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第2章 パレスチナの政治・経済・社会動向

2-1 政治動向

 パレスチナは、政治的、社会的に過渡期にある。PLOは、民族解放組織から国家組織への変遷過程にあり、ゲリラ組織から行政組織へのプロセスには、かなり時間が必要である。またパレスチナの政体、法的な権限、領土などは中東和平交渉での結果に規定されるため、交渉が決着するまで、不確実要素も多く、まざまな側面での混乱も不可避だろう。しかし、パレスチナ人が近い将来国家あるいは準国家を持つことは、中東和平交渉での既成の前提となっている。

パレスチナ側の政治的2重構造

 パレスチナ紛争は、交渉当事者なき紛争と呼ばれた。イスラエルが、PLOをパレスチナ人を代表する政治組織として承認することを拒否した結果、紛争は存在するが認知されたパレスチナの政治的代表が存在しない変則的な状況が継続した。こうした歪みは、93年9月10日、イスラエルがPLOを交渉相手として承認(相互承認)したことで解消された。

 しかし、イスラエルとパレスチナの交渉が開始され、暫定自治が開始されると新しい混乱が生まれた。パレスチナには、パレスチナ暫定自治機構(PA)とPLOという2つの政治組織が存在することになり、内部的な2重構造が生まれた。現在、イスラエルと交渉しているのは外交権を持つPLOであるが、交渉の結果の受け皿はPAとなっている。イスラエルとPLOの交渉の結果、パレスチナ側に付与される実権は、すべてPAが受け皿である。現在、PLOとPAは一部が重複し、他の部分は別組織となっている。将来的には、PLOはパレスチナ暫定自治機構に吸収・合体されると思われるが、最終的な段階にいたるまでは相当時間がかかるだろう。

 パレスチナ側の直面する社会問題は、ゲリラ組織であるPLOを、実務をになう行政機構にどう再編成するかである。コマンド要員たちは、警察官などとして再雇用されているが、実務的な官僚機構を構築し、国家として総体的な運用するに至るまでには時間が必要である。欧米で教育を受けたパレスチナ人、在外の政府機関で出稼ぎ労働者として実務を経験したパレスチナ人たちが、PAの中堅幹部として活躍しつつあるが、政治レベルでは実務的調整が弱く、各省庁内、あるいは異なる省庁間での調整は不十分のようである。99年末時点でもパレスチナ憲法は成立しておらず、法整備もこれからである。

中東和平交渉をめぐる対立

 94年の暫定自治開始後、アラファト議長がガザを本拠地とし、チュニスの要員の多くもパレスチナに帰還した結果、組織としてのPLOは形骸化しつつある。現行中東和平交渉に反対しているのは左派系の組織(PFLP、DFLP)を中心とする勢力は、ダマスカスを根拠地としているが、これらの組織は、PLOをボイコットすることで反対の立場を表明している。これはPLO時代の主流派批判の方式である。こうした方法は状況に沿わないものになっている。99年に入り、左派系組織の中には、アラファト議長との政治対話を通してPAに接近する動きが出ている。和平反対勢力は、96年のパレスチナ選挙もボイコットしており、あくまで外部から批判する立場であったが、次第に、パレスチナ自治地域内で野党をして活動する姿勢を強めつつある。99年末に、イスラエルとシリアの交渉が再起動したこともあり、シリア在住の中東和平反対勢力は、パレスチナ地域に戻り、合法野党として活動する以外に有効な選択肢を見出せない状況になりつつある。

政治と宗教組織の曖昧な関係

 PLOとPAの枠の外にある主要な政治組織は、宗教系のハマスとイスラム聖戦機構である。イスラム聖戦機構は、現在ではあまり大きな影響力はないが、西岸・ガザでは、ハマスが一定の影響力を保持している。ハマスは、選挙で出たことがなく、具体的な影響力の指標はない。世論調査では、ハマス支持者は概ね10%前後であるが、若い世代での支持率は高く、大学内の選挙では、PLOの主流であるファタハと拮抗する支持を得ている。ハマスは、現在の中東和平交渉の枠組み自体を認めておらず、交渉の結果も拒否する姿勢を維持している。しかし、PAが現実に存在し、ハマスが暫定自治地域内で活動する以上、様々な面でハマスとPAの間に軋轢が生まれている。ハマスは、PAを自分と同等の政治組織と見なしている。PAはハマスをパレスチナ自治地域内に存在する1政治組織と見なし、ファタハやパレスチナのその他の政治組織と同様に、パレスチナ「国家」の中にある限り、格上の「政府」の決定に従うべき存在と見なしている。しかし、ハマスは、こうしたPAの国家としての政治的な権威を承認していない。パレスチナ社会で、政治組織と宗教組織がどのような関係になるのかは、依然、試行錯誤の段階にある。常識的に推定すれば、ハマスは、将来的には、政党を創設して政治的影響力を行使するか、宗教組織として政治の立場から離れた場所から世俗政権であるパレスチナ暫定自治機構を批判するか、どちらかの選択肢を選ぶ必要があるだろう。

中東和平交渉の進展状況

 パレスチナ暫定自治は、94年5月にガザと西岸のエリコで開始された。その後、95年秋には、西岸での拡大自治に合意、年末までにヘブロンを除く西岸の主要都市でのイスラエル軍の撤退が終了した。97年1月には、ヘブロン合意により、イスラエル軍はヘブロン市内で部分的な再配置を実施した。その結果、パレスチナの人口密集地は、ヘブロンを除き暫定自治地域になり、人口の大部分は自治区に居住するようになった。しかし面積的には、パレスチナ暫定自治機構の統治範囲(直接自治のA地域、イスラエルとの共同統治のB地域)をあわせてもまだ4割以下である。その結果、現状では、パレスチナ側の自治地域は、ガザではある程度面としての広がりを持つが、西岸では自治は飛び地状態である。

 パレスチナ暫定自治は、99年5月までに最終地位交渉で合意に至る予定であったが、実際の交渉は、数年遅れで進展している。99年9月4日、イスラエルとパレスチナは、シャルム・エル・シェイフ覚書に調印した。同覚書は、最終地位交渉開始前の段階で履行すべき項目の確認と、最終地位交渉の開始と合意達成日時を明示した。同合意では、最終地位交渉の枠組みについて2000年春までに合意し、最終地位交渉の合意達成目標は、2000年9月13日とされている。同合意に従い、9月13日最終地位交渉も開始された。西岸とガザを結ぶ安全回廊は南側の回廊が99年10月25日に開通し、11月初旬北回廊の交渉が開始された。囚人釈放(第1次:99年9月9日199人。第2次:10月15日151人。第3次:12月29-30日31人)、西岸での再配置(第1次99年9月10日、第2次2000年1月5日)実施されている。99年12月にイスラエル・シリア交渉が再開されたこともあり、イスラエルとパレスチナの交渉も、テンポを速めつつある。

2-2 社会動向

 パレスチナ人たちは、過去の歴史的経緯から、様々の異なる環境に置かれてきた。その結果、モザイク的な社会を構成している。こうした状態の中で、パレスチナ国家創設へ向けての過渡期的現象も加わり、社会的な混乱は、当面続くだろう。

 パレスチナ社会の大きな問題としては、西岸・ガザ内のパレスチナ人と在外のパレスチナ人の関係がある。在外のパレスチナ人たちは、難民であり、イスラエルによる追放者であり、出稼ぎ労働者である。一部在外のパレスチナ人たちは、欧米、湾岸諸国で成功を収めた富裕層であるが、他の一部のパレスチナ人たちは、厳しい難民生活を余儀なくされている。パレスチナ難民の主体は、1948年の第一次中東戦争の際発生した。パレスチナ内と外のパレスチナ人たちは、すでに数世代の期間、異なる環境にある。難民の世代は、3世、4世の世代が中心であり、パレスチナに対する郷愁はあるとしても、価値観や生活様式に相当の乖離が生まれている。93年の暫定自治開始以降、PLOのメンバーとしてパレスチナに戻った帰還組と、地場の西岸・ガザ組の間には、かなりの価値観の相違がある。

 また西岸とガザの住民たちを含め、パレスチナ人たちは自分たちで国を運営した経験がない。また西岸とガザの住民は、歴史的にある個々の地域間のライバル意識を依然保持しており、地域を越える政治的枠組みに親しみが薄い。また、西岸とガザでは、自然環境や置かれている政治・経済・社会状況にかなりの相違がある。一般的には、ガザは宗教的色彩が強く、西岸は開放的である。パレスチナ全体についての一般的な意識はあるとしても、パレスチナ「国家」の国民との意識が育成されるには、具体的な枠組みができた後、さらに時間が必要かもしれない。

 西岸・ガザのパレスチナ人は、イスラエルの占領下にあるため、イスエルとの関係を密にすることを強制された。その結果、パレスチナ人たちは、占領者としてのイスラエルのみならず、イスラエルの社会に対する見聞を広めた。イスラエルは、占領者であるが、中東では唯一の欧米レベルに近い民主主義国家である。その結果、パレスチナ人たちは、アラブ世界では、実際に機能する民主主義にもっとも日常的に接した人々である。また、占領者であるイスラエルに対抗するためパレスチナ側は、西側基準の人権意識でイスラエルを非難してきた。その結果、パレスチナ暫定自治機構は、アラブ基準ではなく、欧米基準に近い民主化の意識を持つ住民をかかえることになった。一方、アラブ諸国にいたPLOは、伝統的なアラブ社会の意識を持っており、両者の間では、文化、社会的な摩擦も発生している。皮肉なことに、パレスチナ警察について、地場のパレスチナ人たちの間では、イスラエル軍より怖いとの印象も生まれている。

 社会的問題としては、今後貧富の差がより明確になる可能性がある。パレスチナ社会は、伝統的アラブ社会であり、貧富の差は激しい。しかし、イスラエル占領下にある状態では、あからさまな貧富の差は顕著化しなかった。しかし、暫定自治が開始されより普通の生活状態が始まり、パレスチナに対する投資が推奨される中で、これまで内在化されてきた貧富の差が日常的な風景として顕著化しつつある。新しい住宅の建設、新車の購入、新しい施設や店の開業など経済が活発化する反面、こうした機会を甘受できない貧困層の存在が浮上しつつある。ガザや西岸で、物乞いするパレスチナ人が出現している。これは、67年から90年代はじめまでの西岸・ガザではなかった現象である。

 パレスチナ人の経済的、社会的不満が表面化した事件として、99年11月末の基礎物資値上げをめぐる騒動、アラファト議長の専制と腐敗に対する抗議声明の公表などが発生した。こうした一般大衆の政治的、経済的不満は、今後も時折噴出するだろう。2000年1月中旬、PAは、金融政策を監督する高等開発評議会(議長はアラファト議長)を創設した。経済政策の透明性を高めるための措置で、援助諸国が要請していた機関であるが、パレスチナ内部の経済運営に対する不満に対応する目的もあると推定される。

2-3 経済動向

 西岸とガザのパレスチナ人たちは、暫定自治開始後、「和平の経済的恩恵」を受るどころか、逆に経済的状況は悪化した。これは、イスラエルが爆弾テロのため、暫定自治開始後、パレスチナ人の出稼ぎ労働者を極端に規制、西岸・ガザを封鎖した結果である。イスラエル国内でハマスなどによる爆弾テロが発生した結果、労働党政権(当時)は、従来の政策を劇的に変更、パレスチナ人労働者の代りに外国人労働者を戦略的に導入した。その結果、10万人以上いた合法、非合法のパレスチナ人労働者数は、数万人に激減した。 パレスチナ経済は、イスラエルから商品を輸入し、出稼ぎ労働者が稼いだ賃金で支払う構造が基本である。この基本的構造が崩壊したのは、皮肉にも暫定自治開始以降だった。イスラエルと西岸・ガザの間は、長期間閉鎖状態が続き事態となった。

 一方、96年政権についたネタニヤフ前首相は、パレスチナ人出稼ぎ労働者を入れ、外国人出稼ぎ労働者を追い出す戦略を取った。99年7月成立した労働党主導のバラク政権は、パレスチナ人出稼ぎ労働者の規制をさらに緩和し、99年には約12万人のパレスチナ人出稼ぎ労働者がイスラエル内で勤務している。

 イスラエルの西岸・ガザ封鎖政策の緩和、出稼ぎ労働者政策の変更の結果、93年以降低迷したパレスチナ経済は、98年頃から回復基調にある。国連の数字では、98年の経済成長率は4.1%になり、99年は4.5%程度になると推定されている。

 中東和平交渉が進展しない時でも、パレスチナへの資金の流入は確実に増加している。西岸やガザを訪問すれば、社会的インフラ、住宅、車などに投資された資金は、視覚的に容易に確認できる。外国からの援助、在外からの投資は増加したとしても、産業基盤強化になっているかは疑問である。99年には、雇用状況はかなり改善しているが、民間経済部門や輸出業種への投資は活発ではない。工業団地の創設などが行なわれているが、現在の時点で、輸出産業の育成には至っていない。西岸とガザが、食糧を自給できる可能性はない。従って、パレスチナは、輸出あるいは観光産業で外貨を獲得し、食糧を輸入する以外に経済的に自立することは不可能である。外貨獲得のためのインフラ作りは、まだ開始されたばかりである。

 パレスチナは、イスラエルとの最終地位交渉の結果が出ない限り、主権のかかわる経済面での戦略的インフラ設備を保持できない。空港、港湾などは、インフラが建設されたとしても運用面で大きな足かせがかけられることになる。イスラエルの港湾を経由しないで直接外国と通商を行うことはパレスチナ側の悲願であるが、当面は限定的なものになるだろう。現在の西岸とガザのかかえる最大の問題は、両地域のリンクである。西岸とガザの間の人と物資流れをイスラエル側が規制しており、パレスチナ側の不満は大きい。安全回廊の開設など、パレスチナ人たちが西岸とガザ間を、比較的自由に往来できる環境を早急に創出する必要がある。法律面では、パレスチナ側の経済関係法律の策定が遅れている。また自治地域が、西岸では飛び地状態であり、小さな地域であるにも係わらず、多くの異なる法律がばらばらに適用されている。こうした非効率性を修正するためには、その前提として、最終地位交渉の終了を待つ必要がある。

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