寄稿・インタビュー
オスロボジェーニェ紙(ボスニア・ヘルツェゴビナ)への茂木外務大臣寄稿
(令和3年4月29日付)
「ボスニア・ヘルツェゴビナへの訪問を楽しみにしています」
我が国への訪問に当たって、日本国外務大臣は、日本がボスニア・ヘルツェゴビナの多様性と国家としての一体性を支持し、
民族融和に主体的に関与している旨を強調
「日本とボスニア・ヘルツェゴビナとの友好の歴史は、外交関係を開設した1996年に始まり、今年で25周年を迎えました。日本の外務大臣として23年ぶりとなるボスニア・ヘルツェゴビナ訪問を契機に、日本とボスニア・ヘルツェゴビナの関係をより親密なものとすべく、二国間の具体的な協力を積み上げていきたいと考えています。
23年前にボスニア・ヘルツェゴビナを訪問したのは、後に総理になられた小渕恵三外務大臣でした。小渕大臣は、デイトン合意履行のため当事者の一層の努力を求め、日本は復興支援、地雷関連支援、難民支援、研修員招聘等の国作り・民族和解のための支援策を打ち出しました。
日本は、ボスニア・ヘルツェゴビナの多様性と、国家としての一体性を支持し、紛争直後から現在に至るまで、復興と民族融和に主体的に関与してきました。例えば、日本が1998年にサラエボ市に供与した80台の黄色バス、その後、バニャ・ルカ市に供与した35台の赤色バス、モスタル市に供与した40台の黄色バスは、市民の足として親しまれてきました。また、モスタル市では、元サッカー日本代表主将の宮本恒靖氏が、異なる民族の子どもたちが共にサッカー等を学べるスポーツ・アカデミー「マリ・モスト」(注:現地語で小さい橋の意)を開設し、同市での民族間の融和を目指した取組を継続してきました。
小渕大臣が訪問したボスニア・ヘルツェゴビナは、激しい紛争の直後でしたが、私が訪問するのは、復興を成し遂げ、西バルカン地域の安定と平和の鍵を握り、EU加盟を目指す経済社会改革が進展するボスニア・ヘルツェゴビナです。
日本は、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有する結束した欧州を支持しています。ボスニア・ヘルツェゴビナを含む西バルカン諸国の欧州統合は、結束した欧州の実現にとって非常に重要です。2018年1月の安倍総理(当時)の南東欧訪問時に発表した「西バルカン協力イニシアティブ」を通じて、日本とボスニア・ヘルツェゴビナの関係は各分野で飛躍的に発展しています。今回の私の訪問に際しても、国境管理強化・治安対策機材の供与、また、スロベニアの国際NGO「人間の安全保障強化のための国際信託基金」との協力によるボスニア・ヘルツェゴビナ内4都市(ビハチ、ドニ・バクフ、ドボイ、フォチャ)での地雷除去計画に関する無償資金協力に関する交換公文の署名を行います。
最近では、新型コロナ対策に係る医療・保健体制強化支援、サラエボ大学哲学部日本語・日本文化教室整備支援、ウグレヴィック火力発電所への排煙脱硫装置設置支援等を実施し、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済社会開発を支援してきました。さらに、サラエボのサブリナ小学校の改修をV4と連携して実施するなど、EUとの協力によるボスニア・ヘルツェゴビナ支援も展開しています。これらの日本の支援が、ボスニア・ヘルツェゴビナのEU加盟プロセスの着実な進展に寄与することを期待しています。
1984年のサラエボ冬季オリンピックのメインテーマ曲を歌われたヤドランカ・ストヤコビッチ氏は、90年代から2000年代にかけて日本に活動の拠点を置かれ、日本でも大きな注目を集めました。今もバニャ・ルカ市にある同氏の墓所には、日本から友人やファンが訪れると聞いています。また、サッカー日本代表がボスニア・ヘルツェゴビナ出身のイビツァ・オシム監督とバヒド・ハリルホジッチ監督に率いられ、大きな成果を挙げたことも記憶に新しいところです。さらに、ボスニア・ヘルツェゴビナの現在の国旗は、1998年の長野オリンピックで初めて世界に披露されたものでした。
私自身、今回が初めてのボスニア・ヘルツェゴビナ訪問です。今回の訪問を通じ、ボスニア・ヘルツェゴビナが紛争後の復興期を終え、EU加盟を目指し発展している姿を目にすることを大変楽しみにしています。また、これまで両国の間で築かれてきた良好な関係を基礎とし、私の訪問を機に、日本とボスニア・ヘルツェゴビナとの関係が更に発展することを願っています。」