外務本省

外交史料館報 第19号(平成17年9月)
目次と概要

口絵

講演会

 2005年3月18日、外交史料館において開催した講演会の記録。筆者は、我が国におけるロシア史研究の第一人者であり、本講演においては、冷戦体制が北東アジアに確立した時期(1945~56年)における北東アジア諸国間の動向を、近年ロシアで公開された史料などを用いつつ明らかにした。

インタビュー

 『シベリア出兵の史的研究』(初版は1955年刊行)は、『日本外交文書』編纂委員長を務める筆者の処女作。本インタビューは、同書が2005年に文庫化されたことを機に、筆者本人より同書執筆の動機、執筆当時の学界の雰囲気、シベリア出兵を研究する諸外国の研究者との交流、さらには同書の今日的意義などにつき語って頂いたもの。

論文

 1962年10月の中印国境紛争の勃発以後、インドとオーストラリア、そして日本が提携し、中国の影響力拡大を阻止しようとする外交構想(日豪印提携構想)がオーストラリアを中心に活発化した。本稿は本構想をめぐる日本、インド、オーストラリア3か国間の交渉過程を描き、更に「東南アジア」という地域概念の形成に本構想がいかに関与したかを考察したものである。

 戦後、米国統治下にあった沖縄において、沖縄戦戦没者の遺骨収集および慰霊問題は、「日本と沖縄」間の問題であるとともに、「日米」間の手続きを要する外交問題でもあった。本稿は、これら沖縄戦戦没者をめぐる諸問題に対する日本の関与過程を、外交記録公開により公開された記録を中心に明らかにしたもの。

研究ノート

 1938年12月18日、汪兆銘が重慶を離脱し、ハノイへ逃れたことは、それに先立つ約1年間にわたる日中和平工作の成果であった。同工作に外務省関係者はかかわっていなかったが、重慶脱出後は、外務省も対汪工作に参加したので、外務省記録にも関連記録が多数残っている。本研究ノートにおいては、重慶を逃れ、その後ハノイを脱出し上海に至るまでの時期における汪の動向を、外務省記録および関係者の回想から明らかにしたもの。

 本ノートは、外交史料館所蔵史料から、明治14年(1881年)日本政府がプチャーチンに勲一等旭日章を贈ったこと、および明治24年(1891年)に彼の長女が亡くなった際に、遺産の一部を日本貧民に遺贈したという2つの事例を紹介したもの。これら2つの事例から、ペリーと比し日本において知名度が必ずしも高くないプチャーチンが、帰国後も日本に好意的であったことを明らかにした。

特別展示

 2004年が、日米和親条約調印(1854年)から150周年にあたることを記念して、同年10月18日から2005年4月28日まで開催された特別展示について、各展示史料を紹介したもの。

 なお、特別展示の展示史料解説は、こちらからもご覧いただけます。

 特別展示「日米関係のあけぼの 1852-1866」に出陳された展示史料「万延元年遣米使節に贈られたブキャナン大統領肖像入りメダルと金時計」の由来を調査する過程で判明したいくつかの興味深い事実についての紹介記事。

戦後外交記録公開

 外務省では、1976年に行われた第1回外交記録公開以来、原則として、作成から30年以上経過した戦後外交記録を対象として、審査の上、公開している。本記事は、2005年2月25日に行われた第19回外交記録公開につき、大臣官房総務課外交記録審査室がその概要を紹介したもの。

 なお、同公開における「公開案件一覧」を含む概要は、こちらで確認できます。

『日本外交文書』概要

 2005年3月に刊行された『日本外交文書』の最新刊の概要をまとめたもの。本巻は、昭和10年(1935年)における日本とアメリカ、イギリス、ソ連など欧米諸国との二国間関係に関する文書、脱退が確定した国際連盟の非政治的機関との協力に関する文書、カナダに対する通商擁護法発動問題を含む欧米諸国との通商問題に関する文書、ヨーロッパ諸国の動向を日本側がいかに把握していたかを示す文書など、410文書を採録した。

 『日本外交文書』の紹介および刊行状況は、こちら

外交史料館利用状況

187ページ

 平成16年度の外交史料館利用状況。具体的には、(1)利用統計(閲覧者数など)、(2)団体見学者、(3)所蔵記録の出陳・掲載・放映について簡潔にまとめたもの。

外交史料館ニュース

210ページ

 平成16年度の外交史料館における主なニュース。具体的には、(1)史料の公開、(2)戦後外交記録公開、(3)所蔵記録のマイクロフィルム、デジタル化の実施、(4)レファレンス情報の掲載、(5)研究会の開催、(6)特別展示、(7)人事短信…主な動き(平成16年度)について簡潔にまとめたもの。

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