参加希望 国際協力について語ろう

ODAタウンミーティング in 日比谷
(議事概要)

平成16年10月2日


日時: 10月2日(土)14:00~15:30
場所: 日比谷公園野外小音楽堂
出席者: モデレーター:
・戸田 隆夫
(JICA平和構築支援室長)
パネリスト:
・上村 司
(外務省経済協力局政策課長)
・庄野 真代
(歌手、世界各地でのチャリティー・コンサート開催、JICA有識者調査でのアフリカ訪問等)
・真田 陽一郎
(慶應大学大学院)
・柳沢 敦子
(国際基督教大学(ICU))
総合司会:
・清水 牧子
(フリー・アナウンサー)
議事概要:  以下の通り(なお、発言内容については事務局の責任の下にまとめたものであり、発言者のチェックを受けておりませんので予め御留意ください。)


(清水) 写真 本日は、国際協力フェスティバル2004にお越しいただきまして、まことにありがとうございます。ただいまよりODAタウンミーティングを開催させていただきます。
 申し遅れましたが、本日、進行を勤めます清水牧子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、このODAタウンミーティングですが、平成13年8月に東京で開催されたのを皮切りに全国各地で開催されておりまして、今回の日比谷公園の実施で実に24回目を迎えます。また、ことしはODA50周年で、この節目の年に、これまで50年間にODAが果たした役割を振り返りつつ、今後、日本が開発途上国との国際協力においてどのような役割を果たすべきなのか、未来を考える、未来のODAとはなど、わかりやすく、そして幅広く皆さんとともに考えていきたいと思います。
 さて、本日のスケジュールですが、ご出演いただきました皆様とともにODAの現状、そして体験談などをお話しいただきまして、さらに後半部分では会場の皆様からご意見やご質問などをいただくことを予定しております。終了は午後3時半を予定しておりますので、1時間半の間、最後まで皆様とODAについて考えていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、早速、壇上の皆様をご紹介させていただきたいと思います。まず私のお隣に
いらっしゃいますのが、この後、進行を担当していただきます独立行政法人国際協力機構、平和構築支援室長、戸田隆夫さんです。どうぞよろしくお願いいたします。
(戸田) どうもありがとうございます。ご紹介にあずかりましたJICAの戸田です。きょうのモデレーターということで、引き立て役を仰せつかっております。きょうは90分間皆さんと一緒に楽しみたいと思っております。よろしくお願いします
(清水) よろしくお願いいたします。そして、お隣、中央は、ナイロビの国連環境計画会
議の際のテーマソングを歌ってくださいました、皆様おなじみ、歌手の庄野真代さんです。
 どうぞよろしくお願いいたします。
(庄野) こんにちは。庄野真代です。ODA50周年ですか。何か人ごととは思えないですね。実は私が生まれたころ、日本がまだ貧しかったと思うんですけれども、そのころから海外への協力を始めたんだと知ると、何かますます自分にできることで係わっていきたいなというような、そんな気持ちになります。私はずっと音楽をやっているので、音楽というものを通じて国際協力とか、何か人と人が交わる場をたくさんつくっていければいいなと思って、日本のみならず海外でもチャリティコンサートを開いて、そこでメッセージを伝えようというような活動をやっています。音楽のあるところには人が集まってきます。人がたくさん集まってくると、一人ではできなかったことができるようになる、そういう気持ちで取り組んでいます。また、一方、国際協力とか、開発援助についての勉強をしている学生もやっているので、きょうは皆さんからたくさんのお話を伺って、大いに勉強して帰りたいなと思っています。よろしくお願いします。
(清水) よろしくお願いいたします。そして、続きましては、釣りと料理の名手と伺っております。外務省経済協力局政策課長、上村司さんです。よろしくお願いいたします。
(上村) よろしくお願いします。皆さん、こんにちは。外務省の経済協力局で援助の担当をしております上村です。2カ月前にイラクから帰ってきました。それで、いまこういうふうに東京の空の下でこれだけの人に集まっていただいて、爆弾だとか、テロだとか、そういう心配もなしにこういうお話ができるのは非常に感慨深いものがあります。私は役所に入りまして24年ほど、ほとんど途上国と言われる国とお付き合いをしてきました。専門の言葉はアラビア語で、そしてイスラムのテロですとか、そういうことをずっと専門にしてまいりました。ですから、私の考えているODA、政府開発援助というのは、少し皆さんの一般常識とは違うところ、つまり飢えや病気だとかという別の側面のODAもあるんだというようなことをきょうは皆さんと議論させていただきたいと思いますし、現職が経済協力の援助の仕事ですので、皆さまのご意見もこれからの仕事に生かしていきたいと思います。庄野さんがご紹介になりましたけれども、私も子供のころから、たとえば名神の高速道路ですとか、東海道の新幹線が開通したときのことなんかをよく覚えていますけれども、実はあれは世界銀行からの援助でできたものなんですね。ですから、日本も50年間の歴史を振り返ると、援助の受取手であったこともあるし、それからいまこんなに繁栄といいますか、安全で生きがいのある社会を築いているということは胸を張っていいと思っています。きょうはどうぞよろしくお願いいたします。
(清水) よろしくお願いいたします。そして、今回は学生の方にもパネリストとして参加していただきました。アフリカ学習会を立ち上げられました国際基督教大学の柳沢敦子さんです。どうぞよろしくお願いいたします。
(柳沢) よろしくお願いいたします。今回、テーマが「若者が担う未来のODA」ということで、ここに参加させていただくことになりました国際基督教大学4年の柳沢敦子と申します。大学では国際教育という分野を専攻しています。国際教育って何だろうと思われるかもしれませんが、大きく分けて二つ。一つは、日本国内でさまざまな外国のことを学ぶ国際理解教育や、途上国について学ぶ開発教育などを研究する分野と、二つ目は、途上国の教育の現状とか、教育開発における国際協力について学ぶ分野とあります。私はその後者のほうを専攻しています。いま紹介にもあったんですけれども、大学時代アフリカに興味を持ちまして、これまでに2回、ケニアにスタディツアーに行きました。それと前後して、アフリカ学習会、トゥナペンダ・アフリカというものを主催しています。このウナペンダ・アフリカというのは、東アフリカ、ケニアやタンザニアなどで使われているスワヒリ語でウィ・ラブ・アフリカという意味です。この学習会でアフリカのことを自分でも学び、みんなにも伝えていきたいなと思って活動しています。どうぞよろしくお願いいたします。
(清水) よろしくお願いいたします。そして、インドネシアではレスリングを教えていらっしゃったということで、後ほど経験談などもお聞きしたいと思いますが、慶応大学大学院、政策・メディア研究科、真田陽一郎さんです。よろしくお願いします。
(真田) よろしくお願いします。初めまして、真田と申します。いま現在は学生として大学院のほうで外交政策、その中でも政府開発援助の政策に関して勉強しています。実は去年まで、インドネシアという国に行っておりました。皆さんご存知の方も多いかと思うのですが、JICAが実施している青年海外協力隊というものに参加したのがきっかけでした。その時には、只今ご紹介頂きましたとおり、レスリングの指導ということで活動してまいりました。一度帰国して、国内で1年ほど働きまして、また2000年からJICAの青年海外協力隊のサポートというか、要請案件をつくったりですとか、実際現地に派遣された隊員をサポートするという仕事で、去年までインドネシアに行っておりました。その後、2000年からJICAの青年海外協力隊をはじめとしたボランティア事業の要請案件をつくったり、実際に派遣された隊員やボランティアの活動をサポートするという仕事をやっておりました。
 きょうは、会場の皆さんと一緒に、未来のODAについて、こちらにいらっしゃるJICAの方ですとか、外務省の方に対して提案というか、何か伝えられればと思って参加させていただきました。よろしくお願いします。
(清水) よろしくお願いいたします。それでは、皆さんのご紹介の終わった後で、早速ディスカッションに入らせていただきたいと思います。では、戸田さん、進行のほうをお願いいたします。
(戸田) どうもありがとうございます。二つ申し上げたいことを考えてきました。一つはこの90分セッションのキーワード。きょう鬚を刈ってもらいながら考えたんですが、 100年の創造力。何で 100年か。過去の50年、これからの50年、そういうでっかいタイムスパンでわれわれの国際協力を考えていきたいと思います。もう一つ申し上げたいこと、それはこうやって皆さんの貴重なお時間をいただきますので、何かお土産がないと困る、成果がないと困る。やっぱりここに参加してもらって、楽しかったり、よかったなと思ってもらわなければ困る。希望の種、何でもいいんです。われわれの言葉、それから後で皆さんからご参加いただいていただいた言葉、そういう中から何かほんの小さなものでもいいから、コツンと残る希望の種を皆さん方一人一人に持って帰ってもらえればと思って、ベストを尽くしたいと思います。まず、パネラーにお話頂き、それから皆で議論をしたいと思います。この人にこれを聞いてやろうとか、私はこういう意見をぶつけたいとか、お考えいただくなどして、最初から積極的に参加していただけると非常にありがたいと思っております。
 さっき庄野さんのほうから、もう50年になるんですねというお話がありました。ODA50年。上村さんはまだそのとき生まれていなかったと強調していますが、上村司ぼっちゃんがおむつをして、ハイハイしていたころの昔、それからこれから先の50年、柳沢さんが70歳近くになっている時代、この二つを想像しながら、まず上村さんのほうに日本のODAについて語っていただきたいと思っております。よろしくお願いします。
(上村) はい、わかりました。それでは、ちょっと5分か、10分お時間をちょうだいして日本のODAについて、どういうことをやってきて、それから私の体験も踏まえながら、これからどうしていったらいいんだろうかということを、政府サイドの公式見解に近いやつを言わせていただきます。
 さっきイラクから帰ってきたばかりだと申し上げました。日本の東京の、こういう安全でみんなが自分の生活をエンジョイできる社会というのはいかに大事かということを私はまた再確認をしたつもりです。2カ月前は銃弾や爆弾が飛び交うようなところにいたわけですから、どうしてこんなに違うんだろうか。それからこれから50年先のことを考えますと、たとえば皆さんのお子さんや、あるいはもしかすると、お孫さんの世代に、これと同じような社会が日本にあるのだろうか、そのためには何をしたらいいのだろうかというところが、実は政府開発援助、政府でやっている援助の一番基本的な考え方にあります。
 いまこの社会を見渡して、大きな問題が恐らく二つあると思います。一つは、おととしの9月に起こりました、ああいう考えもしなかったようなテロの問題。いま東京ももしかすると、それからのがれられないかもしれません。21世紀は文明の衝突だと言われる学者さんもおられます。そのような大きなテロの背景にある思想、みずからの生き方を問う人たちと、それからこういうわれわれのような強い市民社会を担っている者との「戦い」とは言いませんけれども、非常に強い緊張関係があって、この問題を何とかしなければいけないというのが大きな一つの塊だと思います。
 それからもう一つが、たとえばエイズですとか、それからSARSですとか、飢えですとか、教育ですとか、こういう一般に伝統的に言われてきました援助の社会、この二つの大きな課題をわれわれはいま背負っているという気がします。昔はよく言われました。たとえば社会が豊かになれば、みんなハッピーになるんだと。そういうことで、鉄道をつくったり、港をつくったり、ダムをつくったりしてきました。それが過去50年間の、日本のみならず、世界銀行ですとか、アメリカも含めて先進国の援助の考え方だったんです。だけど、それはどうもいろいろ問題があるということもわかってきた。たとえばダムをつくって、それで住居移転を強要される方がいる。そうすると、地域社会全体にとって一体何が得なのだということが問われるようになってきました。したがって、いま日本政府もやっております政府開発援助については、そういう環境の問題についてプロジェクトをやる前にはちゃんと評価をするというふうに変わってきています。まさに私は政府の開発援助、ODAというのは万能であるとは思いませんし、すべて正しいとは思わないので、日々そういうふうな改善をしていくということが求められていると思います。
 じゃ、そういう基本姿勢で、いま申し上げた二つの問題、テロなどの問題と、人間の根幹に係わる、むずかしい言葉を使いますと、人間の安全保障なんていう言葉があるんですけれども、こういう問題にどうやって対処していくんだということです。私の一つの答えは、これは後で皆さんとも議論したいんですけれども、やはり日本のいまの繁栄とか、平和を見ていますと、いかに市民社会が強くなるか。つまり皆さん自身がどんな心情を持っていようと、あるいはハンディキャップを持っていようと、それなりに自分の能力を発揮して、それが自由に発揮できることを保証される社会というのは、実はすごく強い社会だと思うんですね。途上国の多くを見ますと、そういう市民社会といいますか、自分の能力がちゃんと発揮できない、そういう状況にある国がある。今のイラクのような国です。たとえばきょう私が出勤して帰ってくるときに安全に無事に帰って来るかどうかわからない。もしかすると、途中で暗殺されるかもしれない、途中で爆弾にあうかもしれない、そういう社会もあるでしょう。それからもう一つは、たとえばエイズですとか、水だとか、基本的なものが欠けている、社会、経済的、社会的に遅れた社会というのは、それこそ、きょうもうすでに病気しているかもしれない、そういう国では私たちがいまエンジョイしているような強い市民社会というのはなかなかできない。そこを非常に小さな力ですけれども、日本や先進国が、国民の皆さんからの血税をいただいて、それを援助に回して、そういうところを底上げしていく、これが基本的な考え方だと思います。
 きょう、僕は失礼ながら帽子をかぶってきましたけれども、それは赤い羽を皆さんに見ていただくためなんです。いま日本の一般会計予算に占める政府開発援助の金額というのは 1.7%です。日本のODAはずさんだとか、こんなところにやる必要がないとか、いろんな議論があるのは私たちもよく知っていますし、それは日々改善していくつもりです。しかし、皆さん、ちょっと考えていただいて、いま財布の中に1万円札がある。そして近所のお付き合いでこの中から 170円を使うというのが、お金の面から見たいまの日本の援助なんです。たとえば赤い羽の募金があったら、10円でも募金するでしょう。近所でお父さんがお酒を飲んで働かない、家庭内暴力がある、子供たちが困っているというところには、もしかすると、ノートや、そういうことで、20円、30円と。つまり1万円というお金をポケットに持っていて 170円をお付き合いに使っている、お付き合いといいますか、近所の支援といいますか、助け合いに使っているというのがいまの現状なんです。これが多いか少ないかという議論はありますけれども、最近だんだん減っているんです。日本の経済もこういう非常に厳しい状況が続きました。それから外務省に対する厳しいご批判もありました。そういう意味もあって、この援助に使えるお金というのはどんどん減っているんですけれども、果してこれでいいのかなと思います。血税をちゃんと使うということは必要です。それを効果的に使うということも必要です。だけど、私は1万円の予算があったら、そのうち 170円をそういう助け合いに使うということは少なくとも守っていきたいと思うし、皆さんの生活も安定した国際社会ですとか、強い国際社会にこそ助けられるものです。石油だって 100%輸入です。食糧だって、いま半分以上は輸入に頼っている。こういうわれわれの生活が成り立っているということを忘れないで、いま申し上げた二つの大きな問題をどうやって解決していくかというが私のいまの課題で、ぜひ皆さんのご意見も伺いたいと思っております。
 以上です。
(戸田) どうもありがとうございました。実は私も去年イラクにおりまして、上村さんに大変お世話になったんですが、料理がすごくうまくて、バクダッド握り飯の味を噛みしめながらいまお話を聞いておりました。でも、1万円中 170円がいいかどうか、ここら辺は多分皆さん方から熱い突っ込みが後であると期待しております。
 それでは、三つの顔を持つ女性といいますか、歌手であり、社会活動家であり、そして学生もなされている庄野真代さんのほうからお話をいただきたいと思います。
(庄野) 1万円のうちの 170円について興味を持ち出したのはここ四、五年で、その前は全く、新聞なんかでODAとかと書いてあっても、税金なんだなとか、ああ、ほかの国も助けているんだなぐらいの認識しかなかったんですね。最初にこういう国際的なことに興味を持ったのは環境についてで、わりと音楽家って環境についてとやかく言ったりするんですけれども、やっぱりいい環境がいい心を育てて、クリエイティブな発想を生むみたいなところもあり、私たちの地球だから、私たちが生まれて育ったところだから、もっと関心を持って、これ以上ダメージを与えないように何かしなければいけないと。私もそういう入口から入っていって、自分が世界旅行をした経験から、地球の素顔を見て、本当に掛けがえのない、たった一つのものなんだ、だから大事にしなきゃと思いはじめました。 そうすると、地球の問題というのは、地球に暮らすいろんな人の問題なんだ。私の問題でもあり、みんなの問題なんだ。だったら、みんなが助け合って、この問題を何とか解決しようと、力を出さなければいけないんじゃないかなと思ったんですよね。私的にはそういうことについて勉強するとか、それからそういうメッセージを発信する場を多くつくったり、そこに参加したり、まず知識のない私たちが一番最初にできることは、そうやって自分が出かけていったり、そこで聞いたことをだれかに伝えたり、そういうことが一番すぐできる国際協力だなと思っているんです。
 そして、その1万円の中の 170円がどう使われているのか興味を持ってから、いろんなところをのぞきに行ったんですね。それで、去年の9月までロンドンに1年間留学していたんですけれども、ロンドンでオックスファムというNGOでボランティアをしていたんですよ。アフリカの人たちが食べ物がなくて、水がなくて、とても困っていると。そのときに、じゃ、コンサートをロンドンで開いて、協力してくれる人、支援してくれる人を募ったらどうだろうかと。このコンサートが非常にうまくいって、結構大きなまとまった金額を寄附することができ、使っていただく目的はアフリカの飢えで苦しんでいる人のためにということだったんです。そのニュースを聞いた各国の何人かから、私のいる町でもコンサートをやってくれませんかという声があって、クアラルンプールに行ったり、タイに行ったり。去年の11月にはフィリピンのマニラでチャリティーコンサートをして、そちらのほうではストリートチルドレンを支援するためという目的でした。音楽というのは、むずかしい言葉を使わなくても、何か感じ合うことができたり、音楽を聞いたことによって自分は幸せな気持ちになったな、じゃ、この幸せをいま幸せでないだれかのために少し分けてあげよう、そういう気持ちになる、そんな気がしているんです。
 ついに、ことしはJICAからの有識者派遣ということでアフリカに行ってきました。ニジェールとエチオピアに行って、実際にODAの協力によってどんなことがなされているのかと、海外青年協力隊の活動も見てきました。それまではODAって、お金だけボーンとどこかにあげているんじゃないか、技術だけあげているんじゃないかというような、ちょっと悪いイメージがあったんですけれども、行ってびっくりしました。エチオピアは本当に水がないの。私が行ったときは雨期の前だったんですけれども、それでも地面は赤黄色で、ひび割れていて、そこで何とかタマネギをつくっている人を見たんですけれども、それも苦労してどこからか水を持ってくるんですよね。それを日本の協力で、川とか、湖からポンプで水を引いてきたり、集落のあるところに井戸を掘ったりとか、ためたりして、村の人たちに何とか水を供給しようとしている。じゃ、日本のお金を使って、そういう設備を作って、そこに技術者を呼んでやっているだけかといったら、そうじゃなかったんです。そこにポンプを設置する前に、いろんな村に呼びかけて、ここに水を運んでくるポンプをつくりますよ、それにどれだけ協力できますかということをみんなに知らせるわけですよね。各村で水委員会というのをつくって、じゃ、自分たちは日本の協力でできた水の設備を今後どうやって維持するかというところまでちゃんと考えるわけです。きちんとプログラムができているところにその設備をつくってあげましょうというような形で、その指導も、たとえばポンプを動かすには電気が必要だ、じゃ、電気代がかかる、この電気代はどうやって自分たちで生み出すのか、じゃ、水を分けるときにそれを売るということにして少しばかり料金をもらって、この料金をちゃんとためておいて、電気代を払ったり、それから壊れたときの修理をする費用に使ったり、もしお金がもっとたまったら、みんなでミーティングができるような集会所をつくるとか、そういうことをやっているんです。そのプログラムの指導。たとえば帳簿のつけ方とか、そういうのも日本から行った専門家の方がずっとやっていらっしゃいました。
 こういうことをしないと、物だけをあげても、お金だけを持っていっても、それをもらった人は継続して使っていけないんですね。そういうところまできちんと考えて日本から援助の手が伸びているんだなと思うと、すごくうれしくなったし、そこでその水を使った人、水を飲んだ人、水を自分のお家に運べた人というのは、すごくありがたいと思うし、水の大切さもわかる。それから、私たちは水と食べ物だけあれば生きていけるというのではなくて、そこに心の交流があると、何かすごく気持ちが潤ったりする。改めてすごいことをしているんだなと思いました。
 もう一個、これは私にとってまだ全然わからない問題なんですけれども、マニラでいつも氾濫する川があって、そこを日本の資金で整備している。でも、その設備をつくるために、さっき上村さんからダムのために立ち退きになる人のお話があったように、やっぱり川べりに住んでいた人はそこに住めなくなって、どこか違うところに移動する。でも、移動させられた人というのは、その川の近くにごみがいっぱい積まれる場所があって、そのごみのところに行って、ごみの中からお金にかわるようなものを集めて生活していた人なので、そこからどこかに移動させられると職がなくなってしまう。だから、また川べりに戻ってきている。そういう現状を見ると、日本からの協力というのはどこまで地元の生活に踏み入っていいものか、果してそれがプラスとマイナスで計算した数字だけの結果で実行していいものなのかという疑問も自分の中にはありました。
 それから希望の種もあるんですよ。これは海外のことではなくて、私はときどきUNHCRでボランティアをしているんですね。この間、ちょっとお手伝いしたことがあって、それは、三重県から中学生が修学旅行で東京に来る際、UNHCRはどんなことをやっているかとか、ほかの国際協力、国際援助のためにどんなことをやっているのかを東京で勉強したいという彼らの希望がありました。国連ビルに行ってそういうお話を聞くだけでなく、スーダンの難民がとても大変な状態にあるという予習をして、僕たち、私たちはそのために何かをしたい、でもいまできることは募金活動しかないから、東京でそれをやっていきたいというのです。私が中学生のころを考えると、本当に楽しくボール遊びをしていたぐらいなので、いま彼らが国際社会の一員であるということを認識して、そういう言動、行動を起こしているというのはすばらしいことだなと思っています。
(戸田) どうもありがとうございました。すごく考えさせられるところが多いですね。ちなみに、イチローのヒット数が何本かということは今の私たちにとって結構すごい関心事ですよね。でも、いまお話にあった難民の話、いまここに大体 300人弱いますけれども、世界では、だいたい 300人に1人ぐらいが難民で苦しんでいる。スーダンの難民の状況というのはごく一部は報道されるけれども、イチローほど報道されない。そういう中で三重県の高校生や、普通の人たちがちゃんとそういうことを認識してもらえるというのはすごくいい話だなと思いました。ありがとうございました。
(庄野) そうですね。私たちがもっともっと伝えていかなければいけないですよね。
(戸田) どうもありがとうございました。それでは、ここから時計の軸をだんだん未来のほうに向けて・・・。
(庄野) 私だって未来に向いていますよ。
(戸田) はい、そうです。それをより加速させていくということをやっていきたいと思うんですが、柳沢さんのほうとちょっとお話をしたいと思います。柳沢さんは、さっき清水さんからご紹介あったようにアフリカ学習会を立ち上げたり、あと、たしかケニアに何度か行かれたという話を聞いたんですけれども、そもそもなぜケニアにわざわざ行く気になったのか、そのあたりからお聞かせいただけますか。
(柳沢) 私はこれまでケニアに2回スタディツアーで行きました。スタディツアーというのは、普通のツアーとちょっと違って、たとえば途上国であれば、その途上国の人たちが困っている現状であったりとか、テーマによって違いますけれども、難民をテーマにしたら、難民キャンプに行ってみたり、教育をテーマにしたら、学校に行ってみたり、そういうことをするツアーなんですけれども、それに参加しました。
 なんでケニアに行ったのか。最初のきっかけは、私はアフリカについて全く知らないということにすごく大きなショックを受けたからだったんですね。アフリカの教育という授業が大学であったんですけれども、そこで一番最初に先生がやられたことが、白地図に生徒に全員配って、国名と首都名を埋めてくださいと言われたんですけれども、私はエジプトと南ア、本当にそれぐらいしかわからなくて、自分がどんなにアフリカのことを知らないのか、それにすごい衝撃を受けて、これは勉強したい、そして行ってみたいというふうに思うようになりました。
(戸田) 実際にテレビとか、本で見るアフリカ、ケニアと、行ってみてどうでしたか。何か自分の考えとかが変わりましたか。
(柳沢) はい。私が2回ケニアに行ったということの理由に、1度目は、すごくネガティブな部分、貧困であったり、飢餓であったり、そういうところに関心を持ってケニアに行ったんです。2回目に行ったときは、そういう面だけじゃなくて、もっとケニアのすばらしさとか、人々が持っている魅力というものを見にいきたいなと思ったんですね。たとえばスタディツアーでスラムに行ったんですけれども、皆さん、スラムって、どういうイメージがあるでしょうか。私は、すごく貧しくて、土壁の家があって、子供たちが裸足で歩いていて、そういうような状況を想像していたんです。実際に1回目に行ったときは、やはりそういうところに目がすごくいってしまったんですね。すごく大きなスラムに行って、見渡す限り、トタンの屋根が続いているんです。この日比谷公園よりきっと広いんじゃないかなと思うんですけれども、そういうのにすごくショックを受けた。それからスラムの不衛生さ。臭いもきついですし、やっぱりごみとかも落ちているんですね。そういうところに目がいってしまっていた。でも、2回目は、スラムの中でも露天商といっていろんなお店が出ている、そういうところの活気であるとか、子供たちもすごい元気にはしゃいで走り回っているんですね。そういうとかももっと見てきたいなと行きました。
 2回目に行ってみてすごく感じたのは、自分がどういうふうに物を見ようとしているのかとか、いま目の前にいる人たちとどう係わろうとしているのか、そういう心構えで見えてくるものってすごく違うんだなというふうに思いました。1回目ももちろん露天商の活気さ、賑わいというのを見ていたんですけれども、やっぱりスラムは大変なところだという印象が強く残っていたんですね。でも、2回目行ったときには、スラムって、当然ですけれども、人々が毎日生活しているわけですよね。だとしたら、その中に楽しいこと、スラムの中にも本当に小さな映画館であったりとか、飲み場というんですか、そういう場があって、人々は本当にその場で毎日楽しいこと、うれしいこと、悲しいことが起こったり、そういうふうにしながら生きているんだな、そういうのをすごく感じることができました。
(戸田) さっきアフリカ学習会、そういう活動をされているということですが、具体的にどういうことをなさっているんですか。
(柳沢) アフリカ学習会では、アフリカに係わる国際協力に携わっていた方とか、あとアフリカに関するお仕事をされている方を、月1回から2回なんですけれども、お呼びして講演会をしています。いままでにはJOICFP、家族計画国際協力の方をお呼びしたり、MSF、国境なき医師団の方をお呼びしたり、それから国際協力とはちょっと違いますけれども、アフリカで旅行のガイドをしていたりとか、アフリカをジャーナリズムで取材していたり、そういう方をお呼びしました。
(戸田) 柳沢さん、ここが一番実は僕が聞きたいところなんです。いっぱい楽しいことがあるし、私もいまから学生時代を振り返ったら、空手ばかりやっていたんですけれども、その時期に何でそんなことを好き好んでというそこはかとない疑問があるんです。さっきのお話だと、そういう学習会をみずから立ち上げたと。だれかに何か頼まれたとか、そこら辺のところの心理を明かしていただけませんか。
(柳沢) アフリカ学習会を立ち上げたきっかけというのは一度目にケニアに行った後に、この経験をこのまま終わらせたくないな、本当にそれだけの気持ちだったんですね。1度ケニアに行って、そのことを忘れてしまったら、本当に私が見てきたことというのは何の役にも立たないじゃないか、せっかく行ってきたということを何かつなげていきたい、そういう思いから学習会という形で、自分も勉強できるし、そしてあともう一つ大きな理由として、自分の周りにもっとアフリカのことに興味を持つ人を増やしたいという思いがあったんですね。いま日本でもアフリカのことに関心を持つ人が増えてきて、NGOとかがさまざまな勉強会を開いているんですけれども、私が開かなくても、もしかしたらよかったのかもしれない。でも、自分が開くことによって、一つでもそういう場所が増えたら、ほんの少しかもしれないけれども、そういう場に触れられる、アフリカというきっかけをつかめる人が増えるんじゃないかなというふうに思ってつくることにしました。
(戸田) なるほど。もっといろいろ聞きたいんですけれども、最後に一つ二つということで、どうでしょう、これからぜひこれだけは夢としてやっていきたいんだ、自分の夢ですね。それから自分の夢だけじゃなくて、さっき上村さんからも国際協力の話、庄野さんからもエチオピアの印象的な話も伺いましたが、そういうODAとか、国際協力とかというものに対して期待するもの、自分の夢と、これからの国際協力に自分を含めて期待するもの、そのあたり、もし抱負があれば。
(柳沢) これからの国際協力ということについてですけれども、一つは、本当に、本当にもっともっと多くの日本の人たちが国際協力とか、途上国の問題に関心を持つようになってほしいなというふうに思っています。問題意識を持つ人が増えるということは、もしかしたら、その中にいいアイデアを思いつく人がいるかもしれない。そういうことだけじゃなくて、それが世論となれば何かきっと変わるんじゃないか、そういう思いがあります。興味を持つというときに、私自身がちょっと注意していることがあるんですけれども、私自身が国際協力に興味を持ち始めたのは、やはり問題であったりとか、ネガティブな部分からだったんですね。でも、これからそういうことに取り組んでいこうとしている人たちがもしいるとすれば、ぜひ自分が興味を持った地域、アフリカでも、アジアでも、その地域の魅力であるとか、その人たちが持っているすばらしさというところにも関心を持っていってもらえたらな、私自身もそうしていきたいなというふうに思っています。
 もしかしたら、時間がないかもしれないんですけれども、一つだけ宣伝をしてもよろしいでしょうか。こういうふうにずっとアフリカに興味を持ってきたんですけれども、アフリカの魅力ってやっぱり伝わりにくいなというふうに思っているんですね。ニュースなどで報道されるのはネガティブな部分、マイナス部分ですよね。それだけじゃなくて、本当にアフリカが持っているさまざまな魅力、音楽であったりとか、アフリカの人たちって、本当にさまざまな民族がいて、すごい多様な人たちがいっぱい住んでいるんですね。そういう魅力とかを伝えられたらなと思ってイベントを企画しています。10月9日、来週の土曜日なんですけれども、横浜の桜木町でイベントをします。出演者の方は、ナイロビ在住16年のフリーライターで、「アフリカ日和」という本も書いているんですけれども、早川千晶さんという方、それから東アフリカの太鼓バンド、ブルケンゲと癒しのカリンバ演奏家の近藤ひろみさんをお呼びして行います。チケットは予約制なんですけれども、まだちょっと余裕があるので、もし興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、このシンポが終わったときにチラシを配っているメンバーが中にいると思いますので、ぜひぜひ声をかけていただければなと思います。ありがとうございました。
(戸田) どうもありがとうございます。もしそれが満席で入れないとかといったら、柳沢さんの顔を見つけて「先週聞きました」と言ったら、大丈夫ですね。お金を払って入れてもらえますね。
(柳沢) はい。
(戸田) それでは、今度は真田さんに雰囲気を変えて切り込みたいと思うんですが、レスリング協力隊員。まず得意技からいってみましょうか。
(真田) レスリングで鍛えた得意技というのは、実を言うと、レスリング自体には余り関係ないんですけれども、人と仲良くする、なんと言いますか、いわゆる、チームプレイというのが得意技でしたね。
(戸田) 意外な返答だったんですが、そういうふうに来ましたか。どう答えていいか、ちょっと迷うんですが・・・。
(庄野) 抑え込みとか・・・。
(戸田) そういうふうにいくとちょっと展開しやすかったんですが、まあ、いいでしょう。
皆さんもそうだし、私自身もこの業界にいながら疑問を感じているんですが、インドネシアに行って、抑え込みか、仲良くするかわからないんですけれども、レスリングをやる。それが何で国際協力かと思いませんか。
(真田) そうですね。自分自身はもちろん、多くのスポーツ分野に派遣される隊員というものは、少なからず、そのことに関して多少なりとも悩むんじゃないでしょうか。当時、私も赴任前にずいぶん悩んだ時期がありました。というのも、やっぱり開発援助、途上国、困っている人というイメージから、スポーツというのがなかなか連想されづらい。じゃ、困っている人たちにスポーツを教えることが、何でその国のためになるの、途上国のためになるのというところで、すごく悩んだ時期がありました。そういった悩みを持ちながら、その昔、現地に赴いたわけなんです。最初の半年というのは、本当に自分が何をやっているのか、レスリングという競技を教えていて何になるんだという葛藤があったんですけれども、その中で徐々に見えてきたのが、やはりスポーツを教えるというのは、ただ単にその競技で強くするというのが目的じゃないんだということでした。それはどういう事かと言うと、スポーツを通じた国際協力というのは、スポーツの持つ教育的な側面こそが大切だなということに気がついたというか、そこに行き着いたというか。
 たとえば日本ではあたりまえかもしれませんけれども、きょうのODAタウンミーティングは2時からです、2時に集合ですというふうになれば、大概の人は2時5分前、遅くても2時ぐらいに来て、時間を守るなんていうのはあたりまえなんですけれども、僕が赴任したインドネシアでは、どこの村でも、じゃ、練習を2時からと言えば、2時に来る子供たちというのは本当にまれで、そういった時間どおりに集まる、この一つを例に取ってみても、うまくできない。インドネシア国内、例えば村のそういうコミュニティの中では、ごくごく当たり前のことであって、そういったことには、みんな寛容なんですけども、これが今から発展していこうとする中で、周辺の国ですとか、人ですとかの繋がりというものを持ちながらその国を発展させていこうというふうに考えた場合、やはり、自分たちのルールだけではなかなか難しい、通用しないところがあると思うんですよ。時間を守るという以外にも、練習前の準備をみんなでやるとか、自分で目標を設定して、それに向かって努力するだとか、スポーツにはそういった教育的な側面が本当にたくさんあって、ただ単に強くなるということではなくて、そういったところに重点を置いた活動というものを心掛けていました。
(戸田) いま経歴を見ていたら、その後、またインドネシアに行ったと。ずこいかっこういいですね。読みますと、インドネシア国家スポーツ委員会アマチュアスポーツの振興を目的とした政策提言をやる、すごいなと思うんですけれども、そんなことが本当にできたんですか。
(真田) そうですね。じゃ、政策提言が実際どういうふうな成果を結んだかというと、ここで自信を持ってお話できるようなものではないのですが。ただ、一生懸命、国家スポーツ委員会は各地方に支部があるんですけれども、そういったところに行って、日本型のスポーツ振興政策、主に日本国体システムの紹介ですとか、プラス、トレーニング方法、そういったテクニカルな部分でもやったんですけれども、そういったことが一義的には目標だったんです。私の直接の配属先である国家スポーツ委員会本部に対しては、日本型のスポーツ振興政策、主に日本の国体開催システムの紹介というものをおこなっておりました。そして、国家スポーツ委員会は、国内の各州に支部を置いているんですけども、そちらでは、各競技のトレーニング法などの講習会であるとか、テクニカルなこともやっておりました。そういったことが、一義的には目標だったわけです。ただ、先ほどもお話させていただきましたとおり、それにプラススポーツの持つ教育的な側面というものの重要性をアピールすると言うことも含め、地方を回っておりました。
(戸田) いろいろ聞きたいんですけれども、最後に一つだけ。これは柳沢さんにも聞いたんですけれども、これからの人生、多分、2度もそういうことをやったというのは、何か自分にうま味があるというか、自分に返ってくるものがないと、やっぱりみんなマリア・テレサみたいな人間ではないですから、自分にとって、ドキドキ、ワクワクして、つかめる夢としての国際協力として、何かこれからの豊富というか、やっていきたいこと、それから自分がそれをやっていくに当たって、ODAとか、ほかの国際協力とかに注文とか、呼びかけとか、そういうのがもしあれば。
(真田) 私の場合、当時、大学の学部を卒業してすぐ、青年海外協力隊に参加したんですが、実を申しますと、協力隊に参加するまで政府開発援助・ODAとか、国際協力なんていう知識は本当に恥ずかしながら、ゼロでした。青年海外協力隊というものも、どこが主催している事業なのかも全然知らないくらいだったのですが、大学の4年生の頃、ふと、大学構内で募集説明会のポスター目にし、自分の大学で説明会が行われることを知りまして、部活をサボる口実として参加したのがきっかけだったんです。募集説明会に行ったら、自分が参加するというよりも、本当に練習を休むという目的で行ったんですけれども、ふと、募集要綱の職種の欄を見たら、レスリングとあったんですよ。練習を休む口実にするぐらいの気持ちで行った説明会だったんですけど、何気に募集要項の職種の欄を見ていたら、レスリングという職種で募集があったんですよ!当時大学の方でレスリングをやっていましたので、ヘエーッというのが正直なところで、もうしかしたら行けるんじゃないの、という安易な考えで受験したわけです。たまたま幸運にも、合格することができ、その後、この世界に関わっていくきっかけとなったわけです。 
 そして私の場合、何の知識もなく出かけたということもあり、逆にそれが幸運であったと思うんですけども、いきなり行った現場というものが、そのまま国際協力の教科書なわけですよ。頭だけでなく、体ごとその世界に入っていくことで、真剣に途上国この話からちょっとそれてくるかもしれないんですけれども、自分が子供たちから学んだことというのが一つあって、この話をきょうご紹介したいんです。どうしてもこの話を今日ご紹介したいと思ってきたんですけど、いいですか。あれは2001年か、2002年ぐらいだったと思うんですが、たまたまJICAのテレビ番組で、「地球家族」というものがあったかと思うのですが、その撮影での話しです。そのときはレスリングの競技ではなかったんですけれども、子供たちに「どうしてスポーツの毎日つらい練習をしているの」という質問に対して、子供が、インドネシアの中の国体なんですけれども、「まずは国体選手になりたいんだ」、「それはどうして」。そこは西スマトラ州なんですけれども、「国体に行って、西スマトラ州という名前を全国に知らしめるんだ。僕のふるさとを全国区の名前にしたいんだ」、そういうことを答えるんですよ。その番組の中では、子供たちにいくつか質問を投げかけるシーンがあるんですが、「どうして毎日つらい練習をしているの?」という問いかけに対して、「国体選手になりたいんだ。国体に出場して西スマトラ州という名前を全国に知らしめるんだ。僕の古里を全国区の名前にしたいんだ。」というようなことを言うわけなんです。さらに「じゃ、もし国体選手という夢がかなったら、次の目標は?」というような質問に対して子供たちは「東南アジア大会に出たい。東南アジア大会に行ってインドネシアという名前を広めたいんだ。」というふうに言うんですよ。こういう感じで質問が進み、最終的には、アジア大会で、オリンピックで「インドネシアのために」という話になるんですけど、そのインタビューに答えていた子供たちというのは、日本のように決して恵まれた教育環境の中で育ってきたわけではないなかで、そうやって自分の郷土を愛し、自分の国を愛し、そのために俺は何ができるんだということを、スポーツを通じて考えているということに、すごく感動させられ、その言葉を聞いたのが、実は、自分が今、大学院で勉強をしている切っ掛けになっているんです。自分自身、もちろん、途上国のためにというものが中心にあるわけなんですが、日本のために何ができるんだ、そういうことを考えさせてくれたのが途上国の子供たちだったのです。この話を是非ご紹介したいと思っておりました。
(戸田) ありがとうございます。今のお話も踏まえ、皆さんと議論というか、意見交換をするときには、途上国を単にかわいそうな国として捉えたうえで彼らが直面している問題を論じるのではなく、むしろわれわれと世界、途上国と日本などというを関係性の中で考えていきたいと思います。じゃ、ここでちょっと。
(清水) ゲストがいらっしゃいます。さらにお若いお2人を壇上のほうにお迎えしたいと思います。ステージに上がっていただきまして、メッセージを話してくださるのは、2003年JICA高校生エッセイコンテスト特選を受賞なさいました東京農業大学第二高校3年生の斉藤りょうこさんと、都立日比谷高校の中村ともこさんです。どうぞ拍手でお迎えください。それでは、まず斉藤さんのほうからメッセージなんですけれども、タイトルとしては国際協力に対する夢や希望について、お願いします。
(斉藤) 私は将来は国際協力や開発に携わる仕事に就きたいと考えています。また、イスラエル、パレスチナの地に、イスラエルとパレスチナ双方の子供たちが一緒に机を並べて勉強できる、そんな学校をつくるという夢も持っています。皆さんは、イスラエル、パレスチナと聞いて、どんなイメージを持たれますか。多分、危険だとか、怖いとか、そういうイメージを持たれる方が多いと思うんですけれども、私はエッセイに書いたように、イスラエル、パレスチナの子供たちとともに生活をしたことがあります。その中でイスラエル、パレスチナというのは、危険なだけじゃないんだ、お互いを理解しようとする人もいるんだということを知りました。民族や宗教が絡んだ争いがある中でお互いの不信感を払拭するということは容易なことではないと思いますが、少しずつ、少しずつでも前に進めたらいいなと思っています。そのためのお手伝いがしたいと思っています。どんなに時間がかかっても、どんなに大変でも、私は絶対この夢を実現したいです。
(清水) 斉藤さん、ありがとうございました。それでは中村ともこさん、お願いします。
(中村) ただいまご紹介いただきました都立日比谷高校3年に在籍しております中村ともこと申します。私はことしの夏まで1年間デンマークに留学しておりました。その際にだれも知り合いのいない環境に飛び込んで、自分の無力さというのを実感しました。そして同時に日本では高校1年生から読売新聞社のジュニアプレスで緒方貞子氏にインタビューをしたり、それから国際救援センターのほうに取材に行ったりですとか、自分なりに難民支援に携わりたいという思いで活動を続けてきたんですけれども、将来にわたって、こういった活動に携わる場合に必要なのは、ただ情熱だけではなくて、だれも助けられなかった、状況を改善できなかったというときに、弱い自分、無力な自分を認める忍耐力ではないかというふうに思って帰ってまいりました。それから、デンマークというのは、ODAの国民一人当たりの負担額が世界一の国です。 7.4%の国民は難民でして、国費のかなりの部分がそういった開発援助ですとか、難民支援のほうにいってしまいます。それでもなぜか国民が不満を言わないというのがすごく私にとっては不思議でした。25%の消費税ですとか、非常に税金が高くて、その大きな部分がそういった支援にいってしまうのに、国民はなぜ文句を言わないんだろうというところが私の不思議に思ったところです。
 そして、私なりに、何がこういった思想を生み出す要因であるんだろうかと考えたときに、教育と報道のあり方というのではないかと思いました。デンマークで、お互い意見を出し合って、衝突させ合って、それで自分の利害より社会の利益というのはどうなんだろう、社会の合意形成の重要さというのを幼いころから学んでいます。それから報道を見ますと、やはり地域新聞なんかがとてもしっかりしていて、何か新しい事業案が出たときには賛否両論を載せたりですとか、住民自身が意見を出し合って合意形成をしようというふうに努めています。そういったところがこういった難民支援なんかが容易になっているのではないかというふうに強く感じまして、これから私がやっていきたいことは、永田町と国民をつなげる、近づけるメディアのあり方というふうに考えていまして、私は日比谷高校ですので、永田町の高校に通っています。窓から国会議事堂を臨みながら勉強しているのに、私と政治との距離が全く遠いなというふうに日々感じていました。全く政治に興味を持てないでいました。でも、やっぱりデンマークの田舎町で暮らして、そういう人々が気負いのない正義感ですとか、政治に係わっていこうという意思を教えてくれたので、私はそういったメディアを通して、新聞という活字媒体を通して、これからも国民と政治ですとか、ODAも含めて、そういった政府との架け橋になるような活動がしていきたいと思っております。ありがとうございました。
(清水) どうもありがとうございました。斉藤さんと中村さんでした。ありがとうございました。こうして若い方がいろいろな関心を持ってくださって、またいろいろな学びがあるということはすばらしいことですよね。
(戸田) ちょっとびっくりしましたね。
(清水) では、お2方、こちらのほうにお座りください。これから会場の皆さんにもいろいろなご意見ですとか、ご感想、またご質問などをしていただきたいと思いますので、どうぞ忌憚のないご意見をよろしくお願いいたします。何かご発言のある方は手を挙げていただけましたら、こちらのほうでご指名をさせていただきます。その際に、大変恐れ入りますけれども、皆様、お名前とご所属をお願いいたします。また、たくさんの方にご発言いただきたいと思いますので、恐れ入りますが、短めにお願いしたいと思います。いかがでしょうか。
(質問者A) 写真 質問させていただきます。東京大学経済学部3年の者です。
 上村さんにお伺いしたいんですけれども、いまここではODAというのは経済協力という面から話されていたんです。でも、ODAというのは日本の外交戦略としても非常に重要な役割を持っていると思うんですね。そのときに外交戦略という面と、いわゆる途上国を支援するという経済協力の面とでは、必ず一概に一致する場面ばかりではないと思うんです。実際にODAの仕事に携わっている上村さんなんかは、一体、ODAというのをどういう位置づけで考えていらっしゃるのか、お伺いしたいと。
 もう1点は、もしODAを使って援助をするということが決まった場合に、外務省の方というのは、どの程度現地のほうに行って、そういうプロジェクトなりを見ていらっしゃるのか、その2点をお伺いしたいと思うんですが、よろしくお願いします。
(上村) 開発問題があって、助けるべき人がいれば、そこに行って何かをすればいいということであれば、確かに世界銀行ですとか、国連のいろんな機関があります。難民のための機関ですとか。なぜ外務省がそういう国際機関とか、援助だけじゃなくて、2国間といいますか、相手の国との間で経済協力を行っているかというのは、いまご質問にあったとおりです。つまり、その国が日本にとって、将来、あるいはいまの時点で、大事だから援助するということ、それがまさに戦略的にODAを使うという意味であります。かわいそうな方がおられて助けるというのは当然のことで、ただし、それのために無尽蔵の資源があるわけではありません。ですから、国際機関を使って共同してそういう問題に当たることもありますが、一方で、われわれのいまの国民社会、生活にとって大事な国に対して特に援助を重点的に分配するということもあります。それは外務省が2国間の経済協力をやっている一つの大きな意味であります。
 それから現地でいろいろなプロジェクトをやっているときにということですけれども、これは外務省員、あるいはJICAの方々、それから専門家の方々、必ずだれかが現地に行って計画をつくって、そして環境の評価ですとか、本当にそれがその社会にとってインパクトがあるのかどうかということはちゃんと調べてやっております。
(清水) よろしいでしょうか。ありがとうございました。ほかにはいかがでしょうか。よろしければどうぞ。ご遠慮なくお手をお挙げください。
(質問者B) NPOのメディア検証機構というところに所属しております者です。本日はお話をどうもありがとうございます。
 壇上にいる皆様にお聞きしたいんですけれども、自分の所属しているメディア検証機構というNPOは、テレビメディアに関する調査をしているんですけれども、テレビを見ていて感じるのは、やはりODAの広報のあり方というのがまだ不十分なのではないかということにあります。先ほど壇上にいらっしゃる高校生の方もお話ししていたと思うんですけれども、われわれと、政府なり、援助を行っていく団体というのを結びつけるところに一つメディアというのが大きく係わると思うんです。ぜひ皆様の考える、これからテレビに限らず、新聞や雑誌とか、インターネット、さまざまなメディアがあると思うんですけれども、どういった広報のあり方が考えられているのか、こうあるべきなのかというようなお考えをお聞きできればと思います。
(戸田) だれからいきますか。思いついた人。ちょっとお考えいただいている間に、私も言っていいですか。
 その前にルワンダの虐殺があったときに、1994年、80万人ぐらい人が殺されましたが、あのときにラジオ・ミルコリンズというラジオがすごい煽ったわけですね。いま国際協力でわれわれがやっていることの中に、日本ではないですけれども、ルワンダ版ロミオとジュリエットというラジオ番組をつくって、民族は仲良くしようやということをやっている。いまのご質問の趣旨というのは、ODAをもっと宣伝せいということだけれども、私自身、一般国民として、こういうアクティビティもそうだけれども、しょせん、ODAは底打ちをねらって、ODAのいいイメージを売りたいんだ、うさん臭いものとして見られてしまうと思うんですよね。だから、私の考えというのは、こういう広報活動も大事だけれども、本当の意味で世の中が変わっていくところをほかの人に言わせていくというアクティビティ、それをねらいたいというふうに思っているんです。だから、直接的な広報というよりも、実際にわれわれが汗をかく、ひょんなところでそれがばれて、みんなに知られる、そういうのはちょっと日本的過ぎますかね。
 すみません。じゃ、庄野さん、お願いします。
(庄野) きょう、皆さん、いろんなところを見て回れたと思うんですけれども、たくさんの団体があって、それぞれの活動をなさっていて、多分、見てみると、本当に現地へ行って何かをやっているんだなという気がするんですよね。そういう団体、NGO、NPOにもODAのほうから援助はいっているんですよね。
(上村) 資金で協力したりしていることはあります。
(庄野) そういう部分をマスコミがもっと取り上げて、実際にお金がそこにいっているんですよ、実際にNGO、NPOの人たちが、JICAという組織もそうですけれども、その人たちの手で人間から人間へ支援が行き渡っているんですよってことがわかる現場を、もっともっと私は見たいなと思います。
(戸田) じゃ、そちらのお2人はどうですか。
(真田) じゃ、一言。ODAに関する広報とか、国内での報道とかというのは、根本的な問題として、ODAが行われているのがやっぱり海外ということなんですよね。たとえば東京が日本だとして、埼玉県でやられているようなプロジェクトであれば、みんなが自分の目で見るということが可能なんですけれども、海外でやられているプロジェクトなり、案件なり、そういったものをみんなが直接的に見る機会というのは、残念ながらやっぱり少ない。どうしても、自分も含めて、国内で受け取れる情報というのはメディアというものを通してODAを見るということになると思うんです。じゃ、メディアの報道はどういった感じの報道が多いかというと、やっぱり残念ながら、どちらかというと否定的なイメージ、こういったことで問題になっていますというところでの扱われる量というのが非常に多い。実際に自分自身もそういったことをやってきたわけですが、他のプロジェクトであるとか、活動であるとか、そういったものを見てきて感じるのは、確かに失敗している部分というのもある。それはやはり事実としてあるわけです。ただ、一方でそれが非常に役に立っているということも事実なんです。先ほどダムの立ち退きの話なんていうのも出てきましたけれども、実際、ダムによる立ち退き問題なんていうのもあって、それによって被害をこうむっている住民というのがいるというのは事実としてあるんですけれども、じゃ、そのダムというのがその地域にどれだけの利益をもたらしているか、その地域、その国の未来にどれだけ貢献しているかという側面での報道というのはやはり少ないというのが正直な感想で、立ち退きによって引き起こされたマイナスの要因は確かにあったと言えますが、じゃあ、そのダムは要らないのかというと、そんな単純な話ではないと思うんです。これもある日本のニュース番組のメインキャスターの方が、一つのODA案件の失敗を事例にして、ODAをゼロベースに戻してもう一度考え直す時期であるというようなコメントを聞いて、非常に悲しいなと思った記憶があるんですけれども、やはり反省は反省として当然ながらやっていかなければいけないと思いますし、もちろん自分は政府の人間でもないし、悪いところは、突っついていくというスタンスという意味では、多くのメディアと同じかもしれませんが、ただ、やはり役に立っているというところも日本の国内のメディアなり、もちろん、先程のメディア検証機構なんていうの焉Aそういった活動をされているかとは思いますが、もっと取り上げていかないと。ただ、そういったことを政府系の方々がやっちゃうと、そう、こちらにいらっしゃるお二人方がやっちゃうと、どうしてもいやらしくなるんですよね。たとえば庄野さんが笑顔で言っていただくと、ああ、そうか、日本のODAも捨てたものじゃないのかなというのが伝わっていくというのが自分は理想の形だと思うんです。
 先程の学生の方からの質問を自分なりにちょっと言い換えさせてもらうんですが、いわゆる「途上国のための援助なのか?日本のための援助なのか?」極端に言えばこういった主旨だったと思うんですが。私は、ODAの担い手、主役というものは、やはり日本の国民であり、途上国の国民であるというのが重要であると考えているんですよ。というのは、もちろん、日本の国民というものは、税金という形でみんなODAに参加していると言えるわけです。その税金を使って途上国に対して支援していくわけなんですが、やはり、その対象は、その途上国の国民一人一人であるべきというのは当然のことで、いわゆる政府の一部の人間が恩恵を受けるようなものであってはいけないというか、もちろん短期的に見れば、その時の政府の人間と仲良くするというのも、戦略的に意味があるということもあるかもしれませんが、政権が不安定な途上国であった場合には特に、短期的な効果でしかないわけです。それに比べて、途上国の国民というものは、極端な話、亡くなるまで、その国、地域に住み続けているわけで、そういった人々を対象とした援助というものが中長期的に見れば重要なわけで、そういう援助こそが本来の意味で、双方の国民の利益に繋がる。そのためにも、ODAの担い手であり、主役というものは、日本の国民であり、途上国の国民であるべきだと思うんですね。
 そういった意味で、先程、「途上国のための援助なのか?日本のための援助なのか?」という議論は、ちょっと違うというか、日本の国民のためでもあり、途上国の国民のためでもある援助というものが本来の意味での戦略性のある援助というものに繋がっていくんじゃないかと、さらに、先程のODAの広報の話でもお話させていただきましたとおり、途上国の役に立っている部分やうまくいってない部分の検証も含め、両国の国民が主役となっていくというのが、未来のODAじゃないかというふうに思います。済みません、ちょっと長くなりました。
(戸田) ありがとうございました。柳沢さん、ちょっと短めにいきましょう。
(柳沢) いまおっしゃってくださった意見とちょっと視点が変わるかと思うんですけれども、私はODAというものをもっとほかの国とかから見てみたいなというふうに思います。
 ODAって、もちろん日本だけがやっているわけじゃなくて、さまざまな国がやっているわけですよね。そのさまざまな国がやっているODAがどういうふうに使われているのかということも、もっともっと日本として知っていけば、それを自分の国と比較することができるわけですよね。自分の国のことだけだと、それがどういう価値を持っているのかと
見にくいと思うんですね。それがたとえばほかの国ではこんな援助をしているとわかれば、日本の援助というものがいま国際的にはどんな位置なのか、どういうふうな価値を持っているのかということがもっと見えてくるんじゃないかなというふうに思います。
 それから国際協力は、いま1カ国でやっているものだけじゃなくて、タイアップしてやっている、日本とほかの国がいろいろお金を出し合ってやっていること、そういうのとかももっともっと取り上げられていったらいいなというふうに思います。
(戸田) ありがとうございました。じゃ、もう少し。
(清水) それでは、ほかに。
(質問者C) 三菱総合研究所の者です。多分、外国人及び、いま私、仕事を通じて、この日本のODAに関する感想、コメントをさせていただきたいと思います。
 多分、外国人の方もいらっしゃると思いますが、私の目から見ると、日本の国際協力、ODAとうのは、先ほど話も出ましたが、戦略性がないというか、余り海外において認識されていないのではないか。あるいはアプリシエートされていないのではないかというような印象を、私、自分の国にいたときもそう思いますし、いまお国の仕事をさせていただいているときも、そういうふうに実感しております。それはアズ・ワン・オフティ・タックス・プレイヤーとして、私、一人の納税者としては、日本はせっかくODAを使うので あれば、もっと戦略的に海外の方にも認識していただいて、アプリシエートしていただく。
 そうじゃなければ、もうやめてしまえばいいんじゃないかと思います。つまり、私も途上国の国なのでわかりますけれども、途上国の人もずる賢いといいますか、どうせ日本のODAからただお金をもらえればいいというふうなことにもなります。非常に私から見ると情けなく思うところもありますので、その辺についての皆さんのコメントは、先ほど戸田さんも、これは隠匿ですので、ゆくゆくわかっていただければききいいとあるんですが、しかしながら、それは10年も20年も日本はもたないと思います。そういうことが私の問題意識にありまして、もっと戦略的にアプリシエートしてもらうのにどうすればいいかというのが質問です。以上です。
(戸田) 上村さんに、お答えいただく前に庄野さん、いかがですか。
(庄野) 恥ずかしい話ですね。国と国が何かをやるときに、そこにどんな利益があって、どんな損があるのかということをいつもみんな考えてしまいがちなんですけれども、それは国と国というのが別の所属で、そこに違うものという意識があるからだと思うんですね。
 でも、私はそういうカタチがよくわからない人間なので、私のためにすることは、みんなのためにすることというような気持ちでいろんな人が取り組んでいかないと、この先、ずっと平和というものはこないだろうし、国と国がお互いを認め合うという瞬間も絶対こないと思います。この間、9.11のときに、私はニューヨークに行って、みんなで平和を考えるコンサートに参加してきました。日本にいたら、オリンピックで日本の選手のだれだれがこんな活躍をしたとか、イラクでだれかが誘拐されても、日本人のことだけ報道して、もっといろんな国の人のたくさんのことがあるのに日本のことしか話していない。でも、ニューヨークのコンサートで会った人たちは、イスラエルのこと、パレスチナのことも、自分のことのようにして話していたんですよね。だから、そういう目を持たなければ、アプリシエートする気持ちというのも生まれないんじゃないかなと思います。私の話は全然答えになっていないと思いますけれども、大きく考えて、地球の一員なんだというような気持ちで私は音楽という武器を使って切り込んでいきたいなと思っています。
(戸田) コミットメントをありがとうございました。上村さん、いかがですか。
(上村) 一言だけですけれども、質問者Cさんのいまおっしゃったやつで、感謝されていないんじゃないかというのは、恐らく私は個別に見ていけばたくさん反例を挙げることはできると思います。たとえばここの川に橋ができたから村人が自由に行き来できるようになったということで大変感謝されている例もあります。だから、一つ一つ見ていけば、われわれが国民の皆さんから預託を受けた血税を、その意味でちゃんと使ったという例はたくさんあると思います。
 それから二つ目は、私は恐らく余り短期的なことではなくて、これからは人間に対する投資といいますか、そういうのを重く考えていきたいと思っているんです。私もイラクにいましたときに、彼らと経済協力といいますか、そういう話をするときに、決して一方通行の話は絶対に避けようと思っていました。一方通行というのは、日本政府、日本国民から1億円あげますよという言い方ではなくて、途上国のイラク側がちゃんとしたプログラムをつくって「僕たちはこれをやりたい。ただし、政府からは10%しかお金が来ません。したがって、残りの部分を助けてください。そして、こういうふうにプログラムをやっていきます」というのがあれば、そこで、日本の国民からの血税を投入して、双方向の学び合う協力をやりましょうというようなことをキャッチフレーズにやっていましたけれども、そういうことを通じて、人と人との関係というのは即効性はないかもしれないけれども、恐らく10年、20年という効果はあります。もちろん1億円パッと渡せばそれは感謝されるでしょう。だけど、それは本当にそういうことでいいのかということです。1億円を一緒になって考えながら有効に使っていきましょうというシステムを入れていきたいと思いますし、いままでもありましたし、これからもそういうことは重視していきたいと思います。
(戸田) ありがとうございました。そろそろ時間がきたんですが。
(真田) 自分もいいですか。すみません。
 感謝されないということだったんですけれども、きっと感謝されていないというのも、たとえば途上国の政府発表に日本に謝辞があったかとか、そういったところがベースになって日本の援助というのは途上国からそれほど感謝されていない、知られていないというふうになってくるかと思うんですけれども、これは、私がインドネシアの村で活動をしている時に実際に耳にしたことなんですげど、その村には昔、日本の援助でできた橋があるんですね、その村に日本人である私が行くと「ミスター真田・フロム・ジャパン」と紹介されるわけです。そうすると、「ああ、あの橋の!」というふうに言われるんですよ。これは、橋というインフラの話だったんですが、地方の国家スポーツ委員会をまわっている時にも、よく「真田は日本人か、日本人は前にも来たことがあるよ!」というかんじで話しかけてくるんですね。いわゆる現場レベルでは日本のODAとか、そういった専門的な単語で語られるわけではないんですが、日本人がここに来て何かしてくれたということは、残るわけなんですよ。しかも、よくよく聞いてみると、10年も前の話であったり、人伝えに聞いた話しだったりするんです。国際協力が行われている現場周辺では、日本に対する感謝というか、親近感というか、そういったものは残っていくものなのだというのが、自分が方々に行って感じたことです。
(戸田) ありがとうございました。非常に残念なんですけれども、もう時間がそろそろ来ていまして、最後にこれだけはこの場でぜひ言っておきたいと。フロアから男性に相当いただきましたので、女性に限りましょうか。女性でもしいらっしゃったら、あと一つだけ受け付けたいと思います。
(清水) いかがでしょうか。ぜひこの機会に、どんな質問でも結構ですので、どうぞお願いいたします。
(質問者D) 拓殖大学の国際開発学部1年の者です。
 私は、国際協力とか、こういうフェスティバルとかにも参加したことがなくて、勉強も始めたばかりで、ODAのこととか、全くわからない状態で、きょうをきっかけにしたいと思って来たんですけれども、本当にきょう参加してびっくりすることばかりで、うまく言えないんですけれども、これからも国際協力とかに係わっていきたいと思っているんです。きょう、もっと勉強しなければいけないなと思って、これから勉強していく上で心構えみたいなものを何かアドバイスしていただきたいんです。
(戸田) どうしましょうね。柳沢さん、一番近い目線で。
(柳沢) いま勉強を始められたということで、仲間が増えたんだと思って、すごくうれしい気持ちでいます。一つ、アドバイスがあるとすれば、私自身が大学で勉強し始めたころに教授から口をすっぱくして言われたことなんですけれども、とにかく現場に出なさいということでした。途上国に行って、現場を見てきなさいと。それはきっと自分が学んできたことが、どういうふうに途上国で実際に行われているのか、そういうことを確かめる。私だったら、教育を専門にしていたので、教育が大切だ、教育を普及させなければいけないということが途上国の人たちにとってどういう意味を持っているのか、教育を本当に必要としている人たちがたくさんいて、それがいままだ教育を受けたいという気持ちが叶えられていなくて、そういうのを実際に実感として感じられること、それはすごく大切なこと。
 それだけではなくて、もう一つ意味があるとすれば、大学で学んでいることって、やっぱり学問的なことで、必ずしも現場に行くと、使えないことって実はあったりするんですね。それを行くことによって、矛盾を感じること、そのことに気づくだけでも本当に意味がある。私もケニアに行ったときに、教育が余りないところで、学校教育に通わせるために寮に入れてしまうと、自分たちの民族の文化を伝える時期に寮に入ってしまって、自分たちの文化が守れない、そういうコンフリクトがあったり、そういうこともあるんだ、そういうのは行ってみて聞かなければわからないなというふうに思ったので、ぜひ現場に早く行ってみてほしいなと思います。
(戸田) もしもっと詳しく知りたいようであれば、いつでもEメールをいただければと思います。
 それでは、ちょっとここでいままでの議論を高校生の立場で聞いてきて、斉藤さん、中村さん、感想とか、もしあれば、いかがですか。どちらかお1方、代表してでも。
(中村) きょう聞いて、やはりODAというのは私たちにとってとても遠いものなんですけれども、メディアから入ってくる情報というのがとても片寄っていて、ODA批判というようなところが大きいと思いました。私は中学3年生のときにもエッセイを書きまして、そのときにも賞をいただいたんですけれども、そのときのテーマがODAでした。先ほども出たように、ダムの話で、価値観の衝突というものがあるんじゃないか、価値観をどうやって理解したらいいんだろうというようなことを書きました。でも、それのもとになったのもやはりODA批判の記事だったと思います。でも、やはりこうやってお話を聞いていますと、たくさんよい例もあると思いますし、また先ほど質問にあられたように、ODAが戦略となっているみたいというのも、実はマレーシアに研修に行ったときに、マレーシアの事務所の方に伺いました。でも、そういったものをすべてを含めて、やはり私はメディアのほうに興味があるので、そうなってしまいますけれども、メディアがもっとすべてを報道してほしいというのがあります。よい面、悪い面。実はODAというのは私たちにとって人道支援というふうに、特に中高生は思っています。そういったときに戦略的な面、ニュースなどに出てしまうと、あれ、おかしいんじゃないか、ODAって人道支援だけじゃないのかな、人のためになることをやっているはずなのに、何でこういう戦略的なことが出てきちゃうんだろうみたいに、中学生のときはすごく思って、そこに矛盾があるように感じていました。でも、そうではない。ODAにもいろいろな目的があるんだということをもっと広く伝えていただければ、私たちにも理解できるんじゃないか。私たちはまだ世の中がわかりませんし、むずかしいことはわからないんですけれども、素直に率直に言っていただければ、私たちはそれを素直に受けとめようと思います。ですから、そういった広報の仕方ですとか、ODAのあり方をそういうふうに伝えていただければなと思いました。ありがとうございます。
(清水) 会場の皆様からもたくさんの貴重なご意見やご質問など、本当にありがとうございました。それでは、最後に本日のタウンミーティングにつきまして、戸田さんのほうからまとめていただければと思います。お願いします。
(戸田) ここで、時間がないと言っておいて自分で話すのは申し訳ありませんが、、クリーニング屋さんの話をさせてください。この間、アフガニスタンから帰ってきて、汚れた服をクリーニング屋さんに持っていったんですね。高円寺なんですけれども、そうしたら、「ああ、JICAですか。割引してあげます」ということで、 200円ぐらいまけてくれたんですね。すごくうれしかったんですけれども、ちょっと考えてみて、何となく後ろめたい気持ちになったんです。私みたいな特別な業界に入って、すでに70カ国ぐらい世界を飛び回っていますけれども、今度もパレスチナとかにまた行きますけれども、そういう特別な人種、あと上村さんみたいな人とか、特別のことをやるのが果してODAかと。最初のところで 100年の想像力を持ってわれわれは議論したいと言ったのはそこなんですよ。遠い遠い将来を考えて、庄野さんがおっしゃったように、日本だとか、インドネシアだとか、そういう切り口というか、どうなんだろう。やっぱり同じ人間じゃないか。同じ人間が同じ人間として、もっと言えば、普通の人が普通のことをするがごとく国際協力ができるようになる。何十年先かわからないです。ODAというのは、そういうの橋渡しをする役割なのかなと。いつか、私、10年ほど前、ぶっちゃけた話ですが、とある機会に、ODAなんて、本当を言えばなくなってしまのが一番いいんだということを青臭く言ったら、こっぴどく怒られたんですが、その気持ちは変わっていません。短期的には必要です。すごく必要です。それが10年、20年になるかわからない。でも、遠い遠い将来、ここで仮に 100周年のイベントをやるというときに、私たちはODAと言っているか、それとも国際協力と言っているか、地球協力と言っているか、それを見据えながら、普通の人が普通の人生の中で普通のことをする中で、国際協力というのがもっともっと根づいていけばいいという願いを込めて今回のセッションを終わらせていただきたいと思います。
 それと、今回、ちょっと非常に特殊なことがあります。実は前回まではどちらかというと、外務省とJICAその他で、わりかしこれを仕事としてやってきたんですね。ところが、ある大学で私が講義に行って、その後、ぜひ何か手伝わせてくれということでメールをもらって、それじゃ、このイベントも大変らしんですけれども、それをいろんな学生さんが実は手伝って、本当にボランティアベースでたくさんの人がオーガナイズしてやってくれました。どこの大学でだれとかはたくさんいらっしゃるのでここでうまく紹介できませんけれども、そういう方にも感謝したいと思います。きょうは本当に皆さん貴重なお時間を共有していただいてありがとうございました。最後に清水さんのほうで締めていただきたいと思います。
(清水) 戸田室長、どうもありがとうございました。本当に皆様長時間にわたりお付き合いいただきましてありがとうございました。あっという間の1時間半だったように私には感じられます。会場の皆様、そしてパネリストの皆様、そして高校生のお2人にも大変貴重なご意見をちょうだいいたしましてまことにありがとうございました。これらの貴重なご意見を生かしまして、これからのODAの実施に生かしていただきたいと思います。皆様、本日はまことにありがとうございました。
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