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中華人民共和国
遥かな土地に青春の一ページを求めて(荊州日報 2004年11月18日)

 荊州市は、科技部、省科技庁の支援と市政府の指導のもと、日本の青年海外協力隊の作業を展開してきた。市科技局の積極的な働きかけと企画で、数年の間に4名の協力隊員が荊州市に派遣された。かれらはおもに医療・衛生とスポーツ面での仕事に従事した。荊州には現在、3名の協力隊員がおり、これらの協力隊員は遠く離れた荊州を訪れ、現地にしっかりと根を張って「中国の国情がよく分からない」「不慣れな場所での生活」などもろもろの困難を克服し、荊州市の社会経済発展促進に積極的に身を投じている。かれらは荊州に海外の新しい技術、理念、方法をもたらし、活動の中で成果を上げることによって、ユニットの発展に積極的な役割を果たしている。協力隊員は活動と生活を通して中国についての理解を深め、中国語レベルを上げ、中国ならではの貴重な経験を習得して、協力隊の活動の「互いに助け合い」「互いに刺激しあい」「双方ともが益を得る」良好な効果を上げた。

 今日は、かれらについて読者の皆さんにお伝えする。

 拓殖将介:荊州サッカー学校コーチ、日本福祉大学卒業
 佐藤梓:荊州市中心病院神経内科看護師、日本大津赤十字看護専門学校卒業
 三田千鶴:荊州市第一人民病院外科看護師、日本東京専売病院高等看護学校卒業

 青年海外協力隊員として中国に赴任。荊州という地でかれらの青春の1ページを始めることとなった。自由に満ちたすばらしい年代、青春の鮮やかな日々を思う存分謳歌する。かれらは決してお金のために仕事をしているのではない。ボランティアとして荊州市の社会経済文化の発展のために自らの力をささげようと、心から望んでこの遠くはなれた荊州を訪れたのである。

「手弁当」で活動参加
 佐藤梓にしても三田千鶴にしても、彼女たちの中国語に私は非常に驚いた。荊州に来てまだ数ヶ月だというのに、インタビューの間中、言葉が通じないということで会話が途切れたことはなかった。
 三田千鶴は私に、青年海外協力隊に派遣されて中国に来たこと、日本国政府と中国政府の間で取り決められた関連の合意に基づき、配属先からは隊員に宿舎と必要な生活用具、作業中に使用するおもな設備および一般的な疾病に対する無償医療サービスなどだけが与えられるのだと説明した。
 協力隊員の配属先は隊員に対して、宿舎と作業環境だけを提供しているのだということを私は理解した。
 それでは隊員の生活費はどこから来るのか?記者は少し心配になった。
 インタビューの途中、市科技局社会発展外事科・戴治平科長よりは協力隊員の荊州での生活費の説明があった。日本国政府は、協力隊員に対して1ヵ月につき2万円あまり(中国元換算:1500元)の手当てを支給している。荊州の平均生活費は1ヵ月500元で、日本国際協力機構(JICA)は海外派遣規定に照らして、その3倍の元が支給されている。かれらの生活費はすべて日本国政府が支給しているのだ。
 インタビューの間、私は中心医院で現在活動中の佐藤梓に、荊州での活動を選んだ理由を尋ねた。
 彼女は、「三国の文化に魅力を感じています。日本では多くの人が三国の文化に対して憧憬のような気持ちを抱いています。私は『三国演義』の中に登場する張飛が好きです。張飛が私に与える印象はとても深くー忠誠、率直、勇猛。非常に身近に感じる」と話した。
 彼女は三顧の礼を尽くしてあの諸葛亮を迎えた劉備(劉玄徳)のことも知っていた。三田の宿舎には中日『三国志』12枚組みが置かれているのに気付いた。彼女はしばしばその『三国志』を見るのだと彼女は告げた。日本で本を読んでいたころは劉備が最も好きであったが、荊州に来てからは関羽が好きになった。老南門関帝廟にしばしば遊びに行くためかもしれない。

楽しい仕事
「病院の同僚を身近な存在に感じ、病院からは素晴らしい作業環境を与えられている」三田千鶴と佐藤梓は二人ともこのように記者に話した。したがって、彼女たちは仕事を始めると、実に心地よくなるという。文化背景の違いがあっても、同僚たちとの交流にはまったく障害にならない。
 三田千鶴の表情からは、同僚たちに対する好意が溢れていた。荊州に来るまで、彼女は人々が日本人を嫌っているのではないかと思っていた。数ヶ月の生活を経て、このような心配は無用なもので、そんなものは存在しない、人々は実に親切で友好的であると思うようになった。
 市一医普一外科の陳静看護師は記者に対して、三田千鶴が世話をしたことのある患者はすべて、彼女を高く評価していると話した。病室のベッドに横たわるある患者は、「看護師の中国語を話すスピードが非常にゆっくりしているなと思っていたところ、彼女が日本から来た看護師だということを知った。彼女の看護を受けて特に身近に感じた。彼女の看護の動作は熟練しており、行き届いている……」などと語った。佐藤梓は、日本では看護作業は生活補助センターのメンバーが担当しており、日本で看護師が担当していることは、中国の病院では医者が行っていると記者に話した。

快適な生活
 10月6日、佐藤梓は荊州での初めての誕生日を迎えた。記者の荊州での誕生日はどうかという質問に「最高、最高……」と繰り返した。「多くの同僚と一緒に外で食事をして、パーティを開いて、一緒にバースデイケーキを食べた。ケーキもおいしかった」心から楽しんでいる気持ちが言葉から溢れていた。
 佐藤梓は、太陽がさんさんと降り注ぐ週末、仕事がないときに、城郭を一巡りしたが、古い城が大変美しかった。彼女は街をブラブラしながら食べ歩くのが好きで、荊州に来て4ヶ月にもならないのに、中国料理「水煮白菜」の作り方を覚えた。
 三田さんは家族や友達に連絡をとりますか?
 三田千鶴は、「連絡します。荊州での観光スポットで撮影した風景をメールして、歴史ある三国文化を一緒に感じてもらいます」と答えた。
 三田千鶴は同僚の婚礼に参加したことがある。記者は「楽しかったですか」と聞いた。
 「はい。中国に来て初めて中国式の婚礼に参加しました。中国の婚礼にはさまざまな要素がつまっていて独特で、ロマンティックでした」

荊州の印象
 「中国、荊州についての最も深く感じていることはどんなことですか」と記者は質問した。
 佐藤梓は、荊州に来てから訪れた場所はあまり多くはないが、中国は長い文明に支えられた美しい国で、どこかに訪れるたびに、美しい風景をカメラに収め、心行くまで味わうのが好きですと答えた。
 三田千鶴は、荊州は発展途上にある美しい都市で、都市の持つ文化には深いものがある。荊州の人々は心が熱く、訪問者に対してもてなす気持ちに溢れているが、沙市弁はあまり理解し易いものではなく、街もあまり清潔ではないと答えた。
 彼女はこういうとすぐに、申し訳なさそうに続けた。「大賽巷の麻辣湯は大変おいしいし、安い」。
 荊州の男の子はかっこいいですよ、どう思いますか?とのこちらからの質問にみんな笑い出した。三田千鶴は「あああ、この点についてはあまり気にかけていなかった」と言った。

友好の使者
 時間の関係で拓殖将介へのインタビューは最後に回ってしまった。彼は27日に荊州を離れる。記者はインタビューの間、まわりの人たちと離れがたいという拓殖将介の気持ちを感じた。彼は私が来るとの意を告げると、喜んでインタビューに応じてくれた。
 拓殖将介は、ボランティアで中国に来る日本人は多いが、青少年にサッカーを教えているのは自分一人だといった。荊州サッカー学校での2年間、彼は中国人コーチと共同で高校チームのコーチを務めた。来たばかりのとき、高校チームにはメンバーが22名いたが、途中で幾人かが湖北体育学校や省サッカー学校に引き抜かれて現在は13名になっている。高校チームのメンバーの年令は11歳から15歳とまちまちで、日本の小学校5年生から中学3年生に当たる。日本では学年ごとにチームがありレベルに差異は小さい。試合相手の年齢も一様である。荊州サッカー学校の情況は日本とは異なる。コーチにとっては、指導面で多少の難しさが加わる。
 「今年の夏に開かれた湖北省学生サッカーチームゲームでは、メンバーを引率して13歳以下のゲームに参加し2位を獲得した」
 この話に至って、拓殖将介は明らかにリラックスしたようであった。
 拓殖将介は、「中国と日本の訓練方法は多くの点で異る。私がこの地に来た目的は、中国のコーチに日本サッカーの訓練方法を紹介することである。活動中の最大の問題は言葉の交流であった。当初私の中国語はあまりうまくないし、メンバーの基礎的な技術も劣っていた。彼らは、私のやり方を見て真似をするよりほかなかった。基礎的な技術について言うならば、チームの中には日本のハイレベルのメンバーと同じくらいのレベルの者もいた。私の中国語はかれらのサッカーほど速くは上達しなかった。多くの話を言葉にできず、これが訓練に大きな困難をもたらした。また、中国の訓練方法は生徒に対して非常に厳しいが、私の方法はちょうどその反対であった。メンバーは時には言うことを聞かなかった。不真面目な態度にとまどいもした。
 荊州ではサッカーのコーチのほかに、コンピュータで「荊州の生活」というホームページを作り、おもに私が訪れた『三国志』の中に登場する名所旧跡を紹介した。たとえば、成都、隆中、赤壁など。特に『三国演義』が好きな人が私のホームページを見て、わざわざ荊州観光に訪れたりもした。
 「訪れた場所でどこが最も印象深かったですか?」との質問に拓殖将介はすぐに「桂林です」と答えた。桂林について話すとき、彼は満面幸せの様子であった。
 彼は記者に「私のガールフレンドは桂林にいます。私は桂林に行ったし、彼女も荊州に来た。彼女も私と同様に協力隊員で、桂林幼稚園で仕事をしていて奈奈子といいます」彼はボールペンを取り出して「奈奈子」という字を書いて見せた。これらの字は中国語の漢字とまったく同じであった。
 青年海外協力隊の規則によると、協力隊員は任期中に自由に帰国することはできず、結婚も帰国後にするよう促されているが、恋を語ることを禁じるとは書かれていない。
 「こういうのも幸せですね。若い二人が同じ理想を抱いて、ともに海外で仕事をする」私は笑いながら言った。拓殖将介は中国に派遣されてまもなく2年になる。つまりそろそろ荊州を離れて帰国するのだ。拓殖将介にまた中国に来るかと聞いた。
 「中国に戻る可能性はあるが、そのときは観光です。今後は日中友好のために仕事に励みます」拓殖将介は気持ちを込めてそう答えた。

記者雑感
 私は、青年海外協力隊メンバー3名にインタビューすると同時に、彼らの仕事振りを実際に見て理解した。かれらはあまり多くは語らないが、いったん仕事を始めると、きちんと仕事を処理していた。いずれにしても、若者が、ボランティアでチャレンジ精神をもち、自らの青春をささげ、より有意義な人生を送っているのだ。そしてこのような人生は、かれらの命の中に永遠の記憶として刻まれるのだ。これは誰もができることではないが、多くの人がこのような夢をみているのかも知れない。
 日中政府がJICAルートで行う技術協力の重要な構成部分である協力隊員は、中国の改革開放事業の助けとなり、人々の交流を通じて中日両国の未来と次の世代の友好に非常に積極的な役割を果たした。青年海外協力隊の活動を創出し、科学技術の改革開放を一層深いものにする。荊州市はこの面で有益な試みを行い、成果を上げた。目下のところ、荊州市で任務に当たっている協力隊員の数は省内第1位で、10以上の機関が協力隊員の派遣を申請中である。分野は衛生、教育、農業、製造業などの業界と分野で、このうち4機関がすでにJICA事務所の初歩的な考査を通過している。
 市科技局・許平副局長は、記者のインタビューに応え、「青年海外協力隊員の荊州での活動は、荊州市科技外事面での活動の一層の深化を促進し、仕事面だけではなく友好関係を維持することができた。荊州市の科学技術導入、海外との交流、外国の専門家による管理など科学技術面で実質的な成果を上げ、中日両国の未来と次の世代の友好に新たな貢献を果たしている」と語った。



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