外交史料館
「GATTへの加入」(上・下)
戦後期の『日本外交文書』は、「サンフランシスコ平和条約」シリーズ(全3巻)、「占領期」シリーズ(全3巻及び関係調書集)、「国際連合への加盟」及び「日華平和条約」を特集として刊行済みです。またこれと並行して編年方式の「昭和期IV」(1945~1960年)シリーズについても、「昭和期IV 日米関係 第一巻(昭和27-29年)」を刊行しました。
本巻は、外交史料館が所蔵する「特定歴史公文書等」から、わが国のGATT(関税及び貿易に関する一般協定)加入に関する主要な関係文書を選定して、「GATTへの加入」として特集方式で編纂し、上下2冊に分けて刊行しました。本書の採録文書数は計811文書、本文1063頁、日付索引を含めた総ページ数は1143頁です。本書の刊行で『日本外交文書』の通算刊行冊数は226冊となりました。
本巻の構成
本巻の掲載事項(目次)は次のとおりです。
- 一 日本の加入申請と締約国会議などでの討議
- 1 第六回締約国会議へのオブザーバー参加
- 2 加入申請書の提出
- 3 日本加入に関する第七回締約国会議の決議
- 4 会期間委員会における日本加入勧告案の作成
- 二 仮加入方式と輸入税率据置きの検討
- 1 米国の互恵通商協定法単純延長と仮加入方式の追求
- 2 輸入税率据置き品目の検討と仮加入申請書の提出
- 3 会期間委員会での仮加入決議案検討と据置き品目案の作成
- 三 仮加入の実現
- 1 第八回締約国会議における支持要請
- 2 二分案の検討
- 3 仮加入の実現
- 〈参考〉
- 「GATTの解説書」
- 「関税及び貿易に関する一般協定」
- (以上、上冊)
- 四 対日関税交渉の実施
- 1 対日関税交渉の実施要請
- 2 関税交渉の手続きをめぐる対応
- 3 対日関税交渉への参加要請
- 4 対日関税交渉の実施
- 五 GATT三十五条援用問題
- 1 英国の三十五条援用声明
- 2 三十五条の援用回避に向けた対応
- 3 産業保護の保証をめぐるドイツ・インドとの交渉
(1)ドイツ
(2)インド
- 六 GATTへの正式加入
- 1 加入議定書への署名
- 2 加入決定案への賛成投票要請
- 3 正式加入の実現
- 日本外交文書 GATTへの加入 日付索引
- (以上、下冊)
本巻の概要
一 日本の加入申請と締約国会議などでの討議
1 第六回締約国会議へのオブザーバー参加
1949年(昭和24年)8月、米国務省は日本政府に対し「米国は、仏国アヌシーで現在開催中のGATT多角的貿易交渉において、次回開催の貿易交渉に日本を招請すべきとの提案をしたいが、日本の意思及び準備状況は如何」とGHQを通じて照会してきました。これに対し外務省は、大蔵省の同意を得て、参加の希望を回答しました。
その後、日本のGATT加入問題は、米国から関係国に打診が行われましたが、英国などの反対があり、議案として正式に討議されるまでには至りませんでした。他方で米国は日本に対し、GATT加入に向けた国内の準備態勢を整えるよう要請し、GHQ主導で「貿易協定委員会」の設置などが検討されました。日本としては、長期に及ぶと思われるGATT加入交渉について準備を進めることは必要と考えていましたが、関税自主権は国権の重要な柱であるので、占領期間中にSCAPの管理下で加入のための関税交渉を行うことは極力避けるべきであり、関税交渉は講和を達成したのちに行うことが最善であると考えていました。
対日平和条約が成立した直後の1951年9月中旬、日本は開催中のGATT第六回締約国会議に対し、オブザーバー参加を要請しました。関係国間に種々の議論はありましたが、この要請は認められ、日本は萩原徹在パリ在外事務所長を代表として、初めてオブザーバー参加を果たしました。日本は、このオブザーバー参加を通じて、イギリス、フランス、オーストラリアなどに、日本加入への強い反対があることを痛感することとなりました。会議終了後、朝海浩一郎在ロンドン在外事務所長は、GATT加入の成否は、いかに英国との話し合いを遂げるかにあるとの意見を東京へ上申しました。
(採録文書数20文書)
2 加入申請書の提出
1952年3月、平和条約の発効が間近に迫ると、いよいよ日本はGATTへの加入申請を検討し始めました。米国務省は、主要国の中に反対があることから、加入申請は時期尚早であるとの意見でしたが、日本政府としては、輸出貿易への差別待遇のおそれを正式な条約の形式で排除することを重視し、申請の準備を進めました。閣議決定を経て、同年7月18日、日本は加入申請書をGATTへ提出しました。
当時のGATTの規定では、加入申請に対し3か国以上の反対がなければ、加入に向けた関税交渉を開始することができると定められていました(簡易手続き)。しかしイギリス、オーストラリア、ニュージーランドの反対で(表向きは、日本のように重要な貿易国の加入は、簡易手続きによらず、締約国会議で十分に審議するのが望ましいという理由で)、日本加入問題は10月に開催が予定される第七回締約国会議に付託されることとなりました。
日本の加入申請に対する各国の回答振りをGATT事務局長から内密に聞き出した日本は、イギリスなどの翻意に努めるとともに、第七回締約国会議では日本の加入申請が採択されるよう努力し、もし審議が紛糾して翌年の第八回締約国会議へと持ち越す形勢となる場合には、日本を次期多角的関税交渉に招請する決議を成立させる方針で臨むことを決定し、9月12日、会議への派遣が内定していた萩原駐スイス公使へ訓令として通報しました。
(採録文書数31文書)
3 日本加入に関する第七回締約国会議の決議
第七回締約国会議は、1952年10月2日から開始され、日本はオブザーバーとして会議に参加しました。会議では、英連邦諸国の特恵関税会議の帰趨、米国大統領選挙の結果、それに基づく米国の通商政策の基本方針など、先行きが不透明な要素が多く、次期多角的関税交渉の開始時期を決定することができませんでした。そのため日本加入問題は、会期間委員会(今次と次回の締約国会議の間に設けられる委員会)で検討するという妥協案で解決せざるを得ない状況となりました。日本としては関税交渉を遅くとも翌53年秋までに実施することが事実上担保されるのであれば、この決議で満足することとしました。
こうして10月14日、全会一致で(チェコスロバキアは棄権)、決議が採択された。決議は、日本の加入を主義上認め、会期間委員会を設置して日本とも協議の上、加入条件・加入時期を検討するという内容でした。日本は会期間委員会での審議を促進し、将来の加入において不当な条件を付けられないようにするため、第七回締約国会議のワーキングパーティーにおいて、日本の労働水準や通商政策を丁寧に説明し、関係国に理解を求めました。一方で、代表として会議に参加した萩原公使は、英国が「各国が高い会費を払ったクラブに、新たに入ろうとする日本に対して、いくら出させて入れるかの問題なり」と述べたことから、日本加入に対して厳しい姿勢で臨む国があると予想されるため、対抗手段としての複関税制度を至急研究して、現行関税制度を改正すべきとの意見を具申しました。
(採録文書数32文書)
4 会期間委員会における日本加入勧告案の作成
会期間委員会は、1953年2月2日から始まりました。同委員会では、日本加入の条件と時期を検討し、締約国に対する報告書(勧告案)の作成が行われました。
条件の面では、戦前の日本貿易をイメージし、ソーシャルダンピングを警戒する英国の主張によって、「正常な競争の範囲を超えて、特定の国の輸出が異常に増大するような緊急特別の事態においては、関係締約国は締約国会議の事後審議を条件として、直ちに対抗措置をとりうる」という趣旨の条項を、日本加入議定書に加える案が提起されました。日本としては、日本加入議定書にこのような条項が記載されることは、日本の体面上面白くないことから、別個の規定とするよう折衝しました。その結果、報告書では「セーフガードは日本のみを対象とするものであってはならない」との文言を盛り込み、「30日以内に事態が改善されない場合は、暫定的な防衛措置をとりうる」との宣言を作成すべきとの勧告となりました。
また関税交渉の時期については、日本は「できる限り早い機会」とするよう求めましたが、米国は、同国議会で互恵通商協定法(米国におけるGATT譲許の根拠法)の延長が審議中のため、この延長法案が議会を通過する前に関税交渉の手続きを進めることには絶対に応じない姿勢でした。このため、会期間委員会において関税交渉の時期を確定することは困難で、有効な勧告を行うことはできませんでした。
他方で、現行の関税譲許は53年末に効力を失うため、年内に延長措置をとる必要がありました。そこで会期間委員会は、年内に一般関税交渉を行う必要を認め、日本加入のための関税交渉も、この一般関税交渉の一環として行うことが、交渉の時期が多少遅れるとしても、交渉範囲の拡張から来る利益が補ってあまりあると認め、日本の加入条件および一般関税交渉の時期・形式に関して、できる限り早く特別締約国会議を開催して決定するよう締約国に勧告することとしました。
こうして2月13日、会期間委員会は以上の勧告を盛り込んだ報告書を採択して終了しました。
(採録文書数42文書)
二 仮加入方式と輸入税率据置きの検討
1 米国の互恵通商協定法単純延長と仮加入方式の追求
日本は、会期間委員会の報告書に従い、1953年夏に開催される予定の特別締約国会議で、一般関税交渉の時期・形式が確定することを期待し、関係各省が連絡会を開催して、関税交渉の準備を進めました。
ところが、同年4月、米国政府は議会運営が厳しい状況にあることから、互恵通商協定法を1年間単純延長し、その間は通商政策の全面的な再検討を行い、メジャーな関税交渉は一切行わない方針を採用することが確実となりました。米国の参加なくして、一般関税交渉を開催することは不可能であるため、GATT締約国の大勢は、53年末に効力を失う現行GATT関税譲許を、秋の第八回締約国会議で単純延長する方向に傾きました。こうなると一般関税交渉は行われず、従って日本加入のための関税交渉も目途が立たないこととなります。そこで日本は4月10日、米国に対して一般関税交渉に応じるように再考を求め、やむを得ざる場合には、少なくとも日本との二国間関税交渉に応じるよう要請しました。
しかし日本の要請にもかかわらず、米国は関税交渉を一切行えないとの態度を固持しました。また米国は、日本加入問題を話し合うための特別締約国会議が開かれても、参加しない意向を示しました。この状況で、GATT事務局から内々に提示されたのが、仮加入方式でした。要するに、加入のための関税交渉を先送りにして、日本がとりあえず仮加入するという方式で、日本が何らの負担を負わずにGATT協定国としての利益を享有できるのでは、既締約国は納得しがたいと予想されました。そこで事務局が提案したのが、仮加入に当たり代償として、日本が現行輸入税率を一般関税交渉が開始されるまで据置くという案でした。日本としては税率据置きを受け入れて仮加入するか、GATT加入を当分見合わせるかの選択を迫られた形となりました。この方式をめぐり、日本はGATT事務局および米国と極秘裏に検討を進めました。その一方でGATT事務局は6月8日、GATT譲許の延長問題と日本加入問題を議題として、8月17日から会期間委員会を開催する旨を締約国に提案しました。
(採録文書数55文書)
2 輸入税率据置き品目の検討と仮加入申請書の提出
外務省は輸入税率据置きについて大蔵省や通産省と協議し、既に国会において審議中で近く税率引上げが成立する7品目以外に、若干の品目について除外を求めることができるのならば、仮加入の実現に努力すべしという方針を固めました。そして1953年7月31日の閣議で、「日本加入のための関税交渉を近く実施することが不可能の場合は、関税交渉を行うことなく、暫定的に日本のGATT加入を認めるよう申し入れることとし、そのため現行のGATT税率の延長が予定される1955年6月末、または一般関税交渉の開始時のいずれか早い時期まで、関税の相当部分を現行の率に据置く用意がある旨をあわせて申し入れることとする」と決定しました。
萩原駐スイス公使は訓令に基づき、8月4日付でGATTへの仮加入申請を締約国会議議長に提出しました。この申請文は、日本政府の原案をジュネーブで萩原公使とGATT事務局長が協議・修正したもので、据置き品目数については「substantial number」という表現が用いられました。この表現については、米国から「若干の例外以外は全品目」ということでなければ、締約国会議での各国との調整に時間を要するため、各国の同意を短期間で得ることが困難となり、米国内の審議も複雑化するおそれがあるとの指摘を受けましたが、日本としても国内の非難を回避するギリギリの表現であるため、直ちに修正に応じることはできませんでした。
(採録文書数43文書)
3 会期間委員会での仮加入決議案検討と据置き品目案の作成
事務局の提案に従い、会期間委員会は1953年8月17日から始まりました。同委員会では、日本の仮加入申請を締約国会議で採択する際の決議案を事前に作成し、締約国に示すこととなりました。事務局によって、決議案と協定案の2案(ほぼ同内容だが、決議案は一定の義務を負う一方的な意思表示で、いつでも受諾を撤回し得るのに対し、協定案は完全な合意で法律上の効果が安定する)が作成され、8月20日、参加国へ配布されました。各国からは何らの意見も出ず、各自本国に持ち帰って研究し、締約国会議で議論することとなり、同日、会期間委員会は終了しました。
一方、締約国会議で示す据置き品目について、日本は早急に確定する必要がありました。日本は米国の意見にも配慮して、総税目数の9割(貿易量においてもほぼ9割相当)を据置くことを決断し、9月4日、据置きの例外とする品目表を閣議決定しました。同8日、日本はこの除外品目表を事前に米国に内示して意見を求めました。米国からは、例外主義となったことに満足の意が示され、検討の結果として、いくつかの品目について除外の再考を求める意見が示されました。日本は、この意見に対して、特に米国が強く撤回を求めた自動車関連のみを除外品目から落とすこととし、米国の了解を取付けました。こうして9月17日、日本はGATT事務局に対し、除外品目表を提出しました。
(採録文書数32文書)
三 仮加入の実現
1 第八回締約国会議における支持要請
第八回締約国会議は、1953年9月17日から始まりました。日本の仮加入問題は、9月23日から討議されることとなり、日本代表の松本駐英大使と萩原公使は、各国代表と個別に会談して、支持取付けに奔走しました。会議開始当初、日本が米国側と行った票読みでは、英、豪、ニュージーランド、南アフリカ、南ローデシア、チェコスロバキアの6か国の反対が確実と思われました。総数33か国のうち、3分の1以上の12か国が反対ないし棄権すれば、決議は否決されるため、日和見的な態度をとる欧州や南米の諸国に対する工作が成否を握ると思われました。
支持取付けで日本が重視したのは、カナダとベルギーでした。英連邦諸国の中で、唯一反対の態度を示していないカナダは、英国に同調して棄権するおそれがありましたが、賛成票を獲得できれば、日和見の諸国への影響が大きいと思われました。またベルギーは、ベネルクス3国の票の行方を決めるため、こちらも賛成票の獲得が必要でした。カナダは日加通商条約交渉の促進を、ベルギーはベルギー領コンゴへの輸出数量制限での譲歩を日本に求め、日本はこれに誠実に対応する姿勢を示して、支持取付けに努めました。さらにギリシア、ドミニカ、チリ、ペルー、キューバなどからも要望が寄せられ、日本は可能な範囲でこれに対応しました。
(採録文書数35文書)
2 二分案の検討
会期間委員会が提示した決議案は、(1)日本をGATTの会議に参加せしめること、(2)日本との通商関係をGATTの規則で律すること、の2点がポイントとなりますが、日本が事務局や米国側と協議した際には、この2点を1つの文書で押し切れるかが焦点になると思われました。この2点を別々の文書とする案も検討されましたが、その場合、(1)の決議にのみに賛成し、(2)の文書には署名しない国が多くなり、仮加入の意味がオブザーバー参加と大差ない結果となることが懸念されました。そこで日米両国は、英国などを牽制しつつ、賛成票を増やすために、単一決議案で押す方針としました。
しかし、英仏など主要国から相当数の反対または棄権が出る可能性が高まると、事務局は9月末、決議案から(2)の趣旨を議定書として分離する案(二分案)を作成し、決議に反対している諸国を中心に個別的な打診を開始しました。二分案については9月28日、仏国がこの趣旨に言及し、英国も賛同した経緯があり、反対国も決議のみには賛成する可能性が高いと思われました。
他方、米国は、決議が満場一致となっても議定書に参加する国が少数になる可能性を懸念し、二分案に反対しました。議定書の参加国が少数となった場合、英国が従来主張しているように、日本の加入問題は次回締約国会議まで結論を持ち越すべきとの議論が起きることを警戒したからでした。日本は米国と協議の上、米国と同様の態度をとることとしました。
萩原公使は10月2日、加入決議と協定適用議定書を分離した方式(二分案)を採用しても、議定書への署名国の著しき減少を防止できれば、単一決議案よりも良いのではないかとの意見を具申しました。外務本省もこの意見に賛同しましたが、ジュネーブでの討議は流動的で、英国も二分案に明確な賛同を示さなかったため、10月12日、起草委員会は二分案の含みを残しつつも、単一決議案を採択する方向で議論を集約しました。
(採録文書数52文書)
3 仮加入の実現
日本仮加入の決議は、10月22日以降に採択される見込みとなりましたが、10月19日の段階でも、日本の票読みでは反対または棄権が11か国と予想されました。さらにこの段階でインドネシアが棄権の意向を示したため、日本は翻意に努めました。
ここに至り外務本省は、二分案での決議成立が確実ならば、二分案の採用を希望する旨の訓令を10月20日、ジュネーブに発電しました。ジュネーブの日本代表団は、米国側と協議し、仮加入が採択によって否決されることは、英国なども本音としては避けたいと考えていることから、二分案を採用する方向で米国の協力を要請しました。こうして10月22日、日米間で二分案のドラフティングを決定しました(この段階で二分案の議定書は宣言となりました)。二分案が採用されることで、日和見の諸国も決議には賛成することがほぼ明らかとなりました。なお、据置き品目については、相当数の国から要望が出され、若干の品目の据置き追加を受け入れた上で、10月20日、修正作業を完了しました。
日本仮加入に関する決議の採択は、10月23日に行われ、26か国の賛成で可決されました。英、豪、ニュージーランド、南アフリカ、南ローデシア、チェコスロバキア、ビルマの7か国が棄権し、反対はありませんでした。なお、ビルマは24日、本国からの訓令が遅れたとして賛成を表明し、賛成国として記録に留められることとなりました。次いで10月24日、日本との通商関係にGATTの規定を適用する旨の宣言の署名式が行われ、日本のほか、デンマーク、フィンランド、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、インド、アメリカの8か国が署名しました。委任状未到の国も多く、さらに10か国程度はいずれ署名が得られる見通しでしたが、日本としては署名国を増やすべく、以後も外交努力を続けることとしました。
(採録文書数41文書)
なお、上冊の末尾に〈参考〉として、「ガットの解説書」および「関税及び貿易に関する一般協定」を採録しました。
四 対日関税交渉の実施
1 対日関税交渉の実施要請
1953年10月、日本はGATTへの仮加入を果たしましたが、正式加入を目指していた日本にとって、仮加入は不本意な結果であり、その原因は1年間メジャーな関税交渉を一切行わないというアメリカの通商政策の影響を受けて、GATT加入のための関税交渉を実施できないところにありました。
そこで日本は1954年1月、米国のランドール委員会が通商政策に関して大統領へ勧告を行うと、同勧告への意見という形で、速やかに関税交渉を開始したい意向を米国務省へ申入れました。これに対し国務省は、日本の立場は可能な限り考慮するが、互恵通商協定法の延長をめぐる議会審議の先行きが不透明のため、確実なことは言えないとの態度を示しました。
同年5月、互恵通商協定法が前年同様1年単純延長となる見通しが濃厚になると、日本は米国に対し、多角的一般関税交渉が実施困難な場合には、二国間関税交渉だけでも実施を要望すると申入れました。これに対し国務省は6月4日、ダレス長官が上院で「日本の経済状態改善のため、協定法が延長されればGATTにおいて日本との関税交渉を進める」と表明しました。さらに国務省は同14日、法案が上院を通過次第、直ちにGATT締約国に対し「日本正式加入のための関税交渉を行う方針なのでこれに参加されたい」との通告を発する意向であると日本側へ内示しました。その後、日米間で締約国へのアプローチの方法が協議され、また日本側はGATT事務局と協議の上、7月5日、関税交渉の実施を要請する申請書を事務局へ提出しました。
(採録文書数43文書)
2 関税交渉の手続きをめぐる対応
1954年7月8日、米国務省は日本に対し、英国内にはGATT協定による日本への長期的な最恵国待遇の許与に強い反対があることを踏まえ、日本加入の議定書に何らかの留保規定を付すことも一案と考えられるとして、その当否を照会してきました。これに対し日本は、他の締約国と全く同等の地位における加入を希望すると答え、差別待遇を承諾しない方針を明らかにしました(米国は日本の考え方は十分了解すると回答)。
7月29日、日本は会期間委員会において関税交渉申請書の趣旨を説明し、翌年2月からの関税交渉開始と、参加国を早めに知り得る手続きの確定を求めました。大半の国が交渉実施に原則賛成しましたが、イギリスとフランスは日本加入にコミットできないとして態度留保を表明しました。その後、日本の要請に基づいて、関税交渉の手続きを定めた報告案(会期間委員会からGATT総会に対する勧告)が事務局によって作成され、8月2日には無修正で採択されました。
この勧告案は、10月29日の総会において27か国の賛成で可決され、日本加入のための関税交渉が翌55年2月21日から開始されることが決定しました。総会に出席した松本大使は11月9日の電報で、できる限り多くの国を関税交渉に引入れることが重要で、多数の国が日本加入を支持することになれば、加入反対の立場をとるイギリスを弁解困難な状況に追込むことができるとの意見を具申しました。
このように関税交渉の手続きが進められる一方で、日米間では譲許を希望する品目のリスト交換など、予備交渉が開始されました。11月13日に大統領が関税交渉の宣言を行うと、日本は米国の公聴会で交渉品目に関する日本の貿易状況を説明するなど、対応に追われました。また日本は、仮加入宣言の有効期限が翌年6月に切れるが、それまでの正式加入実現は日程的に難しいことを懸念して、宣言の延長を事務局と協議し、1955年2月1日、仮加入期限を55年末まで延長する議定書が成立しました。
(採録文書数30文書)
3 対日関税交渉への参加要請
関税交渉申請書を提出した直後の1954年7月8日、日本は関係国に対する関税交渉への参加要請に着手しました。日本の要請に対し、イギリスやフランスなどの態度は変わりませんでしたが、交渉参加を事務局へ通報する目安とされた9月15日までに、アメリカ、ドイツ、イタリアなど8か国が参加を通報しました。その後も日本は粘り強く参加要請を続け、最終的には17か国が対日関税交渉への参加を表明しました。
ところが秋頃から、オーストリアやインドなど、仮加入に賛同した国の中に交渉参加に難色を示す国が現れました。関税交渉開始が目前となった55年2月16日には、オランダからベネルクス3国は不参加との通報があり、日本は衝撃を受けました。萩原公使は、ベネルクス3国の不参加は日本のGATT加入をほとんど不可能ならしめるとの見通しを示し、あらゆる方法を講じて再考を促す必要があるが、オランダの態度は主として綿糸布の問題にあることが明らかなため、何らかの方法で誠意を示す必要があると意見具申しました。
ハーグの岡本大使は、直ちにオランダ外務省に日本の事情を説明して再考を求めましたが、オランダ側は、自由陣営内における日本の重要性というような大局論は、英仏など自由陣営のリーダーが消極的態度をとっているのだから説得力を欠き、オランダとしては英仏の態度変更がない限りは関税交渉に参加しないと答え、説得に応じませんでした。またオランダは、日本の加入には賛成するが、関税交渉の枠外であらかじめ両国間に必要な協議を遂げる必要があると述べ、日本の輸出が過剰に増大した際の抑制の保証をめぐり二国間での取決め成立を求めました。インドやオーストリアからも同様の要求が出されたため、以後、日本は対応に苦慮することとなりました。
(採録文書数66文書)
4 対日関税交渉の実施
日本の正式加入のための関税交渉は、1955年2月21日から開始されました。日本は、外務省、大蔵省、通産省、農林省からなる総勢28名を交渉団としてジュネーブに派遣しました。
各国との関税交渉においては、米国との交渉が圧倒的な比重を占めていました。GATTの関税交渉では、最初に譲許しうる最大限度の品目表を交換し、以後、譲許を削減しつつ合意を目指す方式が通例でしたが、米国に対して日本が提示した譲許品目は20程度であったため、ダレス国務長官は「日米双方に利益がある合意が絶対に必要であり、それが不可能ならば交渉団の引揚げを勧告せざるを得ない」と不満を表明しました。
米国は互恵通商協定法の期限の関係から5月下旬に交渉を終える必要があり、日本は本国から携行した最大限の譲許表を再提出して妥結を急ぎました。交渉の最終段階では、日本側オファーのマグロ缶詰の税率引下げ、米国オファーの大型・中型自動車の税率引下げをめぐって交渉は難航しましたが、日本側は関係4省次官の極秘会合で、日本側オファーの貫徹を条件に米国オファーの受諾を決定し、日米交渉は5月21日に完了しました。
また米国は、日本に譲許を与える産業の賃金がサブスタンダードでないことに固執し、労働賃金に関する声明の発出を日本に求めました。しかし日本側は、労働基準法が定める最低賃金制の実施は近き将来に条件が整う見込みが極めて薄いことから、モーラル・オブリゲーションであっても実施不可能なことを約束することに難色を示しました。この問題は協議の末、非公表の交渉議事録に、日本側の発言として最低賃金制に言及することで合意に至りました。
そのほかの諸国との交渉では、ドイツとの交渉が難航しましたが、6月7日には17か国すべての交渉を終了しました。また譲許すべき品目がないとの理由で関税交渉を実施しなかったトルコとセイロンの2国は、最恵国待遇の相互許与を表明することを約しました。交渉終了とともに「日本加入のための議定書」が作成され、関係国の署名を待つこととなりました。
(採録文書数55文書)
五 GATT三十五条援用問題
1 英国の三十五条援用声明
1954年9月下旬、GATT事務局長は、日本加入問題に関する英米との打ち合わせ状況を極秘に日本側へ通報しました。それによると英国が日本加入を賛成する案として、(1)日本加入議定書に「貿易上の混乱が生じた際には日本とのGATT関係を停止する」と記載する方法、(2)日英間に二国間協定を結んで、緊急の場合には日英間のGATT関係を停止できると約束する方法、(3)英国は加入に賛成するがGATT35条(二締約国間に関税交渉が行われず、一方の国が加入した際に、他方の国がGATT適用に同意しない場合は、両国間にGATTを適用しない)を援用して正式なGATT関係の成立は将来に待つ方法、の3案が検討されているとのことでした。
その後、日本が米国務省筋から得た情報では、英国は(2)の二国間協定を希望し、日本はそれを受諾するだろうと考えていることがわかりました。萩原公使は英国と二国間協定を結べば、他の諸国も同様の協定を求めることは必至であり、二国間協定は締結すべきではないとの意見を具申し、本省も二国間協定は絶対不可とのスタンスでした。
しかし英国は10月23日、二国間協定で一方的に抑制措置を実施できるようにGATT協定を修正した上で、日英間にこの趣旨の二国間協定を結ぶことを提案し、近く訪英する吉田茂総理に対してこれを提議する意向を内報してきました。ロンドンの松本大使は、訪英中の萩原公使らと協議し、たとえ英国が35条を援用することになっても、二国間協定には同意できないとの結論に達しました。松本大使はロンドンに到着した吉田総理にこの趣旨を説明し、吉田総理は10月27日のイーデン外相らとの会談で、英国提案に深くコミットせず、事務当局で協議を続ける旨を述べるにとどめました。
日本は英国提案への正式回答をすぐには行わず、ようやく11月30日に至り、書面で二国間協定案は受諾できない旨を回答しました。萩原公使は、英国提議を拒否したまま放置するのは適当ではなく、二国間協定案に代わる何らかの落としどころを探るべきと具申しましたが、本省は1月20日、英国との話合いは加入成立まで待つべきで、まだその時機ではないと回訓しました。
その後、駐日英国大使は1955年4月1日、「二国間協定案は拒否されたままとなっているところ、英国政府は35条の援用を近く議会で表明せざるを得ない。ただし他の締約国に対して日本の加入を邪魔することはない」と日本側へ通報してきました。こうして英国政府は4月19日、日本に対しGATT35条を援用し、日本とGATT上の関係を締結しない旨を声明しました。なお英国はこの声明において、両国通商関係を恒久的基礎に置くため、日英通商航海条約の締結交渉を行いたい旨を付け加えました。
(採録文書数36文書)
2 三十五条の援用回避に向けた対応
前述したようにオランダは、対日関税交渉の開始直前に不参加を表明し、その際に日本の輸出が過剰に増大した際の抑制の保証をめぐり二国間での取決め締結を求めました。萩原公使はGATT23条(自国の利益が侵害された際に関係締約国に申立てができ、関係国間で調整不能の場合は、締約国団が裁定を下す)の新解釈を日蘭間に適用するフォーミュラ(萩原私案)を作成し、本省の了承を得て、1955年4月19日、オランダ側へ提示しました。しかし同国は採用困難と回答し、5月7日には35条の援用を示唆しました(5月24日にはベネルクス3国として35条援用を決議)。またオーストリアも5月18日、日本の加入には賛成投票するが、35条を援用してGATT協定を適用しないと通報してきました。
5月下旬、当時訪日中だったGATT事務局長は、英国や仏国のみならず、35条援用国が相当数に上るような情勢を危惧し、GATT23条の新解釈適用に関する選択的宣言案を研究したいとの意見を述べました。また事務局長は、問題の焦点が日本の繊維の競争力にあることを指摘し、何らかの対策が必要であると述べましたが、日本側でこの問題を検討した結果、日本の繊維業界は、大量の滞貨処理、操業強化等、国内の不況対策に忙殺され、輸出の全面的調整を考える余裕はなく、近い将来において市場協定的な対外協議を行う見込みはないとの結論に達しました。
日本は6月中旬、ベネルクス3国とオーストリアに対し、35条援用を思い止まり、萩原私案を再考するよう申入れましたが、各国を翻意させることはできませんでした。萩原公使は、英、仏、豪州等の35条援用は不可避と認められるが、ベネルクス3国やオーストリアに対しては、綿布問題で輸出調整措置をとるなど、35条援用回避に向けた対策が必要であると意見具申しました。しかし外務本省からは、繊維輸出政策の根本に触れざるを得ないので、まずは通産省の広川技官を欧州に派遣し、現地実情を調査した上で具体策を決定したいとの回訓がなされました。また本省は、23条新解釈につき米国からベネルクス3国などへ働きかけを行ってはどうかとの意見でしたが、萩原公使は米国の申入れは効果が期待できず、35条の援用を考える国は英国の態度を見守っているので、英国が23条で十分なセーフガードになると認めるか、少なくとも英国と23条につき交渉中と各国に説明することが必要であるとの意見を示しました。
このような状況下で、7月7日から開催する予定だった臨時会期間委員会は、日本問題以外の理由で延期となり、日本加入投票の期日である8月11日以前に23条新解釈の討議を行うことは困難となりました。GATT事務局長は、12ないしは13か国から35条を援用されるような情勢下では、加入申請を再考するか、35条援用国への報復手段や35条援用の効果を一時的にする方策を検討すべきであるとして、日本側へ対応方針を照会しました。
7月8日、本省は萩原公使への電報で「多数の国が35条を援用すれば、わが国が期待する輸出増進の実益が著しく減殺され、他方で加入による輸入貿易政策への制約もあるので、加入はむしろ有害ではないかとの議論が日本国内に現れてきているが、政府は加入申請の撤回を考えておらず、また二国間協定による35条援用回避は取り得ない。ただし報復的措置も複関税を除き、適当な材料が少なく、日本としては「35条援用の効果を一時的にする方策を検討する」という事務局長の意見に賛成する」旨を伝えました。
萩原公使は直ちに事務局長と協議し、多数国から35条援用を受けても加入手続きを進め、秋に開催される会期間委員会以降に援用撤回を求めていく方針としました。なお、日本政府は7月25日、衆議院において外務省経済局長が答弁し、35条を発動して日本に差別関税を適用する国に対しては、GATT税率を適用せず、先方の態度如何によっては複関税を設定して対抗することも考慮中であると表明しました。
(採録文書数56文書)
3 産業保護の保証をめぐるドイツ・インドとの交渉
(1)ドイツ
ドイツは対日関税交渉への参加を表明しましたが、1955年1月22日、日本に対して、国内産業保護のため、綿製品など特定の日本産品に対する輸入数量制限が可能となるような双務協定を結びたいと提案しました。日本側は当初、ドイツ提案はGATTの枠内で解決すべき問題であるとして、これに応じませんでした。
ところがドイツは関税交渉が進むにつれ、日本が何らかの保証を認めなければ、関税交渉を妥結しないという姿勢を示しました。そこで萩原公使は5月10日、GATT23条の新解釈を双務的に適用する案の提示につき、本省の承諾を求めました。本省では、一旦、関税交渉に入ったドイツが日本の加入支持を撤回して賛成投票をせず、35条を援用することはないとの判断でしたが、萩原公使はドイツが米国に次ぐ規模の交渉相手であり、しかも欧州で唯一の日本支持の有力国であることから、先方の希望に応えないリスクを冒すべきではないという意見でした。
本省サイドは、関税交渉とは別問題で、かつ明白な差別条件を要求して、応諾しなければ関税交渉を成立させないというドイツの態度には承服しかねるところがありましたが、関税交渉の円満解決のため、セーフガードに関する公文案を作成し、5月24日に萩原公使からドイツ代表へ手交しました。その結果、翌25日にドイツとの関税交渉は妥結に至りました。
その後、ドイツは投票を留保していましたが、7月18日付け口上書で、日本が公文交換に承諾することを条件に、日本加入議定書への署名に同意しました。そして8月9日、両国はセーフガードに関する秘密公文の交換を完了しました。これによりドイツは8月11日の期限間際で日本加入に賛成投票を投じました。ただしドイツは、議定書に基づく譲許の適用を事務局に通報せず、1年以上にわたり日本に対してGATT税率の適用を実施しませんでした。
(採録文書数21文書)
(2)インド
インドは発展途上にある国内産業を保護するため、競合する安価な日本品の対印輸出に対して、日本に何らかの配慮を求め、対日関税交渉には参加しませんでした。そこで萩原公使は1955年3月上旬、「通商上に困難があればGATTの規定により協議の用意があり、インドが関税交渉に参加すれば協議の機会を提供する」旨をインドへ提示しました。しかしインドは萩原提案だけでは実質的保証とはならないとして、関税交渉に応じませんでした。
そこで日本はバンドン会議に出席中の高碕代表が4月19日、ネール首相と会談し、GATT問題での日本支持を訴えました。その際、インド商工次官は、産業保護について書面での保証を求めたため、日本は5月上旬に書簡案を作成して提示しましたが、インドはこの書簡案に不満足でした。そこで日本は6月1日、書簡案に「インドの特定産業について重大な損害が発生した場合、日本は最大限の考慮を払う」旨を追加した最終案を提示しましたが、これにもインドは満足しませんでした。ニューデリーの三宅臨時代理大使は、インド側と協議して修正案を作成し、6月5日に本省に請訓しましたが、対日関税交渉がインド不参加のまま終了したため、同10日、書簡案の交渉は打ち切りとする旨の回訓がなされました。
日本はその後、6月1日の最終案ないしはGATT23条の新解釈のフォーミュラであれば、協議に応じても良いというスタンスをとりましたが、インドとの交渉は平行線をたどり、8月4日、インドは35条を援用して、日本加入には賛成票を投じました。
(採録文書数20文書)
六 GATTへの正式加入
1 加入議定書への署名
1955年3月下旬、GATT事務局において日本加入議定書の草案が作成され、4月19日、関税交渉参加国を構成員とする委員会で採択されました。議定書には関税交渉に参加した既締約国が今回の関税交渉で認めた関税譲許の表(附属書A)と、わが国が既締約国に対して認めた関税譲許の表(附属書B)が添付されることとなっていました。また、日本加入を決議する加入決定案も同時に作成されましたが、加入決定案は議定書とは分離されました。これは関税交渉に参加しない国に対して加入支持を容易にするねらいがありました。
6月7日、関税交渉が完了すると、同日中に、日本をはじめ、カナダ、デンマーク、フィンランド、イタリア、ペルー、スウェーデン、ウルグアイが署名し、翌8日には米国が署名しました(6月28日時点で日本を含む14か国が署名し、署名が開放された年末までに関税交渉参加17か国すべてが署名を完了)。
なお、議定書にはサンフランシスコ平和条約第3条の島嶼に本議定書が適用されない旨が規定されましたが、これは沖縄があくまでも日本の領土であることと、日本が正式加入しても日本としては沖縄にはGATTの規定および譲許を適用できないことを明らかにしたもので、萩原公使の意見で議定書に加えられた規定でした。
(採録文書数23文書)
2 加入決定案への賛成投票要請
1955年6月7日、関税交渉完了とともに、GATT事務局は全締約国に対して日本加入決定案への賛否を8月11日までに投票するように要請しました(締約国の3分の2の賛成をもって日本の加入が成立)。6月28日、外務本省はまず関税交渉参加国に対し賛成投票を要請するよう関係公館へ訓令を発し、その後、不参加国にも順次、賛成投票の慫慂を試みました。
7月29日時点で賛成投票国は15か国となりましたが、この中には35条を援用して賛成投票を行った仏国が含まれていました。また7月29日には英国が同様に35条を援用して賛成投票を行う意向を内密に通報してきました(8月8日投票)。さらに8月3日にはインドが、8月8日にはベルギーとルクセンブルグが35条を援用して賛成投票しました。
日本はGATT事務局と相談して、投票期日の8月11日には投票結果のみを発表し、35条援用については援用通告期限の9月10日直前まで公表しないこととし、援用国に対しても期限末期まで援用を公表しないよう配慮を求めました。
(採録文書数45文書)
3 正式加入の実現
1955年8月8日、日本はGATT加入に必要な賛成票を獲得しました。8月11日の最終結果は、賛成33、棄権1でした(棄権したのは南アフリカで、同国は翌12日に棄権を賛成に訂正したため全会一致となりました)。またGATT35条援用国は、期日の9月10日には14か国(イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、南ローデシア、インド、キューバ、ハイチ、ブラジル、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、オーストリア)に達しました。
9月10日、日本加入議定書が発効し、日本はGATTの正式締約国となりました。同日以降、日本の関税は現行国定税率とGATT税率の二本立てとなり、GATT税率の適用を受ける国は、35条を援用しないGATT締約国(20か国)、サンフランシスコ平和条約の批准国で日本に対し最恵国待遇を与えている国(英国、ベルギー、オランダなど18か国)、二国間平和条約締結国(中華民国、インド)など50か国で、相互条件確認の上でルクセンブルグ、オーストリアにも適用されることとなりました。従って、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、南ローデシア、キューバ、ハイチ、ブラジルの8か国には、これらの国の日本に対する関税上の待遇に対応して、国定税率ないしは複関税を課すこととなりました。
正式加入後は、35条援用国に対する35条早期撤回が課題となりましたが、8月31日、湯川経済局長と会談した米国務省幹部は、援用に至った各国の事情はまちまちであり、一律に同じアプローチで臨むことは難しく、自然解消するまで時期を待つのが良いとの意見を述べました。また9月22日、萩原大使は会期間委員会で、次回締約国会議において35条援用問題を討議すべきと提案し、異議なく採択されました。日本は以後、35条撤回に向けた外交努力を続けていくこととなります。
(採録文書数33文書)