1996年春、中村前大使(駐セネガル)のもとに一通の手紙が届いた。セネガルのマレム・ニアニ村の村長が「ぜひ一度、村を訪ねて欲しい」というのだ。
日本は9年前、セネガルの7つの村に深井戸を掘って給水施設を設ける無償援助をしたが、マレム・ニアニ村はその1つ。首都ダカールから400キロほど離れた人口1200人の小さな村だ。
この村では、ずっと昔から牧畜で生計を立ててきた。が、水資源に乏しく、雨期の間に貯めた水がなくなると、男たちは水を求めて家畜とともに長い旅に出る。残された女性と子供は、村に1つしかない浅井戸の前に行列をつくる毎日だったが、その井戸も70年代の旱魃で枯れてしまった。仕方なく8キロ離れた隣村まで水をもらいに行っていたが、それがいけなかった。水が汚れていたため、多くの子供が病に倒れたのである。
日本の技術者がはじめてこの村に足を踏み入れたのは1983年。いくつか試掘した後、130メートルの深井戸が掘られた。ディーゼル・ポンプで汲み上げられた水は、一旦、貯水タンクに集められ、そこからパイプを通して、3カ所の共同水汲み場と4カ所の家畜用水飼い場に配られる。村人にとって、水がなくて苦しんだ昔は、いまでは夢のようだ。
しかし、マレム・ニアニ村の村長が中村前大使に見せたかったのは、日本に掘ってもらった井戸から溢れ出る水ではなかった。井戸の完成以来、村人たちが生活向上のために意欲的に知恵を出し合うようになった姿である。
まず共同水汲み場の蛇口は、夜には水道管理人が鍵をかけて閉鎖する。幼い子供たちが水を無駄使いしないようにするためだ。次に、村人たちは水道の使用料を出し合うことにした。そうして集めたお金は基金として蓄えられ、ポンプ保守技師の給与や部品、燃料費に回される。
それだけではない。基金がまとまったところでパイプの延長工事をし、学校や保健所に水道を引いた。パイプは野菜畑や果樹園にも延びてゆき、マンゴ、バナナ、レモンの収穫がふえた。村では少なかった若者の仕事もできた。そしていまでは、貯水池をつくって魚の養殖をする計画が持ち上がっている。
アフリカでは、日本名を持つ子供がいる。給水施設をつくってくれた日本を忘れないため、日本人技術者の名前にあやかってつけられたものだそうである。
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最近、アフリカ悲観論が台頭している。アフリカの人々には自らの力で発展・自立してゆく意欲がないから、いくら援助してもドブにお金を捨てているようなものだ、という。
しかし、マレム・ニアニ村の人々は、知恵とお金を出し合い、給水施設を村の経済発展の資源にした。アフリカ悲観論者が見ようとしない、もう 1つのアフリカの未来がここにある。