国際協力の現場から 06
ガザの平和と安定を目指して
~ JICAの取組を支える現地スタッフの闘い~

シーファ病院での贈呈式。右から、サヘル・ユヌスJICAガザ事務所員、カシーフ保健省国際協力担当、ガラビーヤ帰国研修員同窓会会長(写真:JICA)
日本は、1995年からパレスチナ自治区の経済および社会の自立化促進を通じた平和構築を目指して支援を行っています。支援事業はJICAパレスチナ事務所が、ガザ事務所とイスラエルにあるテルアビブ事務所、ヨルダン川西岸地区のラマッラとジェリコにあるフィールドオフィスの4か所を拠点に実施してきました。
JICAガザ事務所プログラムオフィサーのサヘル・ユヌスさんは、1999年の事務所開設当初から現在に至るまで、JICAガザ事務所の現地スタッフとして日本の支援事業に携わってきました。祖父の代からガザに住み、自身もガザで生まれ育ったサヘルさんは、当時通っていた大学の講義でJICAが世界各地で行ってきた支援を知り、関心を持つようになったといいます。そして大学卒業後、1998年に無償資金協力事業※1にエンジニアとして参加したことを機に、JICA現地スタッフに応募しました。
その理由をサヘルさんは、「日本人のエンジニアと一緒に仕事をする中で、物事を細かくとらえ、考える日本人の姿勢に驚くとともに、そのような考えを学ぶために日本人と働きたいと思うようになりました」と説明します。業務を開始した当時は、まだJICAガザ事務所はホテルの客室2部屋を間借りしている状態でした。
東京23区の6割程度の面積のガザは、北と東をイスラエル、南をエジプトに接し、海と壁、フェンスに囲まれていることから、「世界一大きな牢獄」といわれています。2007年にハマスが武力でガザを掌握すると、イスラエル政府はガザを封鎖し、人とモノの移動は厳しく制限されるようになりました。さらに2009年、2012年、2014年の度重なる紛争で、学校や病院などのインフラも破壊されてしまいました。

ガザの状況を視察するサヘル・ユヌスJICAガザ事務所員(左端)と大久保武在ラマッラ出張駐在官事務所長(右から2人目)(写真:JICA)
このような中、JICAの支援活動も大きな制約を受けてきました。技術協力プロジェクトや無償資金協力事業の実施、研修員を日本や第三国へ送り出すことには大きな困難を伴います。
「政治的な問題をJICAが解決することはできません。しかし、人々の苦しみや被害を軽減したり、取り巻く状況を改善したりすることは可能です」JICAがガザで支援を行うことの意味を、サヘルさんはこう話します。
たとえば、2014年の紛争の際に50種類以上の医薬品を主要な病院に送り届けたことは、JICAによる日本の支援が現地の状況を改善した事例の一つです。このとき、サヘルさんらJICAの現地スタッフは、全員が防弾チョッキとヘルメットを装着しながら支援活動に従事したといいます。
紛争後にはJICAから派遣された調査チームが復興ニーズを確認し、その結果を踏まえ、太陽光パネルを学校や病院に設置し電力を供給するとともに、配水管を整備し、水の届いていなかった地域へ給水を開始できるようにしました。また、これまでに電力と水道分野の技術者約80人を日本やヨルダンに招聘(しょうへい)し、JICAの能力強化研修を行うなど、人材育成にも力を入れています。
人の移動が制限されているガザにとって、技術者を日本やヨルダンに派遣できたことは大きな成果であり、ガザで生まれ育った彼ら自身にとって素晴らしい機会となりました。彼らは帰国後、ガザの発展に向けてそれぞれの職場で頑張っています。
しかし、イスラエルによる封鎖は現在も続いており、中東和平問題解決の糸口は見えていない状況です。サヘルさんは、今のガザを「暗黒時代のよう」といいつつ、それでも希望は失っていません。
「敗戦、そして阪神・淡路大震災や東日本大震災から復興した日本は、私たちにとって良いモデルです。日本がいかに国を再建し、平和を構築してきたかを私自身、日本での研修に参加し、学ぶことができました。それをガザの人々にも伝えたいと思っています。困難もありますが、私はJICA現地スタッフとしてその困難に立ち向かっていきたい」とサヘルさんはいいます。
ガザにあるイスラム大学は今年、ガザの発展に貢献した人を称えるためのサクセスストーリー賞を創設しました。その第1回受賞者に選ばれたサヘルさんの「平和のための闘い」は、これからも続きます。
※1 無償資金協力は、開発途上国に資金を贈与し、開発途上国が経済社会開発のために必要な施設を整備したり、資機材を調達したりすることを支援する形態の資金協力。