平成23年10月
川端達夫総務大臣 玄葉光一郎外務大臣 中川正春文部科学大臣
ジョン・ルース駐日米国大使 ディビッド・ウォレン駐日英国大使 イ・ギョンス駐日韓国公使
『A Triumph of Soft Power』
ジェームズ・ギャノン(米国法人日本国際交流センター事務局長)
『Teaching English in Yamaguchi between Showa and Heisei: the importance of the local』
アンガス・ロッキヤー(ロンドン大学アジアアフリカ学院日本研究所長)
『草の根の国際交流の深化』
キム・ジンア(韓国全国市・道知事協議会国際協力部長)
『JETプログラムの25年と将来展望』
財団法人自治体国際化協会 会長 山田啓二
注:本稿は、各挨拶や発言等を要約したものです。
開会にあたり、東日本大震災で犠牲となったJETプログラム参加者、テイラー・アンダーソンさん、モンゴメリ・ディクソンさんの活躍を顕彰するとともに黙祷を捧げた。
JETプログラムが昭和62年に創設されて25年となりました。当初は4カ国848名の参加で始まった本事業も累計で60カ国5万6,000人に及ぶ、今や世界最大規模の国際交流事業に発展し、国内外で高く評価されています。これも本事業に参加された外国青年の方々をはじめ、関係各位のご尽力ご支援の賜物です。感謝を申し上げます。
JETプログラムは2つの目的、第1に外国語教育の充実、第2に地域レベルでの国際交流の推進という目的を持って実施されました。外国青年の方々には外国語教育の充実の面では語学指導助手(ALT)として、また国際交流の推進の面では各地方公共団体の国際交流員(CIR)として、生徒や地方公共団体の国際化の推進だけではなく、地域の人々とも交流することで、地域住民の国際理解と国際感覚の増進に大きく貢献してきていただきました。そういう中で先般の3.11東日本大震災で、陸前高田市と石巻市で活躍されていたお二人のALT、モンゴメリ・ディクソンさんとテイラー・アンダーソンさんが殉職されたことはまことに痛惜に耐えません。改めて心からご冥福をお祈りします。
JETの卒業生は帰国後も母国と日本との橋渡し役としてご活躍されています。その意味でも、グローバル化が進展する中でJETプログラムは一層重要なものとなってきています。今後、地方公共団体のご意見を踏まえ、関係機関と協力し、JETプログラムのさらなる発展に向けて総務省としても取り組んでいく所存です。本シンポジウムをきっかけに、ますますJETのかけがえのない財産である交流のネットワークが世界中に広がることを祈念するとともに、関係者の皆様のますますのご支援をお願いいたします。
私は、孔子の言葉をかりれば,国力とは兵・食・信,すなわち外交・安全保障、繁栄、そして価値の総体だと申し上げてきました。文化を含む価値は重要な戦略課題の一つであり、日本の地域社会に根ざしたJETプログラムは、国際交流・相互理解を深め、この日本の価値を対外的に発信する上で大変貴重なツールです。
この25年間、日本と諸外国の交流が大きく発展する中で、JETのプログラムの意義は、むしろ高まっています。最近、日本の若者の内向き思考が言われ、グローバル人材の育成が重要な課題となっていますが、JET参加者との出会いを通じて、留学を志望する方が多数おられます。JETプログラムは日本のグローバルな人材育成の面でも有効なツールなのです。
また、JETプログラムは諸外国における日本の現状理解という面でも大きな効果があります。東日本大震災後一時的に減ってしまった外国からのお客様を再び多くお迎えするには、これまで以上に海外への発信に力を入れる必要があります。そうした中で、一時帰国されたJET参加者の大半も今は日本に戻られて、復興ただ中の各自治体や学校の活動を支えておられます。私の出身地福島県にも、56のポストにJETの新規参加者が配置されたと聞いております。世界が被災地の復興に注目する中、復興・再生に向け困難に立ち向かう日本人の姿、誠実さ、そういった価値を改めて発信していくべきだと考えております。そのためにも、日本社会の実情に通じ、地域社会と深い絆で結ばれているJET参加者や卒業生の存在は心強い限りです。ぜひお力添えをお願いしたいと思います。
東日本大震災後、多くの国でJETの同窓会組織による復興支援活動が行われました。JET経験者一人一人が日本と出身国の架け橋になっていただいています。政府要職で対日関係に携わる例もあります。JETの縁が結ぶ世界中のネットワークは、我が国の貴重な財産です。この中に震災の犠牲となられたテイラー・アンダーソンさんとモンゴメリー・ディクソンさんの尊いご遺志と日本に対する愛情が生き続けていることに深い感動を覚えます。
今後ともJETプログラムが日本の国際交流において主導的な役割を果たしていくためには何が必要なのか、本日、有益な議論が行われることを心から期待しております。
正式版は http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/23/egnb_0908.html
これまでJETプログラムは各自治体・地域の皆様、教育関係者の皆様、さまざまな方に育てられてきました。また外国青年参加者の方々は日本に対するそれぞれの思いを持って活動し、JET卒業後はその経験を海外で展開し、日本と各国の窓口となり、貢献していただいています。私は、数ある政府のプログラムの中でも、このJETプログラムは成功したモデル、誇らしいプログラムだと思っています。
グローバル化が進展する中で、日本社会はともすると閉鎖的だと問題視されます。私たち国民の心を開き、海外への発信力を蓄えていく必要があります。そして、そのような子どもたちを育てることがグローバル人材育成の出発点だと考えております。小学校での外国語活動も始まりました。JETの皆さんには日本の教育にさらに参加していただくことを期待しております。
また私としては、このJETから学び、今度は日本の若者が海外へ出て、日本語を教えることを通じ、相手国の文化や人々と触れ合いながら、当該国・地域との橋渡し役となり、その地域の専門家を育てていく、そういうプロジェクトがあってもいいのではないかと思い、取り組んでいきたいと考えているところです。かようにJETからは多くの刺激を得ておりますし、国を外に向かって開いていく流れをつくっていただいております。
お二人のJETのALTの方々が今回の大震災の犠牲になられました。ご冥福をお祈りするとともに、このお二人の気持ちをしっかりと私たちは受けとめ、さらなる発展に向けて、本日、決意を新たにする機会にもしていきたいと思います。本日のシンポジウムが奥の深い、実りあるものになることを祈念し、またこれまでの感謝の気持ちを込めまして、ご挨拶とさせていただきます。
JETプログラムは最も先見の明のある交流プログラムとして高く評価され、JET参加者は常に日本にとっての大使、PRマンであり、また、JETプログラムは英語習得のみならず、国際的理解や国境を越えた人と人のつながりを築く、グローバル化した世界でかけがえのないものです。
JETは25年前に日本が先見の明をもって、人と人との交流、特に若者のきずなの構築の重要さを認識し、日本の将来に向かって投資をしようと始められました。その投資は確実に成果をあげています。JETの卒業生たちは各国で活躍され、直接間接を問わず、今でも日本と強いきずなを保っています。例えば私の補佐官が1990年代に2年間、名古屋市郊外の小さな村でJETとして赴任していたというので、連れて行ってもらいました。今でも村の人々は彼を温かく歓迎し、当時築いた人々のきずなの大事さ、強みを私は目の当たりにしました。これこそがJETの真の影響、成果と言えるでしょう。日本の優れたビジョンとリーダーシップを私は高く評価します。他方、日本の若者の留学生が減っているとのことですが、その流れを逆転させるためにもJETが役に立てばと期待しています。
ここで先の大震災で犠牲となった二人の米国人のお話をさせていただきます。私はお二人の遺族にお会いしました。二人とも東北を、そして日本、日本人を愛していたと聞きました。テイラー・アンダーソンさんの家族は、彼女が勤務した学校に彼女の名前を冠した文庫を寄贈する、またバージニア州に石巻市の若者を招待する交流プログラムを立ち上げると言ってくださいました。またモンゴメリ(モンティ)・ディクソンさんの同僚の先生や生徒たちにもお会いしました。彼は津波に流される数時間前に司馬遼太郎の言葉、「大義に命を捧げる以上に美しいことはない」を翻訳したばかりだったそうです。そんな彼の人生、大義は今、米日間で共有する友情の一部になっています。テイラーさんとモンティさんは、JETがこの25年で築いた米日間の友情の象徴です。今後もJETが両国の架け橋となると期待しています。グローバル化した世界では、これはかけがえないものになるでしょう。
まず、大震災で命を失われたお二人の米国の若者のご冥福をお祈りいたします。米国大使がおっしゃったように、このお二方の命は国際交流がいかにすばらしいものかを示すもので、そのご遺志を継いでいかなければなりません。
この25年で5万人以上の若者が日本の学校や地域で、教育や国際交流活動に携わってきました。この若者の質は非常に高く、例えば英国では、その卒業生の多くが外交官になり、駐日英国大使館でキャリアを重ねています。私も英国からの参加者に会いに日本各地を訪れますが、彼らが一様に、英日関係をはじめ、日本と海外との関係を発展させていきたいという強い意思を持っている姿には感銘を受けます。
私は外交官ですので、当然、英日の新たな協力分野を探ることが仕事です。英日間でこれほど強力な相互理解が深まっていなければ、私の仕事はもっと困難なものになるでしょう。JETは、その相互理解を推進しているわけで、これを積極的にサポートすることは私の外交官の務めと考えています。ただ、最近の傾向としては、やや参加率が下がっているようです。今年は幸い、駐英日本大使館の積極的な募集活動で440人もの英国人が参加していますが、両国がもっと力を合わせてJETに取り組んでいくべきでしょう。
JETの役割としては英語教育もやはり重要です。ますます英語は国際ビジネス分野における言語になりつつあるからです。日本の若者が留学をしたがらない、外国語を勉強したがらないのが心配だと私もよく聞いてきましたが、私は10年ぶりに日本に戻って、若干、その傾向は巻き戻しているのではないかと感じました。外国語学校の生徒数も増えきているようです。曲がり角を曲がったと意を強くしています。英語教育、国際交流の両面で、ますます重要となる、このJETプログラムを支えることが我々にとって重要な職責であると考え、我々も協力していきたいと思います。
私も東日本大震災で亡くなられた方々、被災者の皆様にお慰めとお見舞いを申し上げます。またお二人のアメリカの方々のご冥福をお祈りいたします。
このJETプログラムに韓国が参加してから20年を迎えました。累計で300人以上と、まだそれほど多いとは言えませんが、卒業生は韓国内の各分野で活躍しているだけではなく、日本の政府機関や自治体でも韓日関係のために仕事をしています。このような機会を与えてくださった関係大臣や自治体国際化協会の方々に心より感謝を申し上げます。韓日国交正常化以降、両国の関係は急速に「近くて近い国」へと発展してきています。いわゆる韓流ドラマやKポップ、食べ物、ファッションに至るまで、今や韓国文化に対する関心や親しみは日本社会の裾野まで広がっています。他方、今回の大震災では、韓国からは最も早く救援隊を派遣しましたし、韓国国民からの義援金の額は過去最高の930億ウォンを集め、韓国国民一人一人が心のこもった愛情を示したものと思います。
外交というと国家間の関係と理解されやすいですが、草の根市民レベルの交流を通じて、きずなを積んでいくことが両国の関係を一層しっかりとする大切な基礎になると考えています。こうした脈絡からもJETは草の根レベルの外交窓口として、両国国民の心をつないでくれる大切な架け橋です。韓国政府、韓国大使館としても、日本政府、各自治体、関係機関と協力して、より多くの現場で活発な交流が行われるよう、支援と努力を惜しみません。
最後に再び申し上げます。韓国国民とともに日本が早急に東日本大震災の被害を克服されることを心からお祈り申し上げます。
本日、このような講演をさせていただくことは私にとってこれ以上光栄なことはありません。というのは、JETは私自身の人生にとって大切なものだからです。20年前、私は大学卒業後はアフリカで開発支援の仕事をしたいと強く思い、その可能性も見えていました。そのとき、友人からJETがあると教えられました。正直、私は当時、日本には興味がなかったのですが、日本へ来た決定的理由は飛行機代でした。日本への飛行機代は日本政府が出してくれると。だから、「アフリカに渡るお金を貯めて帰ればよいか」程度の気持ちで来たのですが、愛媛県の田舎に赴任すると、私の実家が農家だったこともあり、最初からそこの暮らしに親しみを感じ、結局、2年間の赴任期間に加え、愛媛大学で1年間研究生として過ごしました。そこで日米関係の政策をさらに勉強するため、アメリカに戻り、大学院で知識とともに妻も得ました。これほどJETは私の人生を変えたのです。
現在、私は米国日本法人国際交流センターの運営統括の仕事をしています。同センターの活動目的は、日米の幅広いセクターのリーダーと協力し、日米交流における民間の組織基盤を強化することです。そのため、議会交流を行ったり、政策専門家の招聘プログラムを主催したりしています。こういう活動をしていて私は気づきました。米国で日本関係の仕事をしている、45歳以下の若手リーダーや専門家の多くがJETの元参加者であると。元JETには若手が多いため、今後、アメリカでは元JETの影響力が増していくと期待されます。日本では成人式は20歳ですが、ほんとうに社会に貢献できるようになるのは25歳ぐらいからではないでしょうか。その意味で、JETもこれまでの努力の成果がやっとあらわれ始め、今後、JETの長期的効果がさらに明らかになるでしょう。例えば私の仕事では議会交流として連邦議会の議員を日本へ連れて行くのは、正直言って一苦労します。しかし、議員秘書として働く元JETを探し出せれば、彼らがボス議員を熱心に説得してくれます。元JETが連邦議会議員になるのも時間の問題でしょう。アメリカ以外でも、また政治以外の例えば文化・芸術の分野でも、元JETの影響がますます強まる兆しが既に見えています。
東日本大震災では、現役のJETだけではなく、各国で元JETが数多く支援活動に携わっています。これは単に日本への恩返しという責任感だけからではありません。JETたちは日本を第二のふるさとと感じているからです。彼らの行動はJETがこれから先も日本と世界の結びつきをさらに強くしていく可能性を示しています。だからこそ、将来に向けてJETプログラムの効果をさらに拡大し、その運営を持続可能なものにするクリエイティブな方法を見つけることが重要なのです。
正直なところ、この10年、JET参加者は少なくなっています。地方自治体によっては、JETで英語教師を雇うよりも派遣会社から雇ったほうが安上がりなため、そちらに流れることがあります。その事情はわかります。しかし、派遣会社からの英語教師には地域社会と密接につながるだけの支援体制が十分ではありません。やはりしっかりとした支援体制が整ったJETだからこそ、帰国後も日本とつながりを保とうとします。このようなしっかりした組織がなければ、民間外交の長期的利益を得られる可能性は限られてしまいます。また、日本人を送る逆JETプログラムのような新しい動きがあることはとてもよいことです。交流プログラムは一方向ではなく、両方向に行き来があるのが健全だからです。
JETプログラムは、世界で最も大きな成功を収めている民間外交プログラムで、世界各国の次の世代のリーダーを育成しています。国際関係でソフトパワーの重要性が言われますが、JETはまさにソフトパワーの勝利です。これまでの25年はJETのすばらしいスタートでした。この貴重な体験を次世代につなげるように貢献していきたいと思います。その意味で、JETプログラムを巡る状況が大きく変化してきている、この25年目を機に、このシンポジウムが開かれたことはまさに時宜を得たものです。今回のシンポジウムで、さまざまな方がJETプログラムの改善を議論し、それが具体的アクションにつながることを期待しています。
23年前の今ごろ、私は英語教師として山口県岩国市に着任したばかりでした。私の生まれはシンガポールですが、育ちはイギリスで、学校で歴史を学ぶといえば西洋のものでした。だから、JETプログラムのパンフレットを手にとったとき、自分の視野を広げてくれる大きなすばらしい機会になると思い、実際そうなりました。
JETは国際交流の面では確かに大きな成功をおさめました。しかし教育の面では賛否が分れています。ただ、これまでJETの英語教育に携わった先生や生徒の努力を傷つけるべきではありません。私の経験では、教室外での英語学習活動、例えばサマーキャンプや音楽活動のほうが、生徒にとってはずっと容易に英語を使って私とかかわることができました。なぜ、そういうことが起こるかというと、JETの目的と日本の英語教育の目的にミスマッチがあったからだと思います。あるとき、私は生徒から大学入試問題を見せられ、この4択の解答のどれが正解かと尋ねられ「どれも正解。状況による」と答えましたが、実際の大学入試ではそうはいきません。つまり、当時の日本人生徒は英語を使うためではなく、大学入試のため、閉ざされた日本社会で成功するために英語を勉強していたわけです。この点も23年がたち、大きく変わろうとしています。日本にも、ビジネス公用語として英語を使う企業が出てきました。これからはJETの英語教育は重要になってくると思います。
日本を含む先進国は今や深刻な経済・財政問題を抱えています。JETに当てられる予算も限られてきます。他方、世界は変わりつつあり、変化する世界と向き合って行かなければいけません。この相反する要求を調和させるため、私は歴史家として2つの意見を述べたいと思います。第1に、明治時代、日本は世界に門戸をあけ、多くの外国の知識を求め、身につけたように、今こそ再び世界に目を向けるべきです。友人と話した中では、例えばすべての日本人英語教師に1年間の外国経験を積んでもらってはどうかという話も出ました。第2に、しかし、こういう動きは地域レベルで始めなければいけません。ちょうど幕末、長州五傑が幕府や明治政府の力ではなく、藩命や個人の意思で海外に渡航したようにです。地域で国際交流を進めるためには、地域の人たち、先生、そして生徒が、どういうことをしてもらいたいかを聞くことが大切です。いろいろな意見が出るでしょう。私は今回、山口に里帰りをしますが、この点について質問をしてみるつもりです。また先生や生徒、地元の役所の方々が自分たちは世界の中でどういう立場にあるか、また外国と常にかかわり、影響を受けていることを知っているかを知りたいと思っています。
外国人を見る機会がほとんどなかった当時、ALTを通じてネイティブ・スピーカーの英語に触れる機会を得られたことや、スピーキングのテストや英語の歌の書きとりなど、英語の授業の様々な仕掛けにより、英語をさらに学びたいという意欲が湧き、有益な機会でありました。
私は1993年から96年にかけ、鳥取県庁の国際課で国際交流員(CIR)として勤務しました。今はJETの名は韓国でも広く知られ、採用されるには高倍率の試験を突破しなければいけませんが、私のときは韓国から最初のJET参加でしたので、あまり知られておらず、運がよかったです。私はソウルで生まれ育ったので、ソウル以外、しかも外国で、しかも親元を離れて暮らすのは初めてでした。また韓国で大学を卒業してすぐに来たので、行政の仕事について何も知りませんでした。しかし、鳥取で働いたことは現在、私が所属する韓国全国市・道知事協議会、日本で言えば全国知事会と自治体国際化協会(CLAIR)をあわせたような組織ですが、その仕事に生かされています。
私の主な仕事は、鳥取県とカンウォンドの交流を盛んにすることでした。鳥取もカンウォンドも首都圏から離れた地域で、農業をはじめ、いろいろと交流が行われていました。その中でも私が一番ユニークだと思ったのは、普通は国際交流の対象にはならない高齢者の方々を船でカンウォンドに連れて行き、囲碁や生け花などを通じて交流を図ったことでした。その後もいろいろな交流を重ね、1994年に両者は姉妹提携に至りました。姉妹提携後も両者の交流は盛んで、県レベルから市町村レベルに交流・提携関係が広がりました。
草の根交流という面から見れば、まずはお互いの公務員レベルで積極的に交流を始め、それがだんだん民間レベルに中心が移っていったのが成功の要因の一つではないかと思います。私が思うに、国際交流を演劇にたとえるなら、公務員が舞台をつくり、民間が俳優として活躍するものです。どちらか一方だけでは成り立ちません。
鳥取県とカンウォンドの姉妹提携をきっかけに、韓国の地域での国際交流も深化し、広がりを見せています。最初は人と人の交流だったのが、今では生活に密着した経済交流になったように交流の内容も、また相手先もアフリカにまで広がるなど多様化しています。
個人的にはJETに参加した3年間で、私は韓国文化のことも深く考えるようになりました。国際交流というと、相手国の文化を知り、親しむことと思いがちですが、私の場合、外国の文化に触れることで、自分の国の文化も深く理解し、相手の文化を尊重するだけでなく、自国の文化も尊重できるようになりました。こうした文化のバランス感覚を養えたことは今の仕事に大変役立っています。
韓国の古い言葉に「早く行きたいなら一人で、遠くへ行きたいなら一緒に行きなさい」というものがあります。JETは日本が日本の自治体のためにつくったものですが、今やその成果は日本だけではなく、多くの国の政府が共有し、一つの志でこのプログラムに参加し、一緒に手をつなぎ、遠くまで行こうとしている途中だと思います。
本日は大勢の皆様にご参加いただき、まことにありがとうございました。JETが25年を迎え、支えていただいたすべての皆様に感謝を申し上げます。東日本大震災ではALTの方2名が犠牲になられましたが、その遺志を継ぐかのように支援活動が行われていることからもわかりますが、JETは大きな財産を築きました。しかし、その実績にあぐらをかくことなく、これを磨き上げなければいけません。このシンポジウムは、JETの原点を考え、さらに発展させる大きな機会になったのではないかと思います。私たち地方公共団体及びCLAIRは今後もJETプログラムをしっかりと支援していきますので、関係の皆様も引き続き、日本の教育、国際交流のためにお力添えをいただくことをお願い申し上げます。