外交史料館

I 近代オリンピックとの出会い

概説と主な展示史料

令和3年7月12日

 (注)画像をクリックすると、アジア歴史資料センター(アジ歴)のサイト別ウィンドウで開く上で、展示史料の画像をご覧いただけます。

 サイト上では、展示史料を含む関連文書が一括で掲載されています。画像下にあるアジ歴●コマ目という情報を参考に展示史料をご覧ください。

第一回オリンピックアテネ大会と日本の関わり

 「近代オリンピックの父」と呼ばれるクーベルタンは、スポーツによる人格形成、スポーツの国際交流による世界平和の実現を思い描き、古代オリンピックの近代における復活を訴えました。
 こうして、1896(明治29)年、第一回近代オリンピックがギリシャの首都アテネで開催されました。本大会に日本人競技者は参加していませんが、前年の夏、オリンピックに日本陸軍から銃器を出展してもらえないか、という依頼がギリシャから寄せられました(展示史料1)。第1回オリンピックでは、射撃競技が開催されることになっており、これにあわせて、ギリシャの射撃委員会が、各国の様々な銃を集めて展示することを企画したためです。
 この要望に応じ、陸軍省は、村田連発銃1挺、擬製実包30発を出展しました。第1回アテネ大会に、日本は銃器の出展という形で関わりました。

嘉納治五郎の国際オリンピック委員会(IOC)委員就任

 1908(明治41)年、クーベルタンは、ジェラール駐日フランス大使に、国際オリンピック委員会(IOC)の日本代表委員の選定を依頼しました。ジェラール大使は、講道館柔道の創始者であり東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長でもある嘉納治五郎(かのう・じごろう)が適任であると考えました。そこで、ジェラール大使は、嘉納を委員として推薦しても構わないか、小村寿太郎(こむら・じゅたろう)外務大臣宛に文書を送りました(展示史料2)。これを受け、外務省は文部省にも問い合わせを行った上で、差し支えない旨をジェラール大使に回答しました。
 1909(明治42)年のIOC総会で嘉納は日本人初(アジア人としても初)のIOC委員に選出されました。

日本人選手のオリンピックへの初参加

 IOCは1912(明治45)年にストックホルムで開催されるオリンピックへの日本の参加を嘉納に勧めました。これを受け、嘉納は1911(明治44)年に国民体育の普及とオリンピックへの参加を担う組織として大日本体育協会を設立しました。そして翌年、三島弥彦(みしま・やひこ)、金栗四三(かなくり・しそう)の2名が日本人選手として初めてオリンピックに出場しました。
 短距離の三島は100メートル、200メートル予選最下位、400メートルは予選通過したものの疲労のため準決勝を棄権しました。また、マラソンに出場した金栗は日射病のため倒れてしまい、意識が戻った時にはすでにレースは終了していました。
 このように、初めての参加は満足いく結果とはなりませんでしたが、国際的なスポーツ大会への日本の初参加として、大きな一歩となりました。
 嘉納は次の大会に備えて、国内で陸上大会と水泳大会を開催し、日本人選手の実力を上げていくこととしました。1916(大正5)年の大会は第一次世界大戦により中止となりましたが、1920(大正9)年のアントワープ大会では、テニス競技で初の銀メダルを獲得しました(男子シングルスの熊谷一弥(くまがい・いちや)、男子ダブルスの熊谷、柏尾誠一郎(かしお・せいいちろう)が獲得)。

オリンピックに出場した外交官

 1924(大正13)年のパリ大会には、当時、駐英大使館に勤務していた岡崎勝男(おかざき・かつお)という外交官が出場しています。岡崎は、東京帝国大学在学中から陸上競技で好成績を残しており、外務省入省後も極東選手権競技大会等に出場していました。オリンピックでは、5000メートルに出場し、予選第1組で2位という成績を残しています。同大会に一緒に出場した選手には、金栗四三や1928(昭和3)年のアムステルダム大会で日本人初の金メダリストになった三段跳びの織田幹雄(おだ・みきお)がいました。
 なお、岡崎はその後、外交官としてのキャリアを重ね、1945(昭和20)年9月の第二次世界大戦の降伏文書調印式には重光葵(しげみつ・まもる)外務大臣等とともに日本側代表団の一員として出席しています。また、1952(昭和27)年から1954(昭和29)年には外務大臣を務めました。

冬季オリンピックへの参加

 1924(大正13)年、IOC後援のもと、フランスのシャモニー・モンブランで試験的に冬季競技の大会が開催されました。この大会が成功を収めたため、翌年、IOCはこの大会を第1回冬季オリンピックとして“追認”し、1928(昭和3)年に第2回大会をスイスのサンモリッツで開催することを決定しました。この第2回冬季大会のスキー競技に日本から6人の選手が出場しました。これが冬季オリンピックへの日本の初参加となりました。

人見絹枝の活躍

 また、同年の5月から8月にかけて、アムステルダムにおいて夏季オリンピックが開催され、人見絹枝(ひとみ・きぬえ)が日本人女子選手として初めて出場しました。
同大会には43名の日本人選手が参加しましたが、女子選手は陸上競技に出場した人見1人でした。人見は女子の個人種目すべてにエントリーし、800メートルで銀メダルを獲得しました。
 女性がスポーツをすることが珍しい時代にあって、女子選手への偏見も厳しい中、人見は海外スポーツ事情の紹介、後進の育成、生涯スポーツの重要性についての普及啓発などを精力的に行い、今日の女性スポーツの礎を築きました。

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