しましたが、9月に福竜丸の久保山船員が重態に陥り(後に死去)、日本側は国内の反響も考慮して200万ドルを要求しました。米国側は国内の同意が困難として150万ドル見当での解決を提示したものの、日本側は譲歩しませんでした。最終的には1955年1月4日、両国は、米国による慰謝料200万ドルの支払いを定める公文に署名し、交換しました。
 本項目では、第五福竜丸事件が報じられてから補償問題が解決に至るまでの経緯に関する一連の文書を収録しています。
 (採録文書数67文書)

六 朝鮮情勢をめぐる問題

1 国連軍による防衛水域設定問題

 1952年9月、米国側より、日韓の哨戒区域に関する紛争を避けるため、当該水域の一部に日本の監視船を派遣せず、代わりに日本漁船を米国側で保護するという提案がありました。さらに、捕虜収容所のある朝鮮近海に漁船を装って侵入する北朝鮮船が増加したことから、国連軍は哨戒を強化するため、当該水域に立入制限区域を設定しました。日本側はこうした区域設定を李承晩ラインと無関係であるとの了解のもとで追認しました。他方、国内の漁業者からは公海における漁業の自由と安全を確保するよう日本政府に対して強い要請があり、外務省から米国側に漁業者保護のための申し入れがなされました。そして、1953年7月に朝鮮戦争の休戦が成立すると、日本側は直ちに防衛水域の撤廃を米国側に申し入れ、同年8月に国連軍司令官の名で防衛水域の停止命令が出されました。
 本項目では、国連軍による防衛水域設定への日本側の対応に関する文書のほか、水域撤廃と関連して米国側と交わされた竹島帰属問題に関するやり取りも収録しています。
 (採録文書数13文書)

2 朝鮮戦争休戦問題

 朝鮮戦争の休戦交渉は、1952年7月以来停滞が続いていましたが、1953年3月末の中国共産党による傷病捕虜交換声明をきっかけとして休戦協定交渉が再開されました。同年7月27日に休戦協定が調印されると、日本は、協定に基づく関係国の政治会議への参加も想定しつつ、米国に対して情報共有を求めました。また、1954年4月から開催された朝鮮問題・インドシナ問題に関するジュネーブ国際会議に対しても日本は重大な関心を持ち、現地からの情報収集以外に、米国に対して情報提供を求めていました。
 本項目では、朝鮮戦争休戦前後の日米間の意見交換、特に朝鮮政治会議をめぐる情報共有に関する文書、ジュネーブ会議開催期間中における米国からの情報提供に関する文書を収録しています。
 (採録文書数31文書)

3 国連軍との地位協定締結交渉

(1)協定案をめぐる交渉

 日米安全保障条約を基礎としない米軍以外の連合国駐留軍の取り扱いについて、1952年3月頃から米国を窓口として交渉が開始されました。米国側は、英連邦軍等についても日米行政協定の全面的な準用を要望しましたが、日本側は、世評の悪い行政協定の準用は政治的に不得策であるとして異議を唱えました。また、米国側は交換公文での処理を提案しましたが、法務府との調整がつかず、外務省は交換公文を断念して正式な協定締結へと方針を転換しました。協定が締結されるまでの運用については、吉田総理からマーフィー駐日大使に対し、「国際法と国際慣習」の定めに従った裁判権行使を原則とするよう提案した書簡を送付することとなりました(1952年5月31日付)。
 1952年7月7日より、技術的・専門的事項などを調整すべく、各種非公式予備交渉が開始されました。交渉は原則として日米間で行われましたが、最大の懸案である刑事裁判権問題については、米国側が日米行政協定の準用に、日本側はNATO協定のライン(受入国の刑事裁判権を認める)に固執し、意見が平行線で本格的な折衝に入れないままでした。そこで、下田条約局長と在京米国大使館バッシン法律顧問とで研究することとなり、暴力を伴うなど重罪の場合は日本側に第一次の裁判管轄権を認め、軽犯罪については国連軍に裁判権を留保するとの案が検討されました。さらに、協定はNATO協定発効までの暫定協定で、その発効後はその線に沿って改訂されることを確認しました。しかしその後も、例えば1952年11月12日の日・米・英連邦代表者会議において、英連邦の代表者が国連軍内部で扱いの違いがあることへの強い抵抗を示したように、米国との均等待遇を求める英国等の主張が日本側の国内的配慮と相容れない状態が続き、1952年末頃から、刑事裁判権問題をめぐる交渉は中断しました。
 本項目では、上記の刑事裁判権問題の交渉経緯に関する文書を収録しています。
 (採録文書数48文書)

(2)日米行政協定の改訂と交渉の妥結

 1953年4月14日、日本は、NATO協定が米国につき発効すれば、直ちに日米行政協定第17条第1項に基づき、刑事裁判権条項をNATO協定と同様の規定に改訂する意思があると申し入れました。同年7月24日、米国大統領によってNATO協定が批准されると、8月18日、行政協定改訂申し入れに対する米国側の回答として、改訂に同意する書簡とともに、議定書と公式議事録の案文が日本側に送付されました。そのうちの公式議事録案は、実質的に日本側の第一次裁判権を認めない内容であったため、日本側はこれを受諾困難と伝達しました。しかし米国側も譲らなかったため、三宅審議室参事官はバッシン法律顧問と内々に調整を行い、公式会議の席上で日本側代表が日本側の方針を「陳述」し、それを同会議の記録にとどめる方式が提案されました。最終的には、日本側が重要事件以外について裁判権を主張しないとの趣旨を、日米合同委員会刑事分科会にて法務省津田総務課長が一方的に陳述することになりました。こうした妥協のもとで、1953年9月29日、日米行政協定の刑事裁判権条項を改訂する議定書が調印されました。
 日米行政協定が改訂されたことによって、刑事裁判権条項のみについて行政協定の新条項と同様の議定書が締結されました。ここに刑事裁判権問題は解決し、1953年11月より国連軍協定の起草委員会が設置され、懸案として残っていた経済財政問題の調整も終えたため、1954年2月19日、「国連軍の地位に関する協定」が調印されました。
 本項目では、日米行政協定の刑事裁判権条項が改訂され、国連軍との地位協定が締結されるまでの経緯に関する文書を収録しています。
 (採録文書数45文書)

七 戦後処理をめぐる問題

1 ガリオア資金の返済問題

 占領地援助であるガリオア資金について、米国からは1952年以降たびたび早期の返済交渉開始に関する申し入れがありました。日本側は1953年初頭に交渉開始に同意しましたが、1954年5月にようやく実質的な交渉に入りました。交渉において米国側は、西独と同様の方式(純援助額の37.5%にあたる7億300万ドルを利息2.5%、5年間据え置きの35年賦)で返済すべきことを求めました。これに対し、極力低額かつ有利な返済条件としたい日本側は、西独方式を適用することは困難として、5億ドル、無利子、20年賦の対案を提出しましたが、米国は受け入れに難色を示しました。
 本項目では、1952年における米国側からの早期返済交渉の申し入れから、1954年10月までのガリオア返済交渉に関する文書を収録しています。
 (採録文書数23文書)

2 戦犯釈放問題

 平和条約発効とともに制定された法律第103号(未決日数の刑期算入・善行による刑期繰り上げ等を規定)に基づき、日本側は米国に対し再三にわたって、戦争犯罪人の仮出所等を求めました。平和条約発効後の戦犯出所はなかなか進まず、占領末期において月あたり数十名程度の仮出所者があったのに対し、平和条約発効後の6ヶ月以上にわたって一人の許可も下りていない状況があり、それに対する国内的な不満が募っていました。日本側は1952年8月にB・C級戦犯の全面釈放について要請していましたが、11月の立太子の礼を機にA級戦犯に対しても特別な考慮を得られるように申し入れました。米国側は戦犯が政治問題化することを懸念して慎重な態度をとり、戦犯赦免・仮釈放委員会を設置して司法的に対応しました。その後も釈放が滞ったため、日本側は吉田総理訪米などの様々な機会を捉えてA級も含めた釈放の促進要請を続けることとなりました。
 本項目では、日本側からの戦犯釈放の申し入れ経緯に関する文書、申し入れについて日米間でやり取りした記録文書などを収録しています。
 (採録文書数38文書)


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