参加希望 国際協力について語ろう

ODAタウンミーティング in 三重(議事概要)

平成16年6月20日(日)
アスト津3階情報イベントコーナー


日時: 6月20日(日)13時~15時
場所: アスト津3Fイベント情報コーナー
出席者: 質疑応答のみ:
・松田 教男
(JICA中部所長)
パネリスト:
・三木 淳
(松坂南消防署消防救急救命士)
・アーナンダ・クマーラ
(鈴鹿国際大学国際関係学科教授)
・筒井 美幸
((財)三重国際交流財団専門員)
・安田 国彦
(外務省経済協力局民間援助支援室)
司会:
・町永 俊雄
(NHKアナウンサー)
議事概要:  以下の通り(なお、発言内容については事務局の責任の下にまとめたものであり、発言者のチェックを受けておりませんので予め御留意ください。)


(町永)
写真
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それでは早速ODAタウンミーティングを始めさせていただきます。私、今回の司会をさせていただきますNHKアナウンサーの町永と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 私は今年の3月末までNHKの名古屋の方に2年程勤務しておりましたので、ご当地は大変なじみ深い土地柄であります。いろいろとお世話になりました。現在は東京の方で、木曜日の情報番組で「お元気ですか日本列島」という3時間の地域の情報をつなぐ番組をやっていたり、あとは「福祉ネットワーク」という福祉番組をやっております。パンフレットにも書いてありますように、私は「おはようジャーナル」ですとか「教育トゥデイ」といった教育や生活情報にかかわる仕事をやっておりました。いろいろな難しい問題ですとか暮らしの実感からどうもこれはよく分からないなとか、何か先行き不安だなという、そんなところの延長線上に今回のテーマのODAがあるのではないでしょうか。ODAというと堅苦しく思えるのですが、国際社会の中で私たちの暮らしはどうつながっているのかというところを分かりやすくこれから皆さんと話し合っていきたいと思っております。
 全く別の話ですが、この間「お元気ですか日本列島」という3時間番組で、あの「冬のソナタ」のサンヒョク役をやっているパク・ヨンハさんに生出演していただきました。ご存じですか。大変好青年でありまして、その人が今、日本に来まして、生出演していただきました。大変でしたね。NHK放送センターのありとあらゆる入り口におばさまと呼ばれる年代の女性の方がぎっしりと詰め掛けていまして、つまりパクさんがどの入り口から入るか分からないから全部の入り口を張っているわけです。それで車から降りるとキャーとかいう声が出まして、大変なにぎわいでありました。放送中も、別に呼び掛けたわけではないのですがファックスやメールでいろいろな質問が来ました。あの「冬のソナタ」という韓国のドラマを見て、「ハングルを勉強したい」「韓国料理を勉強するようになりました」「友達と今度韓国へ行くことになりました」「今、CDで向こうの音楽を毎日流しながら家事をやっています」と。
 つまり、日本と韓国の間はこれまで近くて遠い国といわれてきて確かにいろいろな問題もあるのですが、例えばサッカーやこういった1つのドラマがごく一般の生活者の中にぐんと国というものを身近にさせる力があるんだなと。一般の生活者、特に日々の暮らしを一番支えているような年代の女性が、韓国に対して非常に親近感を持つ。これまで政治レベルや国家レベルで何とか解決しようとしていたのですが、それよりも1つのドラマが大きな力を持つという事は、多分国際関係の中の日本を考える上で大変大きな力になるだろうと思います。そういった意味では、今日いろいろとフェスタでやっているのを私、さっきぐるっと見たのですが、大変若い世代がやっていて、そこにご年配の方が入って一緒に和やかに話し合っている。これは三重の1つの取り組みの成果だろうとは思うのですが、大変心強いなと、そんなことも思いながら今回のODAタウンミーティングをさせていただくことになりました。
 のっけにODAタウンミーティングと申し上げましたが、もう23回になるのだそうですが、私も何回かさせていただいておりまして、これまではやはりODAの在り方を論じるという形で、長い、難しい、つまらないという三重苦にあげていたんですけれども(笑)、今年あたりから少しそれを変えようということで、これからご紹介しますが、実践している方を中心に来ていただきました。もちろん、それだけではなくて外務省の偉い方も来ていらっしゃるので、そのあたりバランスは取っているんですけれども。
 なぜODAタウンミーティングをするのかといいますと、今年は1つの節目であります。実は日本の国際協力の歴史というのは今から50年前、つまり国際協力50周年ということになります。これはパンフレットの方にも書いてあるかもしれませんが、今から50年前の1954年(昭和29年)、日本がまだこれから経済成長しようとするその前の段階で、コロンボ・プラン、これはアジアに対する技術協力を考えようという協力機構なのですが、ここに加盟いたしました。
 日本が加盟したのは今から50年前の10月6日であります。これをきっかけにして政府レベルのODA、経済協力というものが始まったということで、日本は今、有力加盟国になっております。これはアジア、それから太平洋諸国に対する技術協力・経済協力が行われているということで、これが1954年、今から50年前の10月6日なものですから、10月6日というのは国際協力の日となっています。多分このODAタウンミーティングはそれに向けての大きな第1歩、それが三重で行われるということになります。
 なぜこういうODAタウンミーティングをやるのかというのは、これから外務省の安田さんにもおいでいただいているのでお話しいただきますけれども、実は日本は2000年まで世界で一番ODAでお金を出していました。さまざまな形で経済協力をしていまして、これは私も仕事で向こうへ行ったりして現地の人と話をすると、協力された側の国は大変大きな感謝をしています。非常に日本に対して親近感を持っている。ですからアフガニスタンであれイラクであれ、日本に対しては非常にフレンドリーな感覚を一般の人たちは持っているのですが、そのことがどうも日本にうまく伝わってきていないのではないかと。どうもODAは無駄遣いだとか、あるいはちゃんと感謝されていないのではないかという、そういった側面もないわけではないのです。きちんとそのODAの成果というものをどうすればいいのか。あと、日本は不況でリストラに遭っているのに、そんなにお金ばかり出す必要があるのかという、これも素朴に思いますわね。
 そのあたりをどう考えればいいのかということは、理屈で言えば日本はいろいろな食料や資源は全部途上国から輸入して、工業製品を輸出して成り立っているわけですから、そうした国々がきちんとしていないと日本自体が困るということもあるのですが、そのあたりがどうもよくきちんと説明されていないのではないかというようなところもありまして、これはひとつODAというものをぜひ皆さんに理解していただこうということなのです。 そういうようなこともありまして、このODAタウンミーティングでは今日は後半皆さんからの質問も受け付けます。もう23回になっておりますので、そういった意味で皆さんの声を反映させる重要な場であります。つまり、政治の在り方でも一般の皆さんの声をどう反映させていくか、そして逆に我々の側もきちんと言って、そのことをチェックするという責任があろうかと思いますので、こうして皆さんにおいでいただいたことは、実は日本のこれからの冒頭申し上げた我々の暮らしの先行きは何となくこれでいいのかなと思っているのを1歩前へ踏み出す大きな契機になろうかと思っています。
 理屈ばかり申し上げました。そんな意味でこれから始めさせていただくということを申し上げました。
 今日は最初に、ここに来ていらっしゃる方、大変多彩な顔触れですので、あらかじめご紹介しておきましょう。
 まず、私のお隣です。地元の松阪から来ていただきました、松阪地区広域消防組合松阪消防署救急係長の三木淳さんです。よろしくお願いいたします。実は、去年のアルジェリアの震災の時にいち早く現地へ飛んでいきまして活動なさいました。今日はそのお話などを中心にしていただきます。
 そのお隣です。民族衣装をまとっていらっしゃいますが、筒井美幸さんでいらっしゃいます。ご自身、ドミニカの青年海外協力隊員としての経験もあります。そうしたことから今、地元で国際交流の在り方というものの草の根的な活動もなさっていますので、今日は楽しい話で、誰だってできる国際協力ということかどうか分かりませんが、そんなレベルのお話もしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 そのお隣です。アーナンダ・クマーラさん、スリランカの方でいらっしゃいます。鈴鹿国際大学国際学科の教授でいらっしゃいます。出店も出しておりますが、現在ご自身でタランガ・フレンドシップ・グループというNGOを主宰なさっています。国際協力について、ああなんだこうなんだと言っているという、つまらない駄じゃれを言って私はいつもひんしゅくを買っているんですけれども、実は私の番組でも、日本の学生は豊かであるのにほかの留学生に比べてちっとも勉強していないという辛口の批判などもしていただきまして、結構口うるさい方かなとも思っております。今日はご自身の活動も踏まえてお話をしていただきます。よろしくお願いいたします。拍手が大きいですね。
 そして、外務省の経済協力局民間援助支援室の安田国彦さんにもおいでいただきました。よろしくお願いいたします。お立場から、ODAのことについては全部自分自身の活動の中でどう考えているのかということについてもご報告し、また皆さんの質問にも答えるということになっておりますので、それではまず早速、ODAとは一体何かと。私が冒頭言いましたが、正確なところを、今どういうことが課題なのか、どういうことを目指しているのかというところを最初にお話をしていただきたいと思います。
 今回のタウンミーティングは最初に皆さんの報告があって、その後、1時間程皆さんからの質疑応答の時間を設けたいと思っております。それでは外務省の安田国彦さんにODAについて分かりやすくご説明いただきます。

(安田) 写真 皆さん、こんにちは。先ほど町永アナウンサーがおっしゃったことを私は聞き逃しませんでしたが、私は偉くありません。ヒラでございます。何でヒラが来たかというのは、先ほど町永アナウンサーがおっしゃったとおり、やはり私も以前のODAタウンミーティングというものには出たことも見に行ったこともないものですからよく分からないのですが、確かに偉い人が行って、ODAとは何か、ODA大綱とは何かという、ODA政策について非常に高尚ではあるんですけれども分かりにくい話をしていたのかなと。そういうところでもって、私たちの用語でいうと担当官レベルといいますが、要はヒラなんですけれども、やはりそのヒラとして実際にやっている人間が出て行って気楽な形でお話をしてくださいというような話があったものですから受けたという、そういう前提でお話を聞いていただければと思います。極力分かりやすくお話をするつもりではいますが、やはり役所の人間ということもあって多少分かりにくいことがあるかと思います。それは後ほど質問の時に聞いていただければと思います。
 冒頭、町永アナウンサーの方からばっちりおっしゃっていただいたので私はあまり言うことはないのですが、今年はODA、国際協力50周年ということでお話があったとおりです。一番最初の年は1954年、この時日本はお金はないけれども途上国の人々に伝える技術はあったということで研修員を受け入れて、それが16人だそうですが、あとは専門家を日本から途上国に28人派遣しているという、それが日本のODA元年であったということです。
 それから50年たって節目の年ということで、国際協力についてより多くの皆さんの理解や参加を促すためにいろいろな記念行事を行っていく予定でおります。具体的にはまだなかなか固まっていないところもありますが、これからたくさん行事予定が出てくると思いますので、外務省のホームページなどを見ていただければと思います。しかも今日の津でのタウンミーティングがその50周年記念事業の第1弾だというふうに聞いております。
 また、50周年記念事業については、NGOの方々が自分たちでやっている国際協力の成果や今後の取り組みについて紹介したいということがあれば、それに国際協力50周年記念事業という名前、冠を付けるということも私たちは歓迎しています。私たちはODA50周年の共通のロゴマークを使ってもいいという方針でやっていくということですので、そのあたりも詳しくは外務省の経済協力局の政策課に聞いていただくなりホームページで見ていただければと思います。
 さて、今日のODAタウンミーティングということで、ODAとは何かというのは多分皆さんほとんどご承知かと思いますが、説明させて頂きますと、ODAというのはOfficial Development Assistanceの略で日本語では政府開発援助といいます。世界中には、飢えや貧困に苦しんだり、食べ物が十分にないとか飲み水がないとか、教育を受けられないとか医療も満足に受けられないという人々が非常に多くいて、世界60億の人口のうち8割以上を占めているといわれています。それだけでなく環境問題やエイズの問題、デジタルデバイドなどという情報の格差の問題、そういう地球規模の問題も今すごくあるわけです。こういうような困った状態にある人たちが多数いる途上国に対して、国のお金で発展の手助けをしましょうというのが政府開発援助です。
 どういう分野でやっているかというのは非常に多岐にわたっていますが、主にいえば教育や保健医療の分野、あとは橋を造るといったようなインフラの分野や人材育成、人にいろいろな技術を教えるという技術協力の分野など、いろいろにわたっていますけれども、先ほどもおっしゃっていただきましたが日本のODAというのは世界各国からは非常に感謝されています。ODAに対する期待も大きいという中にあって、それでも、では、なぜ援助を行うのかという問題は確かにあって、最近は日本の経済や財政状況が非常に厳しい、だから人のことよりもまず自分たちの方に金を回すべきじゃないのかという声は確かにあります。
 そこら辺については、やはり日本は非常に今経済的にも豊かですし、産業も非常に盛んですね。その土台となっている原材料や食料、そういうものはほとんど途上国から来ます。そういう途上国が困っているという時に手を差し伸べて助けてあげるというのはやはり当然のことではないかなという非常に単純な話から始まって、やはり私たちに原材料や食料などを輸出してくれる国が非常に安定していて、そして発展するということは、ひいては私たちの国の安定と繁栄にもつながるのですということだと思います。
 日本も戦後、ユニセフ(国連児童基金)から65億円相当の学校給食の支援や医薬品なども送ってもらっていますし、これは借金ですが世界銀行という銀行からお金を借りて、そのおかげで東海道新幹線を造ったり東名高速も造ったということがありますので、かつて私たちが受けた恩に報いるということも、単純に考えてそういう考えもありなのかなと思っています。これははっきり確認できなかったのですが、世界銀行のお金を借りて造ったものに愛知用水も入っているということをどこかで読んだ記憶があります。
 もう1つ、最近ODAに対する批判の1つに、ODAは何をやっているかよく分からない、不透明だという声もあります。これについては確かにそのとおりだなということでODA改革を進めているわけですけれども、その一環でもちろんこのODAタウンミーティングというものがあって、外務省の担当者から話を聞くということもあります。それから、ODAの民間モニターという制度があります。これは、日本は支援総額で世界トップクラスですが何をやっているか分からないということで、ODAに携わる関係者の姿や事業の実態がどんなものかということを一般の方々にも見ていただけるように、平成11年からODAの現場を直接視察してもらって、その様子を後で意見や感想として提言してもらうという制度です。
 枚数は多くありませんが写真を用意していまして、それを見ていただきたいのですが、ケニアの写真です。こちらに背中を向けているのが民間モニター参加者の方々、それで多分その前で説明をしているのが、きっと日本の援助で造った建物の校長先生なのか何か分かりませんが、そういう現場を見ているという風景です。
 次は、これはまさに民間モニター参加者の方々です。これは多分インフラ関係じゃないかと思うのですが、橋とか何か造っているものがありますね。そういう現場だと思います。
 次に行きますと、これはタンザニアですね。何をやっているのか、すみません、よく分からないのですが、こういうふうに確かに現場を見ていますということです。
 もう1枚あって、これも援助を受けた地元の人々からじかに話を聞いているというところだと思います。
 ODA民間モニターは毎年やっていまして、今年度は既に締め切りになってしまっています。今年は東チモールと中国とカンボジア、インド、フィリピン、インドネシアの6カ国にそれぞれ10名ずつ計60人の人々に行ってもらうことになっています。ちなみに応募総数は1,400人以上あったということで、やはりODAに関心のある方がたくさんいるんだなということがあらためて分かったということです。
 というのが一般的な説明ですが、では、私は一体何をやっているのか。私がいる部署は経済協力局という大きな局があって、そこはまさにODAをやっているところなのですが、その中で私がいるのは民間援助支援室というところです。これは日本のNGOの方々に無償資金、要はただでお金をあげて途上国での開発支援活動してもらうというところです。途上国で支援活動をしている日本のNGOの方々が今度こういうプロジェクトをやりたいんだけれどもということで申請をしてきて、今度こういうプロジェクトをやりたいんだけれどもということで、それを審査させてもらって承認をすれば一定額のお金をあげて、それで活動してもらうという業務をしております。この制度の名称は、日本NGO支援無償資金協力といいます。
 これもODA改革の一環で「国民参加型のODA」をということがあって特に推し進めている事業です。実際、日本のNGOに対する支援というのはODA改革が始まる前から実は始まっているのですが、特にこのODA改革の中で予算が増えています。ODA自体の予算というのは確かに減っているのですが、この日本NGO支援無償資金協力というのは3年前から始まったのですけれども、予算は増えています。今年度は27億円ですから、それでももちろんODA全体のパーセンテージにしてみたら微々たるものですが、ほかのものが減っている中にあってNGOに対する支援というものを増やしております。これはNGOの皆さんのやる活動というのは、開発途上国の住民の方々の多様なニーズに非常にきめ細かに応じられる、そして非常に機動的である、早いということで、私たちも非常に重要視をしているということです。ODAを実施する上での重要なパートナーと考えています。
 住民レベルでの――草の根レベルといいますけれども、その多様なニーズというのはいろいろあるのですが、これは私も最初聞いた時には結構びっくりした話なんですけれども、例えばタイなんかですと仏教国、タイは日本とは違って小乗仏教の国ですが、ほんとうのところはどうなのかは私は知りませんが、仏教の考え方だと、身体障害を持って生まれた人というのは前世に何か悪いことがあったからこういうふうになったのだということで、あまり地方政府や国の施策ではなかなか救ってもらいにくいような風土があるらしいのです。そういうときに、国がやるODAだとタイの国から要請があってそれに日本の国がこたえるという形なものですから、そもそもタイの国からそういう要請があまり上がってこないという可能性があるわけです。そういうときにNGOの方々だと実際のその現場のことに詳しいものですから、この村でこんなに困っている人がいるよということであれば、そこに入っていってきめ細かく活動ができるということがあります。
 例えば私が今の部署に来てから携わったのは、口唇・口蓋裂といって、兎唇(みつくち)といいますね。日本ではそれは赤ちゃんの時にすぐ手術して治してしまうのですが、そういう子どもたちが結構いるんですね。こういうところに日本のお医者さんが作ったNGOが入っていって、現地の病院を借りて手術をするというようなこともやって、これは確かに非常にいいことをやっているんだなというふうに思ったことがあります。
 というようなことをやっているのが、具体的に言うと私の仕事です。あとは大きな橋を造るだとかいうことのほかにも、私の次の三木さんからお話があると思いますが、国際緊急援助というものがあります。これは海外において、地震などがメインでしょうが大きな災害があったときに、その国の政府や国際機関の要請にこたえてすぐに国際緊急援助隊ということで出て行くと。これは経済協力局の中にそういう専門の部署がありまして、例えばこの間イランなんかでも地震がありましたが、情報を受けて登録されている隊員の人を集めて直ちに現場に出ていくという制度もあります。ちなみに2002年度の話ですが、パプアニューギニアの火山が噴火した時の災害や、ベトナムのSARS集団発生のときにも2件出しています。
 人を出すほかにも、物資を緊急に送るということもやっています。そういう制度もあります。
 私の方からはこの程度にさせていただきます。ありがとうございます。

(町永) ありがとうございました。外務省の安田さんでした。
 安田さん、ODA改革とおっしゃいましたが、お立場で率直なところ何でODA改革をしなければならないのか、そのあたりはどういうことになりますか。

(安田) 何をやっているか分からないというのは大きいですよね。あとはやはり経済状況が悪くなっているのに何でこんなに世界で1位であり続けなければいけないのかという声は多分あったと思うんです。そういうことが契機になって、納税者の方々の強い声もあって、これは1回よく考えなければいけないんじゃないかというのがあったと思うんですよね。

(町永) そうですね。今、特徴的にやっているのは、特にNGOとの連携に大変力を入れているようですね。

(安田) はい、そうです。先ほども申し上げましたが、予算がどんどん増えています。実際NGOの数自体もどんどん増えていまして、昔はこう言っては何ですけれどもおじいちゃんが1人でやっているボランティアという感じのものがメインだったのですが、最近はかなりプロNGOというのですかね、増えてきて、私なんかよりもよっぽど現場のことに詳しくて、開発経済、海外の支援に対することについて非常に詳しい方々がいますので、やはりこういう人たちと協力しない手はないなというのがあります。

(町永) こう言っては何ですけれども、一時は外務省がアフガンなんかでNGOを排除するようなこともありましたが。

(安田)  ありましたね。あれは確かに大事件でしたね。別にそれが契機というわけでもないのですが、やはりきっかけにはなりましたよね。

(町永) そうですね、官僚の皆さんの意識改革にもなったと思うのですが、このあたり役割をどうしていくかというところも双方のこれからの課題ですね。

(安田) そうですね。やはりまさに草の根のそういう非常に細かいような、国レベルでは少しやることが小さいかなということはNGOの方々に今お願いしたいですし、これからNGOがどんどん育っていけば、別に小さいことだけに限らずどんどん大きなこともやっていただけるようになるのではないかなと思っています。

(町永)  ありがとうございました。安田さんは今お話しいただいたように官僚でありながら大変率直にお話ししていただく方ですので、後ほどの質疑応答にも答えていただきます。
 今、報告にもありました国際緊急援助。ODAだけではなくて、何か大きな災害があったときに素早く対応できる、これも大きな国際協力の柱でありまして、実際に三重県でも携わっている方、最初にご紹介いたしましたお隣にいる三木さんでございます。松阪地区広域消防組合松阪消防署救急係長で、実は去年のアルジェリアの震災の時にいち早く救急隊員として行かれました。では三木さん、その報告をよろしくお願いいたします。

(三木) 写真 皆さん、こんにちは。私は日ごろはご紹介にありましたように消防署の方で救急隊で救急車に乗っているわけですが、どうしてそういった救急隊員の私が今回の国際緊急援助隊に参加して活動したかという、その経緯といいますかきっかけの方を初めにお話しさせていただきますと、今の野呂知事が松阪市長の折に松阪市の新総合計画というものがあって、その中で市長が国際貢献を目指すということを打ち出されまして、我々消防といたしましてもそれに参画していこうではないかということで、何か国際協力できる場はないかと探しておりましたところ、JICAに国際緊急援助隊というものがあるのを知りまして、じゃあ、それに登録しようじゃないかということになったわけです。
 当初は救助チームの方に登録しようかということになっていたのですが、この救助チームは職員数、規模の大きな組織しか登録できないということで、じゃあ医療チームの方で登録しようということで、我々消防署の中に救急救命士というのがいるんですが、それに募集というんですか声を掛けましたところ、私もその1人なんですけれども4人ぐらいが手を挙げまして、この国際緊急援助隊医療チームに登録したわけです。それでJICAで研修を受けまして、1年程そういった派遣待ちをしておりましたところ昨年5月にアルジェリア地震があって、JICAの方からお願いしますということで参加させていただいたわけなんです。
 最初は我々も全く初めてなことで、いきなり医療チームの中で先生方や看護婦の方と一緒にできるのかどうかということで大変不安だったのですが、現地へ行ってみますと、大変悲惨な状況の中で診療所を立ち上げたんですけれども、そんな不安も言っていられない状況ですぐに活動に入ったので、その点でそういった不安はなくなったのですが、また後でビデオの方で映像を見ていただきますけれども、現地は阪神大震災のような感じで1階の部分が2階に押しつぶされるような、そういった大変悲惨な状況でした。我々が活動しておりましたところは首都アルジェから東に約50キロメートル離れましたゼンムリ市という人口約3万人の町ですが、その辺が一番被災が大きかったところです。我々はそのゼンムリ市内の中心にありますサッカースタジアム、ここに被災された方が避難してみえまして、そこでテントを建てて診療活動を行ったわけです。
 現地は非常に暑くて、テントの中も30度以上ある中で診療活動を行ったのですが、私がどういった仕事をしていたかというと、医療調整員ということで先生や看護士の方のサポート的なことですね。先生が診察していただくまでに、バイタルサインといって血圧や脈拍、体温といったことを測定して、それで先生の方で診療していただくと、そういった活動をしておりました。
 約10日間の活動をしておりまして、1日200人程の患者さんがみえまして全部で1,500名程の診察をさせていただきました。慣れないところで大変つらいところもあったのですが、やはり現地の方からすごく感謝をしていただきまして、現地の新聞に「ゼンムリに日が昇る」という記事が出ました。ゼンムリ市という町、それに日が昇る。これは日本が来た――日の丸ですよね。ということで、我々のチームに大変な感謝と期待という意を込めて、そういった記事も載せていただきました。私も今回こういった形で参加させていただいたのですが、国際協力というと我々はそんなに詳しく分かりませんけれども、やはり大事なのは顔と顔の見える関係。お金も大事ですが、そういった関係が一番大事じゃないかなというふうに今回思って帰ってきたわけです。

(町永) では、まずここでビデオを見て、またお話を伺いましょうか。実はこのアルジェの、これは今回の三木さんたちの活動とはちょっと違うのですが、こういったビデオになっておりますので、まずご覧いただきましょう。

(ビデオ上映)

(町永) ご覧いただいたのはODAの援助活動の一環としての番組ですが、三木さんはああいう緊急援助、第2陣的な役割ということになるのですか。

(三木) そうですね、今見ていただいたのは救助チームなのですが、あれはゼンムリ市内の海岸沿いに建っているホテルの倒壊現場なんですけれども、まず初めに緊急性が高いということで救助チームの方が行きまして、我々はその後で、救助チームが救助を終えてこちらに帰ってくるときにちょうど我々がアルジェリアに入ったという形で。

(町永) タッグマッチみたいなものですね。

(三木) そうですね。

(町永) なるほど。あれはそうすると、要するに普段からいつでも緊急援助に出られるように備えをしておくわけですか。

(三木) そうですね。救助チームの場合は組織的に登録をされておりますので、職場の方にもそういった資財ですか、身の回りのものも全部詰めてすぐに行けるようになっているのですが、我々医療チームはボランティア的なことなので、個人的なレベルでいつでも出動できるようには備えております。

(町永) でも、世界で何か大きな災害があったら、すぐ出られるようにしておかないといけないわけですね。

(三木) そうですね。

(町永) 今、その写真が映っております。これは三木さんですか。

(三木) そうです、私です。

(町永) 血圧を測っている。

(三木) そうですね。先ほどお話しさせていただきましたように、先生方の診療を受ける前に血圧を取ったり体温を測ったりということで、そういったサポート的なことをさせていただきました。

(町永) でも、背中に日の丸を背負っているわけですから、やはりやりがいと同時に責任もお感じになったのではないですか。

(三木) そうですね。本当に成田を出発する時でも日本チームの一員ということで、かなりそういった責任というんですかね、そんなものはありました。

(町永) 次の写真に行きましょうか。おばあさんを診ていらっしゃる。これはやはり災害のときはショックでね、大変でしょうね。

(三木) そうですね。言われましたように、現地の方はやはりそういった精神的な不安ですね、地震からの。そういった不安を抱いてみえる方が多かったですね。

(町永) 顔の見える関係といいますが、本当にこういった診療をした人は日本人の顔をずっと覚えてくださるわけですからね。

(三木) そうですね。我々も本当に言葉の方は、長谷川隊員が言っていましたが、通じませんけれどもやはりその辺は何というんですか、心と心というんですか、顔と顔で分かるんじゃないかなという感じで接していたんですけれども。

(町永) そうですね。そして松阪消防署の方では今、フィジーから消防署隊員を受け入れていますでしょう。

(三木) はい、そうなんです。

(町永) これはどういうつながりになるのでしょうか。

(三木) これも、これがきっかけになってJICAさんの方からそういった研修をお願いできないかという依頼がありまして、昨年からフィジー共和国の消防士の方2名の受け入れをしておりまして、消火活動や救助活動といった座学的なことから実際の訓練、それと出動があれば実際にそういった火災の現場などにも出動していただいて研修を受けてもらっております。

(町永) これはいろいろなマスコミでもニュースなどで取り上げられていますが、受け入れ先の方は最初、戸惑いもありませんでしたか。

(三木) ですよね。私なんかはあれなんですけれども、管理職の方、そういった方はご苦労があったと思いますが、その辺は事前に初めにそういった受け入れされている本部の方にもいろいろ教えていただいて。

(町永) でも、それだけで松阪とフィジーがぐっと近くなりますね。

(三木) そうですね。最後はかなり、昨年もあったのですが、お別れ会の時は本当に来ていただいた2人の方も涙を流してかなり感動されたんです。

(町永) そうですか。また後ほどそのあたり、民間なりあるいは行政の機関であってもどういう海外協力、国際協力ができるのかというお話も伺いたいと思います。どうもありがとうございました。

(三木) どうもありがとうございました。
(町永) さあ、三木さんからお話を伺いました。次は三重県国際交流財団専門員の筒井美幸さんから、先ほどもご紹介しましたがドミニカの青年海外協力隊員の体験もお有りです。そんなお話も踏まえて、筒井さんの考える国際協力というところをお話しいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

(筒井) 写真 皆さん、こんにちは。三重県国際交流財団に勤めております筒井と申します。
 私は今、財団に勤務しているのですが、ドミニカ共和国というところに1992年から1995年の3年間、青年海外協力隊員の幼稚園教諭として派遣されておりました。今日はせっかくの機会ですので、皆さんにドミニカ共和国をこの映像と音楽を通じて十分に体験していただく異文化体験の場とさせていただけたらと思います。音楽は実は朝起きた時から夜寝るまで、ずっとかかっております。もっとボリュームが大きくて、隣でしゃべっている人の声も聞こえないぐらいです。
 では、映像の方を。私、写真をたくさん用意しましたので、自分でかちゃかちゃ替えながら行きますね。
 これがドミニカで有名なメレンゲという音楽を歌っているグループです。当時大変有名でしたセルヒオという人で、そのコンサートに行ってきました。
 音楽を通してカーニバルなんかも開催されておりまして、現地の人たちはいろんなパフォーマンスをしながらカーニバルに参加します。2月に行われるのですが、一番の最大のイベントになっております。
 この子どもたちは貧しい子どもたちなんですけれども、こういうふうにメレンゲのグループのバンドを組んで海の方に繰り出していって、お客さんからお小遣いをもらってお母さんに「今日、1ペソもらえたよ」と言ってパンやバナナを買うという生活をしています。
 何といっても私が派遣を決めたのは、(実はドミニカ共和国がどこにあるか知らなかったんですね。どこにあるんですかと聞いたところ、)“カリブ海に浮かぶ真珠の島”と言われまして、それで行きますと答えたんですが、こんなふうにとてもきれいな海でした。もう時間が止まったように、本当に映画の中にいるような美しい海岸です。
 今度は町の中なんですけれども、これは人々がいろんなものを買い物に行くスーパーがある通りです。見るからにカラフルで熱気と活気にあふれているという感じです。
 これが外にある市場です。スーパーもいっぱいあるんですが、町の中には市場があります。メルカドといいますが、そこで野菜を売っているおじさんです。おじさんもにこにこしていて元気そうなのが伝わってくると思います。これは日本で買うと1個200円ぐらいするマンゴですが、向こうでは1個10円ぐらいで売っています。たわわになりますので、食べ物がなくなったら木から取って食べることができるということもありまして、食べ物には割と恵まれているんじゃないかなと思います。
 メルカド(市場)の中にはお肉屋さんもあるんですね。あんまりこういう写真を撮るのは向こうの人は嫌がるかなと思って、「ごめん、これ写真撮らせてくれる?」と言ったら何とこのおじさん、ポーズまで決めてくれまして、牛の頭がかかっているのが分かるでしょうか。あんなふうにしてちょっとハエもブンブンたかっているんですが、必ず火を通して食べますので問題ないです。お肉屋さんです。
 マーケット(メルカド)はこんな感じでさんさんと太陽が降り注ぐ中、ぼろぼろのテントの中で売っているので物の傷みも激しいのですが、すごく活気があります。それで、スーパーは売っている物が高いです。きれいに包装されていて高くなっていると貧しい人たちはそこには買い物に行けませんので、貧しい人ほどこのメルカドマーケットの方でちょっと割高の物を買わざるを得ないという環境になっています。
 これはモトコンチョというのですが、バイクに後ろに2人乗れます。買い物をした人たちはいっぱい袋を持っていますので、2人乗りになって、ぺたっと引っ付いた感じでお家の玄関の前まで運んでくれるんですけど、大変便利な乗り物です。
 のどが渇いたら日本では自動販売機でジュースを買うと思いますが、何とドミニカには10年前は自動販売機がありませんでした。公園や人が集まるところには新鮮な果物のジュースが飲めるように大体こういう屋台が出ています。これはチナというのですが、オレンジです。オレンジジュース。甘くなるまで木に置いてあるので、絞ると本当に砂糖が入っているのかと思うぐらい甘いおいしいジュースです。一番違うのはグレープフルーツですね。日本のグレープフルーツって、ちょっと苦いと思いませんか。向こうのグレープフルーツはすごく甘くておいしいんです。お砂糖が要らないぐらいなんですけれども、暑い国ですので向こうの人たちはお砂糖をたっぷり入れて飲みます。
 これがプエブロ。田舎(カンポ)の方ですが、子どもたちと動物は一緒になって生活をしているという一場面です。
 これはミシンがけですね。ミシンがけって日本だと割と女の人がするのかなと思っていたのですが、きちんと男の人の仕事になっています。それで家の中ではなくて青空ミシンがけという感じで、家族やいろんな人が集いながら、おしゃべりしながら仕事をしている様子です。
 これは一般的な田舎の方のおうちです。すごく端正できれいかなと思って写真に収めました。写真の色から分かると思うのですが、すごく暑いです。1年中暑いので私たちはへとへとになってしまうぐらいでした。
 ドミニカといいますと、このかかっている音楽ですね、私の中の思い出としては。これは園長先生なんですけれども、「美幸、一緒に踊れ!」と言われまして園長先生と一緒に踊っている若きころの私なんですけれども、こういう陽気なドミニカの人と楽しい音楽と、それからとてもきれいなこの海。これがすごい財産だと思って3年間活動してきました。
 今からちょっと仕事の方なんですが、最初行った時は言葉が分かりません。スペイン語だったんですね。勉強はちょっとしていきましたけれども分からなかったです。保育園の方に何もおもちゃがなかったので余っているタオルで人形を作りました。同僚の彼女と一緒に幾つ作ったかな、100個以上は作ったと思います。見よう見まねで、こんなこと日本ではやったことがありませんでしたが作ってみました。それで各ベッドに配ったりしていました。
 それから、とてもきれいな保育園だったのですが、壁に何も絵が描いてなかったんですね。日本でいう壁面を思い出しまして絵を貼ろうかなと思ったところ、紙がすごく高いんです。それに毎日のように水をかけてジャージャーとブラシでこするようなお掃除の仕方でしたので、紙がもったいなくてあかんと思ったら、ペンキで描いたらどうやと言われまして、いろんな絵本から引っ張ってきてこんな絵も描いていました。
 その時に気が付いたのは、1クラスの子どもたちはやけに粒がそろっているんですね。何でかなと思ったら、クラスは背の順で分かれていました。日本は普通、年齢別です。それが背の順だったということに非常にびっくりしまして、その後、年齢別のクラス分けが必要だということで会長を始め皆さんに話をしまして、やろうとしたところ、実は住民票みたいなもの――住民票も持っていない人が多いのですが、保育園自体に名簿がないということが分かりました。名簿を作るのにお母さんたちに迎えに来てもらう4時から6時の間にかけて受付に座っていたのですが、お母さんに住所を聞いたところ、「住所が分からない。」それで電話がありませんから、「何かあったらどうするの」と言うと、誰々さんに伝えてくれ、誰々さんが家に言いに来てくれるから、ということで、すごい連絡網ができたのですが、そういうものを作るだけでも私は半年、かれこれ1年ぐらいかかってしまいました。
 これは公園です。割としっかりした保育園で、いろいろな国からドネーション(援助)を受けていました。この公園もすごくいっぱいいろいろなものが置いてあって、きれいに整備されているのですが、さびていて誰も使っていないんですね。「どうして使わないの」と言ったら、「いや、あれはもらったものだから汚してはいけない」という変な理由があったのと、とにかく暑いんですね。この暑い国に鉄の滑り台です。お尻が焼けそうに熱いんですね。それで涼しくなったころを見計らって、こういうふうに子どもは1日に1回ぐらいは外で十分発散させてあげないとうまくストレス解消できないよということで始めました。この大人の人たちはニニェラさんといって子どものお世話をする人なのですが、この人たちも初めて滑り台を滑るような感じで子どもたちに指導してくれました。
 これはクリスマスです。実はクリスマスというのは2月のカーニバルと同じぐらい大変な大きなイベントでして、12月にあるのですが、もう9月10月から準備します。子どもたちはこの日を楽しみにあそこにあるようないろいろな飾り物を作ったりするのですが、歌を歌うといってもなかなか電子オルガンとかがありませんので、私がちょっと持っていったオルガンで簡単に弾きますと、こういう音楽が好きですので歌が歌えるということで、そのままカラオケ大会みたいなことが始まった様子です。
 1年に1回のクリスマス。大変なイベントですから、子どもたちもしっかりおしゃれしてきます。これはペアになってこのメレンゲを一緒に踊っているところですが、この日のために「これ、お母さんたちは何カ月分のお給料をかけているのかな」というような、すごくすてきな新調されたドレスを着てきます。こんな小さな子どもたち、まだ1歳になっていません。ベッドに入っている子どもたちまでもこんなおしゃれをしてきて当日を楽しみます。
 次に、これは卒園式です。何で卒園式の写真があるかというと、実は私が勤めていた保育園は非常に貧しい子どもたちが通っているところで、お母さんたちは朝6時ぐらいから夕方4時6時まで働いていました。この子たちは卒業したら小学校に行くのですが、小学校は残念ながら先生たちも来たり来なかったりという、すごくそういう体制も良くなかったと思うんですけれども、卒業できる子どもたちは非常に少ないです。それで、小学校を卒業した、中学校を卒業したということは、ある程度人生の中で1つの節目、けじめになってくると思って、私たちはここに通ってきている子どもたちに1つの節目、けじめ、自分は大きくなったんだ、成長しているんだという自信を持ってもらおうということで、やっていなかったのですが先生たちと話し合って企画しました。その時の様子です。
 この表情を見てもらったら分かると思いますが、すごく自信たっぷりの表情をしています。これが向こうの国の卒業式のスタイルですが、後ろにいるスタッフ、スーツを着ているのが先生たちですけれども、みんなが手作りで準備をしました。私が3年間一緒に働いてきたスタッフです。園長先生もいますし、ちょっとおばさんに見える人もいると思いますが、向こうの国ではこういうふうに制服を着るのが正装です。先生は制服を着て毎日仕事をするという形でした。
 このように私はたくさんの思い出と、それからたくさんの価値観の違いを向こうの国で教えてもらいました。(後ろにあるのはこれはクリスマスツリーです。)これがすごく大きな財産です。この子たちに教えてもらって今の私があると思っています。
 私ちょっと長くしゃべり過ぎてしまっていますが、この後、私は国際交流財団に勤めることになります。いろいろな体験がもとになって、今、多文化共生だとか外国人の人たちとの相互理解を深めるような仕事をしていますが、三重県の中に外国人の方が何名いらっしゃるかということを表にしてみました。
 平成元年の時点ですと1万441名でした。次は平成15年、昨年度末ですが、3万9,838人。こんなにも増えているんですね。
 それで市町村別登録者数ベスト10、一体どこの市町村が多いのか。第3位、どこだと思いますか。あ、出てしまいました。すみません、練習不足でした。津市ですね。第2位、どこだと思いますか。そう、当たり。さすが皆さん、関心が高い方。四日市なんですね。では第1位、お願いします。平成15年なんですが、何と鈴鹿市が三重県の中で一番外国人登録者数の方が多い市町村になりました。
 では次に、各市町村の何パーセントぐらいが外国人登録者数なのかということを調べたデータがありますので、見ていただきたいと思います。何と上野市におきましては、上野市の人口の5.16%、20人に1人の方が外国人でいらっしゃるという現状があります。続いて亀山、木曽岬……とあります。
 今現在、三重県には94カ国の方々が住んでいらっしゃいます。これは日本人も入れてです。そして今日、たくさんの出展団体さんがありますが、私ども国際交流財団が把握している限りでは134の国際交流、国際協力活動を行う団体さんがいらっしゃいます。今日の活動団体さんの中で知らなかったところがありますので、プラスアルファで来年度末にはもっと増えると思いますが、これらの皆さんがいろいろな連携、協力をすることで、私は異文化理解してくださいということを最初に申し上げましたが、今、学校でも導入されています異文化理解、国際理解のこれはビッグチャンスになるのではないだろうかと考えております。
 他方、いろいろな習慣やいろいろな文化、それからいろいろな言葉を自分の国で持っていて、その違いを持って日本で暮らしていらっしゃる皆さんですから、そういう文化の違い、習慣の違い、言葉の違いによるさまざまなトラブルも発生してきています。これは一般に言葉の壁、制度の壁、心の壁と呼ばれていますが、国際交流財団ではこれらのトラブルがなるべく少なくなって皆さんが住みやすい地域づくりをしていくためにどんなふうにしていったらいいのかということで、さまざまなプログラムを今、行っているところです。
 お手元の資料に、こんなピンク色のパンフレットがあると思います。「交流から共生へ」。交流を通して共生社会を考えようということで、これはつまり外国のことを考えるようで、実は日本の社会のこと将来のことを考えるんだよというきっかけにしていっていただきたいなと思っております。詳しい事業については中をご覧になっていただいて、また質問等があれば後でよろしくお願いいたします。
 すみません、しゃべり過ぎてしまいました。

(町永) いえいえ、ありがとうございました。

(筒井) ありがとうございました。

(町永) また後で質問にも答えていただきますが、ドミニカには何年いらっしゃったのですか

(筒井) はい、私は3年行っていました。

(町永) 青年海外協力隊というのは、行きたい国を自分で希望できるのですか。

(筒井) この地域に行きたいというのはたしか書けるとは思うのですが、国は特に私は希望していませんでした。
(町永) そうですか。一番カルチャーショックを受けたのは価値観の違いだったということですが、具体的に言いますとどんなところですか。

(筒井) そうですね、もったいないという感覚だとか、物を残さないという感覚だとか、時間の感覚、その辺ですね。日本だともったいなから残さないでおきましょう、きれいに食べましょうなどと言うのですが、向こうは例えば食事1つ取っても、私たちは習慣で全部食べなければと食べますよね。それで下宿していたんですけれども、日に日にどんどん量が増えてくるんですよ。とうとうこんな大きなお皿に山盛りに盛られてしまって、もうこれ以上食べられないといって残したら、初めて下宿先のお母さんが「あなたが全部食べてしまうから、足りないのかと思って私はどんどん増やしていった」と。だから、要するに少し残す。それで十分だよというので残してもいい文化と、あとは時間。
 日本だと割と時間には厳しいというのがありますが、向こうだと特に楽しいパーティーなんかの時間には割とおおらかで、国民性もおおらかで、何時に始まるのかなということで、パーティーに行くといつも日本人ばかりが集まっていて、ドミニカの人たちは後から来るということが多かったです。

(町永) なるほど。だから筒井さんがおっしゃった、1つの異文化がトラブルになるか共生の方へ行くかというのは、知るか知らないかで大分違いますね。

(筒井) そうですね。それはすごく大きいと思います。私は全く価値観というかそういうことを知らないところに行ってしまって、「ああ、こういうもんなんだ」と向こうではそういうふうに思っていて、日本に帰ってきたら「そういう人もいるんだ」と私の中ではもう当たり前になっていたんですけれども、それは経験しないとなかなか分からないことなのかなとも思いました。

(町永) なるほど。はい、ありがとうございました。

(筒井) ありがとうございました。

(町永) 筒井美幸さんからでした。さあ、最後になりましたが、鈴鹿国際大学国際学科のアーナンダ・クマーラさんからご報告いただきます。お願いいたします。

(クマーラ) 写真 パワフルな筒井さんの後に話をするのは、ちょっとつらいですね。それに司会の町永さんから辛口の発言とも言われまして、今日はいいことないですね。ちょっとトーンダウンしまして、簡単な話をさせていただきたいと思います。
 実は今回、国際貢献フェスタを多くのNGO団体、NPO団体、また大学、高校などの学生、いろいろな方に集まっていただきまして実施することになりましたが、活動対象国としてはさまざまですね。ミャンマーやボリビア、パラオ、タンザニア、いろいろなところで活動する団体が出てきているわけですが、その中に私も直接携わっているスリランカ。それは私の出身国でもありますが、その国で行っている国際協力活動、タランガ・フレンドシップ・グループ(TFG)というNGOが中心ですけれども、そちらの活動を先にご紹介させていただきたいと思います。
 スリランカという国はインド洋の小さな島でありますけれども、約8分の1の面積のある、この北西部州地域の方で活動を行っているわけです。スリランカでは意外と学校教育は途上国なのに小学校教育が約97%と、ほぼ全員であります。あとは中学校、高等学校就学者も74%と、4人のうち3人が高等学校まで行くということになります。しかし、その後どーんと落ちるのは高等教育の部門でありますが、たった5%しか高等教育、いわゆる大学、専門学校などには行かないということになります。
 TFGの活動はそのような人々を対象にして行うわけです。その内容としまして、団体名はTFGと略称していますが、北西部州の約100村以上、実は150村ぐらいになる、低開発村という非常に貧しい村でありますが、そういうところの若者また農民を対象に、内容としましては職業訓練を受けられる機会の提供による男女の自立支援をしています。なるべく彼らが、自分たちのことは自分たちでやれるような力を付ける手伝いを我々は行っているわけです。
 その方法としましては、可能な限り現地の専門家を立てまして、指導はしてもらうことにします。日本側からももちろん専門家をお送りすることはありますが、可能な限り向こうの指導者を対象にして研修を行うということにしております。その理由としましては、その下の方にポイントということで書いてあるように、なるべく自分たちのことは自分たちでやってもらいたい。もう1つは、貧しい人であっても彼らもやはり人間であり、自分たちも結構誇りを持っているということです。TFGからのメンバーは金持ちの裕福な日本からでありますけれども、そういうところに一緒に行ったって彼らの持っているプライドというのを絶対に傷つけない。逆に尊重した形で彼らの能力を、日本と比べると大きく離れているかもしれませんが、それを尊重している形で活動を行うということです。
 日本の方ではいろいろな活動を行っているわけですが、開発教育に関する貢献もありますね、講師派遣講座。また、昨日もスパイス入りのスリランカ料理の作り方を、こちらの方でも講習会をやらせていただきましたが、その他、スタディーツアーも計画しています。
 具体的に自立支援というのはどういう形で実施するのかといいますと、例えばパソコンの使い方。スリランカでも今、一般政府機関などでもパソコンが普及されていまして、特に外国の企業も結構来ているわけですが、その必要性が高いということで、そちらも1つの対象としています。あと、機械化農業技術研修コースといいます。やはり途上国であっても若者というのはちょっと格好いい仕事をしたいと思う傾向がありますが、その1つの理由に、農業は従来の形で行いますとなかなか経済的には自立できないというところにあり、その効率を高めるという意味で、我々がやむを得ないけれどもある程度の農業に対する機械化ということで、その研修を行っているわけです。
 次には、工業ミシン。これも縫製技術に関してですが、衣類関係の外国の企業がたくさんスリランカの方に出てきまして、そういうところで働きたいと思っている人々を対象に実施して行うわけです。
 次に女性のこと。やはり女性の自立というのは今、世界の発展途上国の中で大きな問題であります。スリランカの方でもそれは変わらないわけなんですが、先ほどの工業ミシンというのは、簡単に言えば電気があるところでしかやれない。もう1つは、そのためにそういうところに就職しようとすれば、その人たちが村から出ていかないといけないということがありますが、それもできないような人がいるわけです。あるいは村に行くための道路もない、車が通れる道路とかが全くないようなところもありますが、そういう人々を対象に我々が移動式教室というものを設けまして、村に先生やミシン、足踏みミシンでありますけれども、そういうものを移動して研修を行うわけです。後で修了したら彼らが自営を行えるように協同組合発足などもさせてあげるわけです。
 あとは農産物加工というものも1つ考えて実施しています。というのは、農業は原則として男性がやるわけです。女性が家事。じゃあ、家事といっても朝から晩までやるわけではないです。さらに、貧しい村の人たちであっても中学校ぐらいは結構間違いなく行ってはいるわけですので、彼女たちに今度、食品加工技術の知識を伝えてあげたら、彼女たちも、だんなさんやお兄さんが作っている農作物に付加価値を付けることが出来るようになり、その全家庭の収入が高まることにつながるのではないかということで、そちらも導入しているわけです。
 あとは一般的に農業の効率を高めるための知識、さらに最近は環境保護および村人への長期的収入のための植林事業ということです。植林事業はいろいろな枯れた山などでは行う方が結構いるわけですが、TFGの場合には研修生の出身村の中で行う。それは研修生やあるいは村人の庭に木を植えるんですよ。何故かというのは、よく守ってくれるからです。対象としている苗には、例えば高級家具などに使われているチーク材、マホガニー材とかのようなものはありますが、15年あるいは20年ぐらいたちますと、木によっては現地でも30万円、40万円ぐらいの値段で売れるわけです。そういうものを10本植えさせてあげたら、20年先に今の小さい子どもたちがTFGのような組織の手伝いがなくても自分たちの稼ぎで教育費、自立費なども全部得られるということにつながるということで、だいぶ力を入れて行っています。
 あとは、日本からの指導者派遣も行っているわけです。
 それでもう1つは、TFGというのはNGOでありますけれども、我々はいろいろな方々の協力を得てから活動を行っているということですね。1つは例えばワヤンバ職業訓練校という現地の州政府の中にある機関ですが、もう1つは州政府、あとはワヤンバ開発公社、あとは村のさまざまな住民組織や開発組織がありますが、そういうところと一緒に活動を行っています。非常に効率度が高い、もう1つは、小さなNGOでありながら今は約100カ村ぐらいまで近づいていると思うのですが、そこまでやれるということです。通常のNGOというのは1つの村で何年も何十年も同じところに行くのですが、我々はなるべく多くのところに影響を与えようということで、こういうふうに政府と手を結んで活動を行っているわけです。
 最後に1つコメントをさせていただきたいと思いますが、やはり途上国の真の自立を我々が期待するのであれば、どういうふうな形で手伝うべきかということを深く考えなければいけないということについてです。私の1つのコメント、結論として言いますと、現地の人ができるような活動はなるべく彼らにお任せください。彼らができていないようなことを皆さんで手伝ってください、日本のようなところで手伝ってくださいということであります。
 こういう形でTFGというNGOの活動を行っているという現状です。日本の中でも約10カ所の活動拠点があります。本部は鈴鹿ということになりますけれども、そういうことで地域の皆様にも大変協力していただいている活動で、この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。
 以上です。

(町永) 写真の方はよろしいですか。

(クマーラ) そうね、そうしたら写真もちょっと。筒井さんに負けてはいられないね。

(町永) これはなかなか面白い、自立援助ということをどういう形でなさっているのかというアルバムがありますので、ご紹介いただきたいと思います。せっかくね、お作りいただいて。

(クマーラ) この車を見ていただきますと、真ん中にいるのは研修生ですが、その子が研修に参加して2年後に買いました。車の値段が90万円で、55万円の頭金を自分で払ったわけですが、研修の後の効果だというふうに非常にうれしそうに彼は話をしていました。

(町永) 55万円ですよね。

(クマーラ) 55万円。

(町永) 55円って書いてある。

(クマーラ) あっ、ごめんなさい。55万円です。
 次、研修生の方々が集まっているところであります。こういう若い人々ですね。
 次にはこういうカッサワという芋なんですけれども、そういうものを庭で採って、こういう牧畜、牛。次の方に出てきますが、非常によく育てているかなということであります。
 これは僕が植林の2年ぐらい後に行ってみたら、こういうふうに非常に大きくなっていました。マンゴーの木です。
 これは加工食品の勉強をしている学生です。ろうそくの明かりでプラスチックの方に何かをしているようなところがありますが、というのは村には電気がないわけですので、村に帰ってからもできるような活動ということで、こういう形で指導しているわけです。
 これは1人の研修生の工場でありますけれども、こういう花も作っています。
 これは枝みたいなものをこういうふうにクロスマークで植えているわけですが、これはやはり柵になりますけれども、今度は葉が出てきて肥料にもなるようなものです。お金を掛ける必要は全くありません。これは今、地域でも非常に盛んに、評判が高いわけです。
 これはミシンなどを贈呈して発足している協同組合のための材料をお贈りするところです。
 こういう作品も作っています。枕カバーとか。
 こういうマッシュルーム。これは日本からの専門家にも評判が高かったわけです。
 これはジャムとかですね。これも加工食品の一環として。
 地域の人々にもこういう活動を紹介するための展示会、展示販売活動、そういうものも行っているわけですが、多くの方々が来て購入されたりします。作品を持っていますね。一番向こうあたりにあるのは私の言葉でピリ辛ピーナツというものですけれども、日本のピーナツそのものに辛い唐辛子をつけたと考えてください。そういうものが現地のものであります。
 これも先ほど車を買った研修生の展示販売を行っているところでありますけれども、こういう花、苗、そういうものを販売しています。
 この研修のために使う機材などを現地で購入して向こうの方に贈呈したりしています。というのは、なるべく研修を受けた人がその後もそういうものを使えるようにということで、なるべくは現地で、ということにしています。
 いろいろな交流会などがあって、これはTFGの設立10周年記念の時の大きな会場ですが、ここに自分たちの活動を地域にPRするためのブースがたしか70ぐらいが出たかな、その時に日本の方が歌を歌ったりしているところ。
 そちらは工業ミシンの教室なんですが、僕らがたまたま休みの時に行ったので研修生がいなくて、日本人の方がそこに座っていますが、次、そちらの方は研修生がいる時の写真ですね。
 これは1人の研修生の家ですが、向こうにあるのは今住んでいるところですね。手前の方で新しい家を造るための準備をしているということが皆さんお分かりかと思いますが、2年間で100万円ぐらいの家を建てた研修生も中にはいるわけです。すべてこの農業から得た収入です。
 こういう加工食品であったり、次ですね、この加工食品。
 これは植林事業。学校とかでも植えて、子どもたちにその木をお任せするわけです。自分たちが卒業するまでは生長させてくださいと。だから、いつもより15分早めに来て水をあげたり、そういうあたりの世話をやってもらっています。
 ここをちょっと見ていただきたいのですが、そこの研修生が今は月10万ルピー以上、日本円にしますと約12万円になるけれども、それほど高い収入を得るようになったのは加工食品を販売してからです。この子なんだけれども、2年間で100万円の家を造った同じ子でありますが、今はそういう形でお菓子などの販売をしているわけですね。
 これは研修生の発表会です。自分たちが作った農作物など、そういうものを持ってきてアピールします。
 この低開発村の女性というのは自分の家以外のところに1人で泊まりに行くということは一切なくて、例えばこの子たちも全員初めての外出をしてお泊まりすることになるわけですが、緊張してカルチャーショックでこういうふうに倒れたりする子もよくいます。その時の風景をたまたま私がいたところで見たので写真に撮りました。
 これは研修生の作品の一部ですね。こういうマットや壁掛けなどを作ります。
 こういう道路です。こういうところでバスなんかは通れませんので、僕らは途中から耕運機などに乗って行ったりします。これは機械化農業の中でトラクターの研修などを行っている時です。
 こういうのは、日本でいえば熱帯魚ですが、スリランカは1年中暑いんだから熱帯魚になるのかどうか分かりませんけれど、よくそういうものも養殖したりします。
 こういうものも加工食品ですね。ジャムだったり飲み物だったりします。
 この女性たちもそういうふうに植林の時に苗をもらいに来ているわけです。発表会の風景です。
 この辺、枕カバーとか。
 この辺もそうですね、縫製の研修生の作品です。
 鶏なども飼っていたりします。
 だからとても多様な活動を行っているわけですが、ちょっとパソコンの設定の上では皆さんにうまく十分に見せることができなくて失礼しました。

(町永) ありがとうございました。クマーラさんは時間の制約があるのでなるべくたくさん発表したいということで、5秒間隔で変わるようにしたんですが、結局説明がどんどん延びて、行ったり来たりしまして大変失礼しました。
 それだけ熱意を持って取り組んでいて、今回のフェスタでもクマーラさんは実行委員長をなさっていますが、ああいう自立支援をしますと単に経済収入だけではなくて皆さんの生き方が変わってくる、変化が見られると思いますが、そのあたりはいかがですか。

(クマーラ) そうですね。やはり我々の考え方の自立というものには、経済的自立と社会的自立という2つがあるわけです。簡単に言えば、これはあるべき姿ではないけれども、やはりお金がなかったら社会の地位もないわけです。誰からも当てにされないというところがあるけれども、我々がなるべく研修生を中心に村の中で新しいリーダーを作るということ。例えば我々が訪問する時にあの研修生たちが村を、人々を組織化して、簡単に言えばあの子が日本人を呼んできたんだよということで、いきなりレベルが上がるわけです。だから新しいリーダーということになるということで、研修の後に彼女たち彼らたちに会ってみると、非常に腰が真っすぐで鼻も高いですね。やはりこれは非常にうれしいことです。

(町永) なるほど。それはいわゆる人材開発が援助の大きな要素になるわけですね。

(クマーラ) そのとおりです。

(町永) ありがとうございます。まだまだいろいろお話を伺いたいのですが、さあ、時間もだいぶ延長になってしまったのですが、これから今の皆さんの報告を中心に、実際に国際協力の現場にいらっしゃる報告をお聞きいただいた上で、国際協力についてこんなことを聞きたい、あるいはそれぞれのパネリストにここを聞きたいというところをぜひ皆さんから質問を受け付けたいと思います。
 ここからJICA中部所長でいらっしゃる松田教男さんにも加わっていただきます。よろしくお願いいたします。いってみれば国際協力のコーディネーターという形での役割です。
 時間もあまりありませんので、お1人様それぞれなるべくコンパクトな形の質問にしていただきたいと思います。手を挙げていただいて、恐れ入りますがまず最初に名前をおっしゃっていただいて質問をしていただきたいと思います。それから、この人に聞きたいというパネリストの方の指名がありましたら、ぜひ併せて最初に言ってください。
 さあ、いかがでしょうか。どんなことでも結構です。外務省の方もいらっしゃるので、ODAの在り方についての質問でも結構です。はい、こちらの若い青年です。お名前と、もし聞きたいパネリストの方がいらっしゃったら、おっしゃってください。

(質問者A) 高校生です。外務省の安田さんにお伺いしたいんですけれども、4月にJICAのエッセイ・コンテストというのを見て応募しまして、タイの方に研修旅行に行ってきたんですけれども、そこでいろいろな国際協力の現場を視察してきたんですね。その時に、現場の第一線で活躍されている方々にお話を聞くと、やっぱりどうしても外務省とか上の方からの熱意とか理解とかが得られにくいと、そういうことをおっしゃっていたんですね。それで、今日のお話にあったNGOとの連携、これは資金面だけではなくて、やっぱり意識的にも現場と上とのつながりがないといけないと思うんですが、そのことについてどうお考えでしょうか。

(安田) そうですね、現場との連携という意味では、例えばタイであればタイにある日本大使館で、いわゆるODA大使館というふうに言っていますけれども、現地で援助をする大使館の職員であるとか、あるいはJICAの職員であるとか、あるいはJBIC(国際協力銀行)の職員であるとか、まあ、いればですけどね、JBICの方、あとは現地で活動している日本人のNGOの人々が、すべての大使館じゃないんですけれども、多分タイもやっていると思いますけど、定期的に会合を開いて、要するに現地における援助の在り方について話し合うという、そういう機会を設けていますので、そういうことをやっているところでは比較的風通しといいますか意思疎通はできるのかなというふうに思っているんですけども、今のお話だと、タイですか、なかなか外務省の理解が得られないというのは、むしろ私からお伺いして申し訳ないんですけど、具体的にはどういう感じでおっしゃっていましたか。

(質問者A) 写真プレス、板金の技術供与をしているところに行ったんですけれども、そこで働いていらっしゃるJICAの職員の方がやはりいろんな面で、具体的にはともかくいろんな面で理解が得られていないと、そんな感じで。

(安田) 要はJICAと外務省の話ということですね。まあいろいろ、やっぱり組織が違うので多少意思の疎通というのがうまくいかないというところがあるのかもしれないですね。ただ、うちの役所では、外務省では技術協力課というところが、JICAの技術協力の関係を担当しているところがありまして、基本的には連絡は密に取れてうまくやっているんじゃないかと思うんですが、たまにはそういうこともあるのかなっていうところですね。

(町永) 安田さんね、高校生の若い世代からしっかりした見識だと思うんですよ。やっぱり現地で汗かいてる人に対して外務省の官僚は上に立つような形で、お伺いを立てなきゃならないという権力的な構造があるのではないか。このあたりは変わっているといっても、お立場上なかなかお答えしにくいと思いますが、ひょっとしたらまだ体質としてあるんじゃないかというところは、どうでしょうか。

(安田) まあ、それはないと100%は否定はできないですよね。多少それはあると思いますよね。

(町永) JICAの所長でいらっしゃる松田さん、ここは外務省についてということではなくて、現地での活動をしているお立場としてはどんなふうなご意見でしょうか。

(松田) そうですね。私たちもタイだけじゃなくて、70数カ国ですかJICAの事務所を置いていまして、それぞれの国の事情によるとは思うんですけれども、事務所はいつもたくさんの関係者の方、専門家の方とかあるいは青年海外協力隊、それからシニアのボランティアの方も一緒にいろんなところで活動してもらっています。一方、民間企業の方々ですね。商社の方とかゼネコンの方とか、もちろんNGOの方々、あるいは旅行者、そういった人たちがたくさん出入りしています。
 そういう中で、できるだけそういう人たちに門口を開くというんですか、いつでも来てくださいということで、私は個人的には2年前までカンボジアの事務所にいたんですけれども、本当にたくさんの日本の学生さんも来られればいろいろ自治体の方とか、あるいはライオンズクラブ、ロータリークラブやNGOの方、いろいろな方が来られましたけれども、常にそういうときに必ず「いつでも来てください」と言い、来ていただいたら、必ずいろいろなことをできる範囲でお手伝いさせていただくということでやっておりました。
 やっぱりこういう形で常に店というか事務所を開いて、皆さんと対話していくというのは非常に重要じゃないかと思っております。

(町永) 松田所長、端的に言ってやはり外務省は監督官庁ですから、そこの意向を受けなくてはならないというところはありますでしょうね。

(松田) 形式的にはやはり外務省の監督の下に私たちJICAは事業をやっておりますということですけれども、これは東京の方でも同じですけれども、現地の方も大使館とJICAというのは常に毎週会議、例えば大使館の中の館内会議には必ず私も出ていましたし、経済協力関係ですと大使館のスタッフの方と私たちJICAの関係者が一緒になって、毎週のように議論をして話を進めるということで、ある意味で一体としてやっているんですけど、ひょっとしたら国によってはなかなかいろいろな事情で必ずしもうまくいっていないところもあるかもしれません。

(町永) ありがとうございました。エッセイ・コンテストにも応募なさったという意識の高い世代だろうと思いますので、若い世代にはぜひきっちりと答えるようにしましょうね。

(質問者A) ありがとうございました。

(町永) ありがとうございました。でも、私もJICAの方たちは非常に綿密に連携を取っているのは確かだというのは、私の見た限りではそういったところがあるので言い添えておきます。
 はい、次の質問に行きましょう。

(質問者B) 四日市から参りました者ですけれども、実は私は2年程前にODAの民間モニターに応募しまして、幸いに選ばれまして、クマーラさんが今日おみえですけどスリランカに行かせていただきました。それで1週間程ずっと10カ所ぐらいプロジェクトを見て回りましたけれども、非常に先ほど言われましたように連携はかなり取れてると思いましたね。外務省もJICAの皆さんも一緒に一生懸命やられているし、青年協力隊の方々も非常に努力されているということはよく感じました。
 それでちょっといろいろずっと回って、確かに日本とスリランカについては非常にいい関係ではあるものの何が足りないのかなというのをずっと考えていたんですけれども、1つはやっぱり日本はこれだけ経済大国なのに、ODAの援助はするにしても、やはり民間企業がどうもあまりにも少ないんじゃないかなと。ノリタケさんとか何社がイツデラレテルというふうにその時思いましたけれども、もっと日本であれば企業が進出して雇用をもう少し確保して、全体のレベルをダイナミックに上げるということを、これは通産省(現経済省)の関係になるのかも分かりませんが、そういうところの連携。もちろん、NGOはNGOとしてやらなければいけないレベルの話は当然あるんですけれども、やっぱりもう1つ大きな意味で、大きな経済発展のためにはもっと企業誘致をして全体のレベルを上げるというようなことを、それはどういうふうに進められているのかお聞きしたいなと。

(町永) 民間企業をもっと導入して、効果的な援助の仕方があるのではないかと。安田さん、いかがでしょうか。これは後でクマーラさんにもご意見を伺いたいと思います。

(安田) そうですね、おっしゃるとおりだと思いますけど、営利を求める民間企業ですから、やっぱり基本的にもし商売にならないのだとすれば出て行かないというのはもうこれはしようがなくて、そういう民間企業に対して国が今おっしゃったような理由で行けというふうには言えないわけです。ただ、おっしゃることも分かるので、そこをどういうふうにしていくのかというのはまさに通産省(現経済省)の話なのか、少なくとも今の経済協力局ではそういうことをやっている部署はないんじゃないかと思います。だから確かにそういうことも新しい課題として考えていかなければいけないのかなというぐらいのことしか、申し訳ありませんがお答えできません。

(町永) 経済援助の在り方というのは、やはり通産省(現経済省)の企業誘致ということになるわけですかね。

(安田) はい、そうですね。企業が外国に対して進出することを支援する制度があるのかないのか、ちょっと私は分かりませんけれども、そういう話だと思うんですね。

(町永) ただ、情報としては、官庁の縦割りの中でも横に流すということはできるかもしれませんね。

(安田) そうですね。情報であれば例えば経済産業省の関係の、今はもう独立行政法人になりましたけどJETROというのがあって、多分ああいうところが情報を何か持っているんじゃないかと思いますけどね。

(町永) だから、個別じゃなくてJICAやJETROなんかの連携であるとか、通産省(現経済省)、外務省の連携ということも必要なのかもしれないですね。

(安田) そういうことですね。

(町永) 何やってんだろうということじゃ困るわけでございまして。今、田中さんはスリランカに限ってたんですが、どうですか、1つは今、NGO的な活動を主宰なさっていますが、企業が来るというのはいかがですか、クマーラさん。

(クマーラ) そうですね。確かに今指摘があったように、東南アジアあたりと比べるとスリランカ、南アジアは日本の企業はあまり行っていないですね。でも、最近は少しずつ行くようになっていまして、例えばパソコンの部品とか携帯電話の部品とか、あるいは自動車の部品とか、あるいは半導体。もうさまざまな製造業というものが入っておりまして、一般の方々がなかなか見られないような形で、といいますのは輸出加工地みたいなところに入っているんですね。許可を得なければあの中に入れないわけですので、そういうところであまりご覧になれなかったかもしれませんけど、若干はあります。
 でも、その理由というのは私からちょっとご紹介させていただきますと、やはり国としては外国の企業に来てもらえるような政策を立てたわけなんですが、一部の地域では、北部になるけれども、テロが発生しまして、それが約20年間続いていたんです。ようやくその交渉というのは成立され始めて、今から見ると約2年半前ですね。ということになりまして、日本のNTTとかも向こうに今行かれているわけなんですが、多分将来的には企業はこのようなところへも行くのではないかと思います。今、そういう意味でやっと少し自由に行き来できるような環境が出来てきてそれをうけて企業が行くということではないかなと思いますね。

(町永) まず平和がなければ企業は来ないわけですから、平和を作るというのも国際援助の1つの大きな柱ですから、やはりここも連携していかないといけないわけですね。

(クマーラ) ええ、それにもやはり外務省は非常にバックアップしているのは現状です。

(町永) 多分つながりがあるんだろうと思います。ありがとうございました。
 はい、次、どなた……、じゃあ、まずこちらの女性の方からいきます。

(質問者C) 鈴鹿国際大学の国際交流センターに勤めています者ですが、筒井さんにちょっとお伺いしたいんですけれども、うわさで聞いたんですけれども、青年海外協力隊に一度派遣されるというか行きますと、あと日本で日本の社会が受け入れないというか、筒井さんは運よくというか三重県国際交流財団にお勤めになられましたけど、青年海外協力隊をまた繰り返すというのかな、日本の企業が受け入れないというんでしょうか。
 私は今、国際交流センターに勤めておりますので、若い学生がそういう意志を持って3年なり例えば行きたいと。それで大いに行かせたいんですけれども、それが日本に戻ってきてから、自分のこの社会、会社が受け入れないというのかな、キャリアにならなかったり仕事にならないというのが非常にもどかしいというか、それについてお願いします。

(町永) はい、それは私もよく聞きます。せっかくのキャリアを日本の企業は認めないというようなところもあるという。筒井さん、どうでしょう。

(筒井) そうですね。往々にして私たち……と呼んでいいのかどうか分かりませんけど、変わってるとか変人とかよく言われますけど、何でかというと日本の中でずっとそうやってきたのが普通だったのが、外国に行ってみて、こんなに違っていてもこの国では普通なんやというのを感じてしまいますと、私もそうだったんですけど、今でこそこんなにしゃべりますけどおとなしかったんですね。自己主張なんてあんまりしなかったんです。でも、向こうの国では自分の意見をきちんと言って自己主張というのをしていかないと、自分が認められない。そういう中で曲がりなりにも仕事をしてきたわけなんです。そうすると、話をするということに慣れちゃうもんですから、例えば上司の方から何か言われても、いや、違うんじゃないですかと言っちゃうんですよね。それが日本の会社環境というのかな、そういうのになじまないというのは確かにあると思います。
 ただ、私は思うんですけど、だから行かない、帰ってきても仕事がないから行かないっていったら、それはそれで1つの選択肢やと思うんです。私はすごいラッキーやったと思います。実はこういう仕事に就けるのはすごく限られた人たちだけで、帰国隊員の多くの人はどういうふうに人生設計を立てていくかということですごく悩んでいます。その後道を開いていく人もあればいろいろなんですけれども、それは自分で切り開くしかないんです。いろんなチャンスは、たまたま私は三重県でこうやって見つけることができたんですが、ご自身にかかっていると思います。
 ですから参加される方、いっぱい行ってほしいです。私、この制度を紹介するためにJICAでも1年間働いたことがありますけど、知らなかったじゃなくて知ってほしいです。あとは自分でどうやって切り開いていくかで今度は日本の社会が「協力隊に行ってきても、どうせ価値観が変わるで2~3年で辞めるわ」という考え方じゃなくて、「ああやって行ってきたからこそ、いろんな人をつないでいってくれる人になるんだ」というふうに日本社会に信頼される人になっていかなければいけないなというのを日々感じています。
 ですから行きたい人はぜひ行っていただいて、自分との闘いもあると思うんですけど、私は頑張っていく、私たちと一緒に頑張っていくメンバーになってほしいと思います。

(町永) ありがとうございました。地域が企業を変える1つの要素になっていけばいいわけですからね。
 そちらの先ほど手を挙げた男性、お願いいたします。

(質問者D) 四日市大学の4年生です。よろしくお願いします。僕はODAというのは初めて耳にしたんですけど、国際貢献という言葉を聞いたときに、同時に出てくる言葉が諸外国の人たちがかわいそうだから助けに行くという言葉をよく聞くんですけど、かわいそうだから行くという言葉を日本人は平気で口にすると思うんですけど、その相手にとって失礼に当たる言葉とも取れると思うんですよね。例えば日本でも障害者の人たちが周りの健常者からかわいそうだというふうに言われて、でも、その障害者本人にしてみるとかわいそうだと思われるのはちょっと軽蔑されているような感じがするから嫌だという言葉を聞いたりだとかするので、かわいそうという言葉で国際貢献の中で差別化をされちゃっているような気がするんですけど、そういうところはどうお考えでしょうか。

(町永) Dさん、その国際交流を「かわいそうだから」というのは、どこで聞きましたか。誰か言っていますか。

(質問者D) いや、というか……。

(町永) Dさんの印象ですか。その辺、・・・。

(質問者D) いえ、違いますよ。NPOの方々とか、まあもちろん子どもの……、いろんな経済的な状況とかというのがあって使われているとは思うんですけど。

(町永) ああ、「かわいそうだから、援助しなければならない」。

(質問者D) でも、そのかわいそうだから援助するという行動が本来の国際貢献という意味とは懸け離れているような気がするんですよね。

(町永) 懸け離れていますね。と、思います。そのとおりだと思いますが、一応お話を、では、これは松田所長、ちょっとお伺いしましょうか。

(松田) そうですね、Dさんのおっしゃることは多分そういう面はひょっとしたらあるのかもしれませんけれども、私たちは人間として最初に思うのは、確かに悲惨な状況を途上国の人たちが例えばちゃんと毎日食べるものも足りないとか学校にも行けないとか、そういうのを見てしまうとやっぱりかわいそうという感情は自然に出てくるんじゃないかと思うんです。そこが出発点にはなると思うんですけれども、じゃあ、かわいそうだから何でもしてあげるとか、例えば食料をあげる、物をあげる。それは確かにそのときは喜んでもそこで終わる可能性があって、私たちが常に心掛けているのは、その次の段階ですね。クマーラ先生も先ほどからずっとおっしゃっていましたけれども、自分たちの力で何とか自分の生活をちゃんと安定させるというのでしょうか、そういうふうにできるように力を付けるというのでしょうか、そういうところに視点を持っていかないとやっぱりこういう国際協力とか国際貢献というのは本当の意味でなかなか結果が出ないんじゃないかというふうに思っています。
 ですから長い目で見てやっていくということで、最初の段階で人間の自然な感情としてかわいそうと思うのはよっぽどの人でない限りは普通の人だったら誰でも思うと思うんですね。でも、それから次、1歩進んでいくというのが、やはり我々日本人としてやっていくべきかなと私は思っています。

(町永) はい、ありがとうございました。次の質問を受け付けましょう。どなたにしましょうか。後ろの方、あの方が早かったかな。あのピンクのシャツの方にお願いしましょう。

(質問者E) ご質問させていただきます。ODAの批判的な意見の1つに、ODA自身が適性にどうも使われていないんじゃないかというような批判があると思うんですけれども、これについて外務省とかJICAの方でどのような取り組みをなされているか、お聞きします。

(町永) それではまず、安田さんの方からお伺いしましょう。

(安田) まず、非常に簡潔に申し上げますと、不適正な事業に支援をしないように、相手の国から例えばこういう支援をしてくれというふうな要請があったときに、事前の審査をするようにしています。それは例えば環境の面でありますとかその他の面で、こういう支援をして後々その国に迷惑が掛かることにならないだろうかというような事前の審査を心掛けています。それだけはなくて、事業が始まってからその中間のレビューといいますか、ちゃんとうまく進行しているか、適正な状態で進んでいるかというようなこともやっていますし、さらに終わった後、自己の評価ということで、振り返って反省するべきところがあれば反省するというようなことはしっかり、特にODA改革以降ますますしっかりやるように心掛けているということです。

(町永) それでは続いて松田所長の方からも補足的に、ODAの適正使用に対してJICAとしてはどんなふうに考えているかを。

(松田) そうですね。今、安田さんがおっしゃったように、協力を始める前に本当に適正かどうかという審査、もちろんそれはあります。中間でも見直しとかレビューをしますし、終わった時も本当にこれでよかったのかというのは自分たちでももちろんやります。ただ、やっぱり自分たちだけでそれをやっているとなかなか信用していただけないということで、私たちもいわゆる一般の方とか外部の有識者――大学の先生とかマスコミの方とか一般市民の方に、ODA民間モニターというのはまさにそういうことで、見ていただいて本当にきちんと使われているか、本当に喜ばれているかといったところを見ていただく、それが1つなんですけれども、そういった形で、単に自分たちで自己満足に終わらないように、かつ相手の人が喜ぶからやるというだけではなくて、そこも注意しながら本当に喜んでいるのは政府の役人だけじゃないか、本当に村の人とかそういった人たちは本当にそれでいいのかというのは、これはもう常に上から横から下からいろんな方向で見て注意しながら評価というのでしょうか、そういうことをやって、次の新しい事業をやるときにつなげるようにしております。

(町永) ありがとうございました。ODAが難しいのは援助した時点で評価ができなくて、その後どう使われているか、どう運用されているかということが後になって分かるわけですから、したがって今おっしゃったように民間モニターのような方の活動というのは非常にこれから重要になると思います。
 それでは次の質問をお願いします。ごめんなさい、先ほどあちらの方が挙げておりましたので、はい。

(質問者F) 桑名から来ました者です。環境保全の立場からお尋ねをします。今、海外へODAを通じてさまざまな支援をしていますが、私が聞いた1つのNGOのグループが言っていた言葉というのは、先ほど筒井さんがおっしゃっていましたが、貧しいけれども食べるものには事欠かなかった。昔は事欠かなかった。けれども、さまざまな支援の下で開発をした結果、今、食べることすらできない貧しさがあって、経済の発展によるスラムができてきているというふうに聞きます。では、それは環境破壊によってごみの増加によってそういうスラムができているという中での発言だったんですけれども、果たしてODAとしてどこまでどういう形になるのが1つのゴールなのか、どういうゴールを目指せばODAは要らない世界になるというふうにお考えになっているのか、そこをお聞かせください。

(町永) どなたに聞きましょう。難しいですね。安田さんに聞くのは簡単なんですけれども、ここはちょっと筒井さん、現場での感覚でどう思いますか。

(筒井) ODAのゴール?

(町永) ゴール。

(筒井) それはね、非常に難しいと思うんですけど……。

(町永) 難しいですね。でも、いい質問だと思いますが。

(筒井) そうですね。どこまで行ったらやめたらいいのかというのはあると思うのですが、私は子どもたちのことにかかわってきたので、まずは命と教育ですよね。ある程度、生きることと学ぶところというのは保障されるべきじゃないかなというふうには考えます。
 環境という視点ではちょっと私はあまり深くないので、つながっているかどうかは分かりませんけれども、自分たちがそこで生きていけるサイクルを身に付けるような、何というのかな、自立。要するに物がいっぱいあるから、例えばマンゴを採って食べていたんだけど、マンゴの木を使うので駄目になりマンゴが切れたら、マンゴがなくなってしまったらそのままスラムになるんじゃなくて、マンゴがなくなったら自分たちで働いて食べるんだという、そういうふうな経済のシステムの中に乗っていけるような、そういう援助も必要なんじゃないかなとは思うんですけれども……、いいんでしょうか、こんな答えで。

(町永) 難しいですね。マンゴーを採っていて生活できるのが、つまりさっきの若い人にあったように、かわいそうだ、と。じゃあ、もっと西側的なものをやろうといって商品作物を入れる。そうすると今度はお金を得るために工場を作らなくてはならない。そうすると工場ができる。環境が汚染される。これでよかったよかった、みんな豊かになったって、本当の豊かさとは一体何なのかという問題にもつながるので。
 クマーラさん、さっき人材開発、教育の話もありましたけれども、ODAの在り方。でも、これは教育とか命って援助の在り方としては見えにくいですよね。人材開発も。

(クマーラ) そうですね。人材開発もやっぱり結果を見るためにだいぶ時間がかかるというのはちょっと悲しいところですね。痛いところ。
 でも、僕はちょっと具体例で紹介したいと思うのですが、TFGがスリランカの方で活動を行うときの、例えばお菓子作りで1カ月当たり12万円の収入を得る女性がいるという話をしましたね。あの子は6年前に研修に初めて参加して、あの時に住んでいたのは8人で1つの部屋だけのところでした。あの時にはもちろん生活するのは精いっぱいだったわけですが、今度2年後に僕らが行くと家を建てているわけです。
 それからは僕らは最初の時に手伝いをしただけで、その後は手伝いをしていません。しかし、今度さらに2年後に行ってみると、先生、私はこの村にたくさん人が……、もう頑張りたいと思うというわけですから、そういう人たちを集めるからいろいろ指導してくださいということでお願いに来て、今度はそういう人たちの手伝いをするわけです。今度はしばらくたつと自分が事業家になって、今は人を雇ってまでそういうことをやることになるわけですね。
 ああいう人たちにはもう手伝いをする必要はないわけです。自分たちが力を持って、今度はさらに人々の手助けをするような能力を付けたわけですね。やっぱりこれは一番いい形ですよね。簡単に言えば自分たちのことは自分たちでやれるような能力を付けたら、もうそこはゴールじゃないですか。

(町永) はい。クマーラさんの考える1つの援助のゴールというのは自立であるということですが、ここでやはり安田さんにも答えていただきましょう。ODAで、つまり援助の在り方で良かれと思ったことが、確かに豊かになったけど環境汚染にもつながる、環境の問題とどうかかわるのかということですが。

(安田) 私が考えていたことは、2人の方に大体言われてしまったのですが、やっぱりまさに今、外務省のODA大綱といってODAをどういうふうに進めていくかという本当の大元のバイブルみたいなものがありまして、そこにはやっぱり自助努力支援ですよね。最初のうちは確かに魚をあげるかもしれない。けれども、いずれは自分で魚を釣れるようになるまで支援する。自分たちで魚を釣れるようになった時点で一応ゴールなのかなという気はしますよね。
 あと環境の絡みは、確かに環境問題などというのが多分ここ10年ぐらいから言われ始めるようになって、これはちょっと制度的な話になって申し訳ないんですけれども、各援助実施機関の環境ガイドラインというのを設けて、まさに事業をするに当たって環境的にどう影響があるのかということをちゃんとアセスメントして、それからするように心掛けているということもあるので、そこはやはり極力気を付けていかなくてはいけないのかなというふうには思っています。

(町永) ありがとうございます。これは多分ここで解決できない問題で、京都議定書の問題のように先進国だけで取り決めをして、あとの途上国は温暖化に協力しろというと経済発展を許さないのかという反発もあるわけで、これは本当にグローバルに考えなければいけない、若い世代の方たちに引き継ぐ課題ということになろうかと思います。
 時間が迫ってまいりましたけれども、まだまだ質問を受け付けましょう。はい、そちらの方。

(上村) ミャンマーで活動しているNGOですが、先週ですがミャンマーの方で7つのNGO団体が集まって、もっともっとおれたちの活動を日本で宣伝しようよというふうな話をしてきたところでございますけれども、それぞれ外務省、JICAさん、それからNGO、それぞれの立場でいろいろあろうかと思うのですが、ただ、非常に国情になったというのでしょうか、国によって相当活動に違いがあるなと。そして、援助の仕方も非常に違いがあるだろうと。非常にODAが多様化していかなければならないのではないかなというふうな僕らの思いもあるし、そしてNGOの活動もそうではないのだろうかということを実感しております。
 ただ、その環境の方のことに関して、私、日ごろきこりをやっているものですからあれなんですけれども、日本ではやはり植林、木を植えれば環境でどうのこうのという発想があると思うのですが、発展途上国では現地の人たちには環境という概念はほとんどありません。そして木を植えるというだけではどうなんだろう、育林の方はどうなんだと。だから、そういうことに対してもやはり置き去りにされている支援方法じゃないだろうかとか、非常に環境問題は複雑ですけれども、だけど、私たちの環境に対する考え方を押し付けるのは非常に問題がある。
 そういう意味でクマーラ先生がおっしゃった自立、それはやっぱり教育から始まるなと。私も何とか焼き畑を直したいなと思いながら行ったけれども、やはり社会なり森を作るのはそこに住んでおられる方だと。森を作るには400年100年といわれますけれども、最低やっぱり40~50年はかかるだろう。そういうことから考えると、我々ができるのはほんのわずかな支援じゃないだろうかというふうな思いがします。
 そういうことから含めて、じゃあ私たちはなぜ海外支援が必要なのか、ゴールが……、僕はゴールなんか必要ないんじゃないかと。むしろ、私たちは世界で1位2位を争う支援国家だということが大いに誇れるんじゃないか。今、日本人が、私たちが世界に誇れるという、これが最大の誇りじゃないだろうか。その信念を私たちは持って生きるべきじゃなか。
 でも、我々日本人はそのことを果たしてどこまで自覚しているんだろう。税金を無駄遣いにされているんじゃないだろうか、いろんな思いがあろうと思いますけれども、この誇りをやはりもっともっと私たちは自覚し、そして外務省なりJICAなり、そして我々NGOも多いにこれは胸を張って活動していきたいなというふうに考えております。

(町永) ありがとうございました。もっともっと多様化するためにはNGOの実践の立場からのご意見だとか、そういった意味ではあれですね、NGOが多様化してODAの在り方に刺激を与えるということも重要なことになるかもしれません。ちなみにそれはミャンマーの服でございますか。

(上村) はい、そうです。

(町永) はい、お似合いです。ありがとうございました。
 ご意見もいただきました。あとお1方、ご質問を受け付けたいと思います。まだご発言していない方にさせてください。いらっしゃいますか。別に最後だからといって気負わなくても結構です。はい、どうぞ。

(質問者G) 国際協力の場は恐らくいろいろなレベルで行うことができると思うんですね。国であったりとか、あとまた地域であったりとか。ただ、やはり一番大事なのは先ほどもおっしゃっていたように国際協力であったりとかODAの方の日本人全般の認知度が現実としてなかなか高まっていないというところがあるんじゃないかなと思うんですね。
 それで、私の考えの中ではやっぱりそういったものを広く普及させていくためには日本における教育というのが非常に大切だと思っているのですが、恐らくクマーラ先生に質問すると思うんですけれども、大学または教育機関においての国際協力またODAの教育の役割ですね、可能性とかという感じでしょうか、それはどのように思ってみえるんでしょうか。

(町永) どなたにお伺いしましょう。

(質問者G) クマーラ先生が一番いいのかと、はい。

(町永) クマーラ先生、ODA教育、いかがでしょう。

(クマーラ) 私どもの大学では国際開発事業を私は担当しておりまして、この話をします。ちょっと面白いことに、ほかの日本人の先生が話をすると、我々日本とかいうふうに言うんだけれども、私はそれはちょっと言いづらいですね。なんですけれども、やっぱり日本がなぜほかの国々の方の手伝いをしなければいけないかということをいろいろな形で紹介しますと、非常に学生とかは関心を持ってもらえます。それは聞くだけではやはりちょっと理解はしてもらえないと思います。というのは、あまり慣れてもいないですね。だからいろいろな形で、それも具体例を紹介しますと、今、留学生がたくさん大学の方に来ておりますけれども、留学生と日本人学生の交流、この中でいろいろなことを学びます。そういう形にするとその学生がやはり非常によく「誰々さんの国ですよ」などと思って、「おまえたちの国はこういう弱点があるのか、じゃあ我々で手伝いできるものがあれば」そういうふうに立ち上がって、例えばネパールとかを支援しているような学生も中にはいるわけです。
 やはりおっしゃったとおり、今まではなかなか慣れていなかったようなものであれば、いろいろな形で我々がその刺激を与えなければいけないなと思います。もう1つは人によって受け止め方が違うわけですね。どのような形で説明してもやはり理解してもらえない学生も中には出てくるわけですが、そういう学生にも分かるように説明する義務を我々は持っているわけですけれども、個人差があります。しかし、最近その科目に非常に関心を持ってくる学生が多いかなというふうに私の方で感じています。

(町永) はい、ありがとうございました。皆さん、長時間どうもありがとうございました。もう時間が少し延びておりますので、最後に皆さんから一言ずつお話を伺って終わりたいと思います。
 三木さん、緊急援助についてあまり皆さんから質問が来なかったのは残念ですが、でも、緊急援助というのは日本の役割を一番アピールできる場でもありますね。どんなふうにお考えでしょうか。

(三木) 先ほども言いましたが、やはり向こうの現地へ行って我々日本から来たんだよと。それで実際に顔と顔を突き合わせて、困っている方を少しでも助ける。やはりそういった顔と顔の見える関係、それが僕は一番大事だと思っております。

(町永) そうですよね。そして松阪という地区も大きく変わっていくし、フィジーからの研修生を受け入れているという地域も変わる大きな要因になったというふうにお考えでしょうね。

(三木) そうですね。あれ以来、職員もですけれども地域の方も本当に関心を持っていただいて変わっていったと思います。

(町永) 大変だろうと思いますが、ぜひこれからも緊急援助をよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
 さあ筒井さん、最後に一言、どんなふうにお感じでしょう。

(筒井) そうですね。いろいろな形の国際協力があると思うのですが、私、最後の方でちょっと、映像の方で出しましたけど、対国、外国に向けての国際協力活動というものももちろんあると思います。それはODA活動でもあるしNGO活動でもあるのですが、国際貢献をしていくということの1つの中に、やっぱり94カ国の方々が三重県に住んでいらっしゃる、この財産をどのように生かしていくかということを私はものすごく三重県で、ここの地域レベルで考えたいんです。ここでこの財産を無駄にしているんじゃない?と。もっと私たちはいろいろな形で、たくさんの留学生の方に来てもらっていますけれども、留学生の方、在住の方含めていろいろな可能性をつかんでいって、三重県が日本の中で一番住みやすい、一番いい地域だといわれるような取り組みをしていきたいと思います。
 そのためには134の国際交流、国際協力を行っている団体さんと、それからそれに理解を深めてくれる人たちを増やしていくことだと思います。これからもいろいろな場所でこういうふうに皆さんに聞いていただいて、きっかけ作りというものを行っていきたいと思います。また皆さんが皆さんのお友達に広めていっていただくメッセンジャーになっていただければと思います。
 ありがとうございました。

(町永) はい、ありがとうございました。
 国際協力というと海外に行かないとできないということじゃなくて、三木さんの活動もそうですけれども、地域で足元をちゃんと見ることによってたくさんの国際協力ができるんだというお話につながると思います。
 クマーラさん、最後に一言お願いいたします。

(クマーラ) やはり日本の能力、日本がどのような位置にいるのかということは多くの方がまだ十分に認識していないような気がします。私のような発展途上国出身の者が今日本でこういうふうに仕事をさせていただくときには宝物があちらこちらにいっぱいあるわけですよ。そういうものを途上国の方にちょっとお見せするだけで、そのノウハウ、技術はものすごく役に立つわけです。日本の方でそれほどあまり意識していない、また評価もされていないようなものをそういう必要なところに伝えることを、やはりぜひいろいろな形で、していただきたいと思います。

(町永) はい、ありがとうございました。
 外務省の安田さん、お願いします。

(安田) 私は今民間援助支援室という日本のNGOを支援する部署に来てはじめて、日本にこんなにも途上国での支援活動を行っているNGOがあるということを知りすごくびっくりしています。今、非常にNGOというのは数が多くて、しかも元気です。そして、だんだん開発経済といいますか開発支援の関係の勉強を非常に専門的に勉強された方も数多くいるということで、いい意味で非常にびっくりしています。
 それで本当に外務省は今、国際協力を一緒になってやっていく重要なパートナーということでNGOの方々を見始めているところです。ですから、これからどんどんNGOに対する支援というのは予算的にも増えてくんだと思いますけれども、それに伴って、NGOの方々にますます、これまでのボランティアだからちょっと適当でもいいかみたいなことは一切捨てていただいて、本当のプロなんですということで皆さんの能力を磨いていただいて、そしてNGOの組織自体を適正な形で大きくしていくということも外務省は支援しているんですけれども、そういうことに努めていただいて、そしてお互いに補い合えないところを補っていくといいますか、まさに草の根レベルで国の人間からはなかなか見えにくいようなところのきめの細かい支援をNGOの方々にお任せしていきたいというふうに考えていますので、皆様のご協力といいますか、ますますの発展を願っているということです。
 以上です。

(町永) ありがとうございました。本当に安田さん、外務省というお立場ですけれども、これからODAをどう分かりやすく一般の皆さんに、つまり納税者皆さんが支えているわけですから、きちんと説明していくということはこれからますます重要だと思いますので、今年50周年という機会にぜひよろしくお願いいたします。
 最後にJICAの松田所長、お願いいたします。

(松田) 私、今月初旬に名古屋の方に参りまして、今までは東京のJICA本部にいたんですけれども、6月からJICAの中部センター、名古屋のちょっと東の方に一社というところがあるんですけど、そこに来ました。こちらの方はあまり詳しくなかったんですけれども、この2週間ですごく勉強させていただきました。愛知県の方はもちろん、三重県の方も非常に今回の国際貢献フェスタを見ていましてもすごく熱心で、いろいろな活動をされている方がたくさんいらっしゃると非常に心強く思っております。
 今日来られている方はもちろんものすごく意識の高い方だとは思うんですけれども、皆さんの周りの方々、家族の方、どなたにでも、JICAは名古屋にもありますし、こちらの国際協力財団のところにもJICAの人間がおりますし、もちろん筒井さんのような方もいらっしゃるということで、まずちょっと声を掛けていただいて、資料でも何でも提供いたしますというところで、関心のある方はぜひ立ち寄っていただきたいと思います。
 それから私たちは開発教育や国際理解教育といったところでも、例えばそういう指導者の方のセミナーをやったり、あるいは私たちの中部センターには外国からの研修生がたくさん来ています。こちらにも留学生の方がたくさんいらっしゃいますけれども、そういう人たちと一緒に交流する場というのは設けられますので、例えば学校でもどこでもいいんですけれども、出掛けていってちょっとお話しするとか、あるいはセンターを訪問していただいて外国人の方と一緒に交流するといったことももちろんできます。
 それからエッセイ・コンテストなどはいい作品ですと外国に行けるとか、そういうことももちろんできますし、逆に途上国でエッセイ・コンテストを高校生などを対象にやったことがあるのですが、そのご褒美で日本に来て、日本の高校生と交流して、それが非常にずっとつながったとか、いろいろなことがございます。
 ですから、どんなことでも私たちにちょっと聞いていただいて、一緒に考えていい国際貢献ができるようにしていきたいと思います。よろしくお願いします。

(町永) ありがとうございました。
 ODAタウンミーティングin津ということでお届けしてまいりました。よくODA、国際援助、政府援助といわれます。援助という言葉を私はよく考えるのですが、援助は与えるというふうにいいますけれども、じゃあ我々が援助を与えるのか、そうじゃなくて、青年海外協力隊やシニア海外協力隊へ行きますと、向こうから得られるものがたくさんあるんですね。筒井さんのお話のように、我々の生き方、我々の価値観をもう1回検証する。あるいはさっきクマーラさんが言ったように、我々の持っている資源の良きもの、もっともっと使えるものというのがあらためて見えてくる。実は援助するということは多くのものを途上国から得ることだと、そんなふうにも考えております。
 ぜひ我々の生きがい、若い人の生きがい、それから中高年のこれからの漠然とした社会の先行きに対する不安というのは、ある意味で海外に目を向ける、途上国の人々と話し合うということでたくさんのヒントが得られると、そんな気もしております。
 今日は長時間にわたって、私の不手際で時間が少し延長してしまいましたが、皆さんもずっといらしていただいて大変感謝いたします。最後までまだフェスタが行われて、皆さんの熱心な活動にも敬意を表しつつ、今日のタウンミーティングを終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
 ここでお知らせです。皆さんのアンケート用紙に記入してぜひお帰りください。これはぜひ皆さんの意向を反映して、このタウンミーティングに生かしたいと思っています。アンケートにぜひ記入してお帰りいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

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