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第1部 沖縄感染症対策イニシアティブ(IDI)の背景
―世界の感染症は今-

第1章 グローバルな感染症問題

1.発展途上国における感染症問題

 過去50年間、人々の健康は大きく改善された。1950年には生まれた者の4人に1人は5歳を迎えることはできなかったが、今日、その割合は10人に1人となった。しかしながら、その改善の多くは先進国、中進国においてなされ、世界的な格差は未だに大きい。その格差の大きな原因として感染症が挙げられる。1990年の時点で、死亡と障害により健康 が失われた生存年数(Disability Adjusted Life Years:DALY)を推定した研究である世界の重要疾患(Global Burden of Disease)では、全世界の13.8億DALYのうち途上国が12.2億DALYを占め、その原因としては、下気道感染症、下痢疾患、周産期疾患、精神病、結核、麻疹、マラリアが上位7疾患を占める。うち、結核、麻疹、マラリアでの合計1.1億はDALYであり、先進国すべての1.6億 DALYに近い。今日のエイズによる途上国におけるDALYは結核、マラリア、麻疹よりも大きく、エイズを加えるとこれらの特定の感染症によるDALYは、先進国すべてのDALY超えると推定される。また、5歳以下の小児の死亡の半分は予防できる疾患であり、急性呼吸器感染症、下痢症、エイズ、麻疹、マラリアによる。
 疾患構造は時とともに変化する。現在の重要疾患は、エイズ、結核、麻疹、マラリアであり、沖縄感染症対策イニシアティブ(以下IDI、第3章 1.参照)の主な対象疾患とほぼ重なっているが、2003年にはSARSが新たに発生するなど、疾病構造には変化が見られ、今後、感染症対策を進めるうえで、重要な疾患の発生動向を追跡し、その疾患への対応が必要となる。
 世界的な疾患の状況は、地域ごとに違いが見られる。サブサハラ・アフリカ地域では、エイズによる影響が圧倒的に大きいが、それ以外の疾患については、1993年の世界銀行の世界開発報告(World Development Report:WDR)によると、DALYの大きさはマラリアが最大で1,541万DALY(急性呼吸器感染症1,539万、下痢疾患1,462万より大きい)、次いで麻疹775万DALY、結核621万DALYとなる。1993年のWDRによると、中国での感染症は結核244万DALYが最も大きく、次いで寄生虫である回虫が187万DALYである。インドでは麻疹(485万DALY)と結核(452万DALY)が大きい。中国及びインドのいずれの国でもマラリアは問題ではない。また、中国及びインドではエイズが急速に増加しつつあり、インドでは、大きな問題となりつつある。その他のアジアでは、結核377万DALY、回虫157万DALY、マラリア125万DALYと続くが、タイなど一部の国ではエイズが最大の疾患となっている。
 IDIが主な支援対象とした各疾患についてその問題の大きさを以下に示す。

1.1 エイズ

 エイズは1990年以降大きな問題となってきているため、上記DALYを用いた問題の大きさの表現では過小評価されているといえる。年間のエイズによる死亡者数は現在300万人程度と推定され、すでに結核(年間死亡者200万人)を上回って単一の病原体による死亡としては世界で最も深刻な疾患となった。2002年末現在、HIV感染者数は4,000万人を超え、年間500万人の新たな感染者が発生している。
 サブサハラ・アフリカでは、1970年代後半あるいは80年代前半に流行が始まり、2002年末現在、成人人口の8.8%にあたる2,940万人がHIV陽性で、世界のHIV感染者の約70%を占める。また、一般成人におけるHIV感染率が5%を超える世界24カ国の内、23カ国がサブサハラ・アフリカの国々であり、さらに、うち8カ国はHIV感染率が15%を超えるなど、世界の中で最もHIV感染が蔓延している地域である。エイズ感染は特に、異性間性交渉により拡大している。アフリカのエイズによる年間死亡者数は240万人であり、エイズの蔓延により平均寿命の短縮がいくつかの国で見られる。1991年と2003年を比較すると、ザンビア(49→36才)、ジンバブエ(60才→39才)、南アフリカ(63才→47才)、モザンビーク(47才→31才)、ナミビア(58才→43才)、ケニア(59才→45才)、レソト(56才→37才)、ボツワナ(68→32才)、マラウイ(45→38才)、コートジボワール(52才→43才)などが大幅に短縮した国である。
 ラテン・アメリカでも、同時期に流行が始まり、2002年末現在、150万人がHIV陽性者である。感染ルートとしては、男性間性交渉、注射薬が主であり、特定の個別施策を必要とする層では流行が見られるが、女性、子供の感染者は比較的少なく、成人人口のHIV陽性率は0.6%である。カリブ地域でも、同時期に感染が始まり、異性間性交渉による感染が主で2002年末現在の感染者数44万人、成人人口に占める割合は2.4%と高くなっている。南アジア、東南アジアでは1980年代後半から急速に感染が増え、600万人がHIV陽性と推定され、成人人口の陽性率は0.6%である。中近東・北アフリカでも1980年代後半から急速に感染が増え、55万人がHIV陽性、成人人口の陽性率は0.3%である。東アジア、太平洋地区では1980年代後半から急速に感染が増え、120万人がHIV陽性であり、成人人口の陽性率は0.1%である。これらのアジア地域及び中近東・北アフリカ地域は、他の地域に比して流行が遅く始まり、まだHIV陽性率は高くないが、若年者におけるエイズの知識が十分ではなく、今後陽性率の急速な増加の可能性がある。

1.2 結核

 推定される結核患者は毎年800-900万人発生しているが、現在、各国の結核対策プログラムで把握している人数は300-400万人と半数弱である。そのため、結核対策の恩恵に浴さない患者を中心に毎年200万人弱の結核死亡者が出ていると推定される。罹患率の高い地域は、サブサハラ・アフリカ、南アジア、東南アジアの一部であり、患者数はインド、中国に多い。サブサハラ・アフリカ地域ではエイズに伴って、また、社会主義から市場経済に移行した後の旧ソ連及び一部の東欧諸国では結核の増加が見られている。

1.3 マラリア・寄生虫症

 毎年3-5億人にマラリアを発症していると思われ、100万人以上(その多くは小児)が死亡している。これらマラリアによる発病、死亡の90%はアフリカ地域で起こっている。アフリカでは、マラリアが5歳以下の死亡の20%、疾病による全疾病の中での10%を占めている。
 フィラリアは、世界で毎年1億2000万人以上の人々が感染し、その内の約4000万人以上の患者に身体の機能障害や四肢の変形が起こっていると推定されている。フィラリア患者の3分の2はインド及びアフリカ地域で占めている。住血吸虫症及び土壌媒介腸管寄生虫症は、現在世界で約20億人が感染しており、その内約3億人で重篤な症状をもたらしていると推定されている。

1.4 ポリオ

 全世界のポリオ報告数は、1988年の35,251件から2002年の1,919件まで減少したが、実際にはこの数の約10倍は存在すると推測されている。2002年の時点でポリオの発生を報告している国は7カ国(インド、パキスタン、アフガニスタン、ニジェール、ナイジェリア、エジプト、スーダン)である。1994年にアメリカ大陸、2000年に西太平洋地域、2002年にヨーロッパ地域でポリオの根絶が宣言された。一方、インドやミャンマーを含む南アジア(WHO地域区分による)やアフリカ地域では、患者発生件数は激減しているものの撲滅には至っていない。2002年の北インド地域など、その減少が一時停滞していた地域も見られる。特にインドは、近年世界で発生するポリオ患者の8割以上を占めており、インドにおけるポリオ撲滅が世界におけるポリオ撲滅のための鍵となっている。

2.感染症と貧困

 健康はそれ自体が固有の権利をもつ目標であり、同時に、健康は経済発展と貧困削減の重要な因子となる。多変量解析により、他の条件が同じとする場合、平均寿命の延長は、一般的には経済成長率の増加と関連している。しかし、東アジア地域と比較し、アフリカ地域における低成長を分析したところ、経済的政治的要因よりも、疾病とその影響での人口動態と教育水準の影響が大きいことが示されている。
 例えば、結核及びエイズの多くは15-45才の(労働力)生産年齢層が罹患者であり、この年齢層人口を失うことによる経済的な損失は大きい。
 マラリア蔓延国では、マラリア医療費はGDPの1%に達するが、疾病による労働力の喪失、学業の中断、高い幼児死亡に対する出生率の増大に起因する貧困の増大などを考慮すると、その8倍(GDPの約10%)が失われている。
 感染症が貧困の重要な原因の一つであることは言を待たない。

3.感染症と国際化

 個々の感染症は、それぞれ特徴のある感染様式をもっている。例えば、HIV感染は性交ないし血液を介して人から人へ伝播し、結核は感染性のある肺結核患者から周りへ空気感染する。マラリアの場合は、マラリアに感染した人を吸血したある種の蚊が次の人を吸血することにより伝播する。その他にも、病原微生物を媒介する昆虫や小動物、魚介類の介在(中間宿主)の有無により、感染症は複雑な感染経路をたどるのが通常である。個々の感染経路に障害がないか、あるいは感染経路を促進するような要因があれば、感染症は拡大するわけであるが、これには人の行動様式と生態系とのバランスが大きく関係している。例えばHIV感染症の場合は、流行の初期には麻薬注射の回し打ちという行動を介して周囲に広がり、そこから複数との性交という行動を介してさらに拡大することが知られている。また、地域によっては売春行為を通じて広がり、さらに売春のクライアントの行動により感染が家庭にも持ち込まれる。売春の担い手は人身売買により国から国へと移動し、クライアントも長距離トラックや船員の例で見られるように国境を越えて移動する。途上国からの移民の多い欧米では、結核患者の多くは途上国からの移民である。また、経済的理由を含めた様々な原因により、治療途中で国境を越えて移動したために、結核治療が中断する例もある。他の中間宿主が介在する感染症では、食物等の交易を介して、あるいは動物の輸入や移動、場合によっては渡り鳥の介在等の要因により感染症は国境を越える。ある地域でバランスの保たれていた生態系に開発の手が入り環境破壊が進んだために、マラリア、住血吸虫、デング熱等の激増が周辺地域を巻き込んで生じた例もある。さらに、紛争の絶えない現代にあっては戦争の影響で多くの難民が生じ、感染症も拡大していく。感染症に国境はないのである。
 経済活動の活発化にともない、人とモノが短時間で世界を移動し、グローバル化が急速に進む現代においては、感染症を国境で阻止することは難しい。2003年、SARSが世界を震撼させたが、その他にも新しい感染症の問題は毎年のように生じており、対岸の火事として済まされないのが現代である。感染症がなくなったと一般に誤解されている先進諸国においても、院内感染の問題や、薬剤耐性菌出現の問題は常に生じている。感染症対策が遅れていると思われている途上国においても、抗生物質等が容易に入手できるために、微生物の薬剤耐性化は想像以上に急速であるといわれる。このように、経済活動の活発化と開発の促進、それに伴う人とモノの移動と行動様式の変容、さらに医療サービス普及の弊害を備えた現代には、感染症の拡大にとって都合の良い条件が揃っているのである。一方、“感染症は過去のもの”という誤解から、多くの先進国では感染症分野の人材が減少している。わが国も例外ではない。衛生環境の改善により、過去に多くの感染症が制圧され、人類は快適な市民生活を享受しているかに思われるが、グローバル化した現代は以前にも増して感染症の脅威に曝されているといっても過言ではないのである。これに対応するためには、感染症に対する認識を改め、情報の公開と共有、標準化した対応方式の採用等、国を越えたグローバルな対応が求められていると言えるだろう。

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