本巻は、昭和11年1月~昭和12年7月の対中国関係外務省記録を編年方式により編纂し、上下2冊に分けて刊行したものです。『日本外交文書』は、本2冊を加えて明治期以来通算201冊となりました。なお、日中戦争関係文書については、今後刊行される『日本外交文書』日中戦争(仮題)において採録する予定です。(A5判、本文1621頁、日付索引128頁、総ページ数1749頁、採録文書総数1220文書)
一 日中外交関係一般
1 広田三原則承認問題
2 「對支實行策」の策定
3 川越・張群会談
4 対中政策の再検討
二 日中諸案件交渉
1 一般問題
2 中国関税問題
3 日中経済提携問題
4 成都総領事館再開問題
5 上海および青島における紡績罷業事件
6 青島方面への中国税警団移駐問題
7 汕頭における邦人巡査拘引事件
三 中国における邦人遭難事件
1 成都事件および北海事件
2 上海における中山水兵射殺事件
3 その他の諸事件
四 華北問題
1 一般問題
2 内蒙工作と綏遠事件
(以上、上冊)
3 華北密輸問題
4 華北関税および幣制問題
5 華北における日本の権益発展策
五 中国政情
1 両広事件
2 西安事件
3 国共合作問題
六 中国幣制改革(米中銀協定を含む)
七 中国をめぐる列国との関係
1 英国との関係
2 独国との関係
3 ソ連邦との関係
4 米国およびその他諸国との関係
付 リース・ロスの再来日問題
八 満州国をめぐる諸問題
1 一般問題
2 列国の対満経済発展活動
日付索引
(以上、下冊)
本項目では日中国交改善交渉を中心に、日本の対中国政策における基調や、日中関係の基本的な展開を示す文書を採録しています。本項目は4つの小項目に分かれています。
広田弘毅外相は昭和10年秋、中国側に対して日中国交調整のための三原則(広田三原則)を提示しました。昭和11年1月、広田外相は前年の交渉を踏まえ、議会演説において中国側が広田三原則に賛意を示したと述べました。しかし中国側はこれに対して広田三原則に同意を与えていないとのステートメントを発表しました。本項目では広田三原則の承認をめぐって行われた両国間のやり取りに関する文書を中心に採録しています。(26文書)
昭和11年8月4日、四相会議(総理・外・陸・海)において「帝国外交方針」が決定されました。同方針は対ソ政策に外交の重点を置きつつ、極東におけるソ連の赤化進出に対して日満中が共同して防衛するとの政策を打ち出しました。またその具体的施策として「対支実行策」が策定されました。本項目ではこれら関連文書を中心に、4月から8月までの日中国交調整をめぐる両国間のやり取りに関する文書を採録しています。(22文書)
本項目では、昭和11年9月から12月にかけて、主に川越茂大使と張群外交部長との間で行われた南京での一連の会談に関する文書を採録しています。
8月24日に成都事件が発生すると、日本側は同事件の善後処理交渉の中で、中国側に排日取締の不徹底を反省し国交調整への誠意を披瀝するよう要求し、その具体的方法として、日中防共協定の締結や華北への広範な自治制度設定などを求めました。これに対し中国側は、冀東政権の解消、華北密輸の停止などを討議事項として提示し、交渉は膠着状態となりました。10月8日の川越大使と蒋介石行政院長との会談でも事態は打開されませんでした。交渉はその後も防共協定締結問題を中心に続けられましたが、綏遠事件によって中国側の対日態度が硬化すると、川越大使は交渉継続を断念し、12月3日、張部長との会談で交渉打切りを通告しました。(71文書)
本項目では、昭和12年2月に成立した林銑十郎内閣においてなされた対中政策の再検討をめぐる文書を中心に採録しています。
林内閣の佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や前内閣の外交政策再考について言及し、中国側から好感をもって迎えられました。また4月16日に四相(外、蔵、陸、海)によって決定された「対支実行策」では、華北分治や中国内政を乱す政治工作は行わないことを明記するなど対中政策の転換が図られました。しかし、この政策転換には関東軍などの強い反対がありました。6月に林内閣が倒れると、後継の近衛文麿内閣においては、川越大使が新政策を否定するような趣旨の発言を行ったとの新聞報道があり、中国側に大きな反響がありました。(30文書)
日中二国間で交渉された様々な案件に関する文書を集めた項目です。本項目は7つの小項目に分かれています。
日中間の二国間交渉案件のうち、文書の残存状況などから「2」以下で小項目立てできない問題を集めて構成する項目です。日中航空連絡問題や日本側特務機関の活動に対する中国側抗議などに関する文書のほか、中国における抗日世論の高揚振りに関する文書も採録しています。(56文書)
日本は以前より中国輸入関税が日本品に対し禁止的高税率であるとして、税率の引下げを要求していました。当該期においては、日華貿易協会の児玉謙次会長らの主導により、両国民間ベースでの税率協議が行われ、日本側要望を取り入れた税率改訂案が作成されました。孔祥熙財政部長は同案を基礎とした改訂案を作成し、昭和11年8月、行政院会議に提案しましたが、結局、各方面の賛同を得られず、税率改訂の実施には至りませんでした。本項目ではこの関係文書を採録しています。(21文書)
昭和12年3月、日華貿易協会の児玉会長を団長とする経済使節団の訪中が実現しました。この関連文書のほか、本項目では、華北における紡績業関係、長廬塩の輸入問題、福建省における満州産豆粕の輸入問題などに関する文書を採録しています。また、昭和12年1月に為替管理を強化するための大蔵省令が施行されると、邦人当業者は統制の緩和を強く要望しました。この問題についても関係文書を採録しています。(65文書)
昭和11年7月、外務省は満州事変に伴い一時閉鎖されていた成都総領事館の再開を決定し、岩井英一書記生を総領事代理に任命しました。しかし中国外交部は、成都が開港地でないことを理由に総領事館設置を認めず、8月下旬に岩井が重慶に到着すると、現地では激しい反対運動が行われ、その結果、成都事件が発生しました(同事件については項目「三」の「1」に関係文書を採録)。事件発生後、中国側は総領事館再開を原則として認めましたが、様々な理由をつけて日本側外交官の現地赴任実現を延引する態度を続けました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(32文書)
昭和11年11月上旬に上海で発生した邦人経営紡績工場の労働争議は、同月下旬、青島に波及しました。青島市政府の取締りは徹底を欠き、事態を重く見た日本側は12月3日、海軍陸戦隊を青島に上陸させて各工場を警備するとともに、事件関与の物証を得るため、市党部など関係機関の強制捜査を行いました。その後日本側は、青島市長の陳謝、国民党部の解散、事件扇動者の市外追放などを要求し、市長の応諾をもって同月23日、陸戦隊の引揚げを完了しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(30文書)
昭和12年5月、中国税警団2,000名が青島を目指して北上を開始しました。同税警団は抗日意識が強く、その移駐は前年12月の青島紡績罷業に対する日本陸戦隊の上陸に基因するとの情報もあり、日本側ではその実力および背後事情等につき情報収集に努めました。同税警団が青島近郊に到着すると、日本側は不測の事端発生を懸念して、青島市内に進駐しないよう中国側に求めるとともに、兵力の大きい税警団の存在が居留民の不安となっているので、団員数を減少するよう要請しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(21文書)
昭和12年5月、汕頭領事館の青山清巡査が中国側警察当局により捕縛、連行される事件が発生しました。中国側は同巡査が転居に際して届け出をしなかったため、届け出を求めたところ、同巡査がこれを拒否して暴力を振るったので逮捕したと主張し、日本側は元来外国人には届け出の義務はなく、中国警察当局の逮捕は不当であると主張し、新聞紙上に報道されて両国世論に大きい反響を呼びました。事件解決交渉では、日中双方による現地調査も行われましたが、最終決着を見ないまま、日中戦争の勃発に至りました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(23文書)
中国において頻発した邦人遭難事件は、日中関係に多大な影響を与えた当該期における特徴的な事象でした。そこで「二 日中諸案件交渉」から分離・独立した項目として、3つの小項目からなる本項目を設定しました。
昭和11年8月と9月に相次いで発生した邦人遭難事件です。成都事件は、総領事館再開のため重慶に赴いた岩井書記生に同行した新聞記者2名が、他の邦人2名とともに岩井に先駆けて成都入りしたところ、8月24日、宿泊先で再開に反対する現地群衆の襲撃を受け、記者2名が死亡した事件です。北海事件は9月3日、広東省北海において邦商中野順三が経営する店舗に暴漢が侵入し、同人を殺害した事件です。日本は、川越・張群会談において両事件の善後処理を一括して交渉しました。同会談は12月3日に打ち切りとなりましたが、事件解決交渉はその後も続けられ、同年末、賠償や関係者の処分を取り決めた解決公文が交換されました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(47文書)
昭和10年11月に発生した本事件(上海共同租界で日本海軍の陸戦隊員中山秀雄が射殺された事件、事件発生に関する関係文書は昭和期II第一部第四巻に採録)は、昭和11年4月、日本側の捜査に基づき、上海工部局警察が犯人を逮捕しました。5月から開始された公判では、一旦犯行を自供した被告が自白を強要されたとして無罪を主張するなど混迷し、日本側は公正な判決が下るよう中国側に再三注意喚起を行いました。結局、第一審判決は同年10月に言い渡され、主犯格2名には死刑判決が下されました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(34文書)
「1」「2」の事件のほか、当該期には本邦人を狙ったテロ事件が続発しました。本項目では被害者が死亡し、重要な外交案件となった4事件、すなわち、汕頭での邦人巡査射殺事件(昭和11年1月21日発生、以下同)、上海での邦商射殺事件(同7月10日)、漢口での邦人巡査射殺事件(同9月19日)、上海での日本人水兵射殺事件(同9月23日)の関係文書を採録しています。(34文書)
当該期の華北地方における日中間の交渉案件は、両国関係において特段の重要性を有していました。そこで「二 日中諸案件交渉」から分離・独立した項目として、5つの小項目からなる本項目を設定しました。
華北に関する問題の中、「2」以下で採りあげた案件以外の様々な問題を集めた項目です。
昭和10年の分離工作によって華北地方には冀東防共自治政府と冀察政務委員会が生まれました。陸軍中央は昭和11年1月、「北支処理要綱」を作成し、宋哲元委員長を通じて冀察政務委員会による実質的自治を実現せしめ、自治体制が確立すれば冀東政権を合流させる方針を決定しました。また8月には華北経済開発を重視した「第二次北支処理要綱」を策定し、9月30日、支那駐屯軍の田代皖一郎司令官と宋委員長との間に「経済開発ニ関スル諒解事項」が署名調印されました。一方、外務省では須磨弥吉郎南京総領事の献策に基づき、新たな華北自治機構として「北支五省特政会」の設置が検討されました。この特政会構想は川越・張群会談で提議されましたが、中国側は特殊行政機構の創設は承認できないとして拒絶しました。
本項目ではこのほか、昭和11年5月の支那駐屯軍増強問題、同年10月に合意の交換公文が調印された華北自由飛行問題、冀東政権解消に関する冀察政務委員会の要望などに関する文書を採録しています。(87文書)
華北分離工作の進展に伴い、関東軍の内蒙に対する工作も急速に進展しました。工作の中心人物と目された徳王が、昭和11年5月に内蒙軍政府を設立して、親日満の旗幟を鮮明にすると、国民政府中央も危機感を強め、綏遠省に中央軍を動員して防備を固めるなど軍事衝突は必至の情勢となりました。同年11月上旬、内蒙軍は、田中隆吉特務機関長の計画に基づいて綏遠省攻略の軍事行動を開始しました。しかし、中央軍との本格的な戦闘が始まると内蒙軍は壊滅敗走し、同月23日には軍政府の拠点である百霊廟が陥落しました。さらに同地奪還を試みた内蒙軍は、内部離反を起こして惨憺たる敗北を喫する結果となりました。この綏遠事件をめぐっては、中国国内に全国規模の綏遠援助運動が発生し、抗日気運の高揚を懸念した日本側は21日、日本は事件に関与していない旨を外務当局談話として発表しました。しかし、事件の及ぼした影響は大きく、川越・張群会談は打切りのやむなきに至りました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(60文書)
昭和10年末に成立した冀東政権は、関東軍の支持を背景に、昭和11年2月、砂糖や人絹等に対して正規関税の約4分の1に相当する特別税を徴収する制度を導入しました。また、冀察政務委員会も冀東政権の半額の特別税徴収制度を導入するなど華北における密輸が一段と活発化したことにより、関税収入が激減した国民政府は密輸取締を強化し、英国も、海関制度が崩壊の危機にあるとして日本側に是正措置を求めました。4月以降になると、中国税関監視船の武装復活が塘沽停戦協定違反であるか否かとの解釈問題をめぐって日中間で対立し、同監視船による日本側船舶への不法行為も頻発しました。これに対して有田八郎外相は、同年6月の華北密輸問題に関する外務省と軍側との合意を踏まえ、密輸行為と監視船の不法行為とを区別して対処する方針を川越大使に訓令しました。他方、7月以降になると、国民政府による厳重な取締が功を奏し、密輸品価格の低下とあいまって、華北における密輸は低調となりました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(72文書)
冀察政務委員会は、国民政府中央との申し合わせで、関税剰余から補助金月額百万元を交付されることになっていましたが、実際には履行されず、経費に充当すべき財政収入に苦慮していました。支那駐屯軍の中には同委員会管轄区域内の税関を実力接収すべしとの強硬論もありましたが、昭和11年6月、日本側関係機関における協議の結果、河北省関税収入の収得を冀察政務委員会と国民政府中央との話し合いによって実現する方針を決定しました。ただし同収得の実現を冀東特殊貿易廃止の条件とすることとしました。
一方、冀察政務委員会の蕭振瀛らは支那駐屯軍の了解の下に華北自主幣制を画策し、北平・天津より上海への移送を禁じていた現銀を主たる準備金とし、河北省銀行を発券銀行とする華北幣制統一計画を推進しました。蕭の失脚後も、河北省銀行による発券は進められ、巨額の紙幣が乱発されるに至りました。
本項目ではこれら関係文書を採録しています。(15文書)
滄石鉄道(滄州・石家荘間)計画は、満鉄子会社が持つ敷設優先権の効力をめぐって、従来から日中間の懸案となっていましたが、経済的見地から終端地を天津にすべきとの満鉄主張に支那駐屯軍が賛同したため、昭和11年9月、日本側は冀察政務委員会に建設資金を借款供与し、同委員会に津石鉄道を建設させることを決定しました。しかし国民政府中央は、鉄道建設権は中央にあるとして、冀察政務委員会による建設を承認せず、地方的解決を非難する中国世論の硬化もあり、事態は膠着状態に陥ることとなりました。
また、日本側は膠済鉄道の経営に対する発言権を保持する観点から、同鉄道国庫証券に関する中国側債務が完済されないような事態をめざしていました。昭和12年末の償還期限を前に、張公権鉄道部長との間に償還期限延長および続借契約に関する交渉を非公式に進めていましたが、昭和12年6月22日、中国外交部は突如公文をもって、1,000万円を償還し、残額3,000万円は新借款に改め、これにより国庫証券は全額完済とする方針を一方的に通告しました。
本項目ではこれら関係文書を採録しています。(69文書)
当該期に発生した両広事件、西安事件および国共合作問題は、「抗日」ないしは「容共」をキーワードとして、当該期日中間諸懸案交渉の背景をなした重要事項であることから、「中国政情」という項目を設定しました。本項目は3つの小項目に分かれています。
陳済棠を中心とする西南勢力は、胡漢民の死去を契機として、昭和11年6月初旬、国民政府中央に対して抗日決起を促すとともに、抗日救国軍と称して北上を図りました。これ対して国民政府中央は、静観の構えを見せる一方、西南側が統制に服さない場合には断乎武力解決する意向を示しました。他方、日本側は、西南勢力の「抗日」スローガンは反蒋介石勢力結集のための擬装であると観測していましたが、抗日運動が盛り上がりを見せる状況を憂慮し、再三にわたって西南側に対して厳重抗議を行いました。事件は7月18日に陳済棠が香港に亡命したことによりひとまず収束しましたが、李宗仁・白崇禧ら広西勢力が再び国民政府中央に対して対立的態度を見せたことにより、両軍対峙の状況が続き、同年9月、両者に妥協が成立しました。本項目ではこの関係文書を採録しています。(37文書)
昭和11年12月12日、張学良は剿共戦を督軍するため西安へ赴いた蒋介石を監禁し、抗日の即時実行、連ソ容共、政府の改組など全8項目を国民政府に対して要求しました。事件発生の報に接した日本側は、蒋介石の安否確認などの情報収集に努めるとともに、居留民保護、権益擁護および容共態度に対しては黙過し得ないとの日本政府の立場を明確にするよう川越大使に訓令しました。国民政府は張学良討伐の方針を決定し、軍を西安方面に集結させる一方、宋子文らは西安に乗り込んで張学良と直接妥協工作を行いました。蒋介石は同月25日に解放され、蒋とともに南京に赴いた張学良は、同年末軍法会議において処分されました(特赦の後軟禁)。
蒋介石の帰還後、日本側は、蒋が張学良の要求を容認したか否かについての情報収集に努めました。また、西安に残った楊虎城らは反中央的態度を示し、国民政府中央との間で妥協交渉が行われましたが、昭和12年2月初旬の中央軍の西安入城によって中央服従を表明しました。
本項目ではこれらの関係文書を採録しています。(50文書)
西安事件における蒋介石の妥協に関して決定的な情報は得られなかったものの、西安方面の赤化状況に関する情報が増加し、日本側は事件後の中国共産党の動向について注意深く見守りました。中国共産党は、昭和12年2月に開催された三中全会に対して国民党に対する妥協を示す通電を発するとともに、同通電を踏まえた「赤化根絶決議」に対しても承諾する旨を表明しました。
三中全会終了後、国民党と中国共産党との間で妥協点を探りあう交渉が行われ、その進捗状況は日本側も掴んでいました。3月初旬には、中国共産党軍の処理問題など双方の妥協による歩み寄りが進み、妥協が成立したとの情報がもたらされましたが、その後も両者の溝を完全に埋めるには至らないまま、同年7月、盧溝橋事件を迎えることとなりました。
本項目では、これら西安事件を契機とする国共合作をめぐる問題の関係文書を採録しています。(23文書)
昭和11年11月、中国国民政府によって断行された幣制改革に対し、日本側は当初、改革は成功しないと予測し、改革に反対の立場をとっていました。しかし、改革から数か月を経ると、リース・ロスや列国の外交官などは、新幣制は当面維持できるとの見通しを示し、日本側においても当初の認識は次第に改められるようになりました。
国民政府が国有化した銀を海外市場で外貨に換え、為替安定資金を確保できるかどうは改革成否のポイントの一つでしたが、昭和11年2月、米国財務省は中国から5,000万オンスの銀を購入し、その代金をニューヨークの銀行にイヤーマークしたことを公表しました。さらに同年5月中旬には、渡米した陳光甫財政部顧問とモーゲンソー財務長官との間に銀購入に関する協定が成立しました。本項目では、これらの関係文書を採録しています。(58文書)
日本は当該期、欧米列国による中国建設事業への借款等の資金提供が、結果的に中国の国内統一を妨げ、東アジアの平和維持に影響を及ぼすおそれがあるとの見解に基づき、各国の活動を注視しました。本項目はこのような中国をめぐる列国との関係に関する文書を採録し、4つの小項目で構成されています。
当該期における英国側活動は、リース・ロスが帰国した後に活発となりました(リース・ロス訪日問題については項目「七」の「付」参照)。昭和11年10月には、対中クレジット設定に関する調査を目的として、英国輸出信用保証局代表カーク・パトリックの中国派遣が決定されました。またこの決定と前後して、英中間で鉄道建設・鉄鋼廠開設・海南島開発が議論されているとの情報が日本側の耳目をひきつけました。さらに昭和12年5月、英国を訪問した孔祥熙財政部長は、鉄道建設借款および法幣安定のための借款について英国側と交渉を行い、7月末に鉄道建設借款が成立しました。
一方、日本側では、日中関係打開のためには中国をめぐる国際関係の改善が必要であるとの佐藤尚武外相の方針にも基づき、吉田茂駐英大使が英国政府との間に、中国における提携問題を中心に日英協調の具体的協議を開始しましたが、日中戦争の勃発により具体的成果を得ることはできませんでした。本項目ではこれらの関係文書を採録しています。(72文書)
昭和11年6月、中独間にクレジット協定が成立したとの情報が流れました。その内容は、独国側から武器や工業製品を供給し、中国側は数年後に代金を中国産品(タングステンや農産物)で支払うというバーター貿易によるクレジットで、額は1億マルクに及んでいました。日本側は、本協定が日独関係に与える悪影響について懸念し、協定内容の詳細開示などをドイツ側に求めました。
本項目では、この中独バーター貿易協定問題のほか、日中防共協定締結交渉の斡旋に関する独国側申し出や、孔祥熙財政部長が欧州訪問した際に独国要人と行った会談の状況などに関する文書を採録しています。(25文書)
昭和11年3月12日、ソ連と外蒙古人民共和国との間に相互援助議定書が結ばれました。これは関東軍が満蒙国境での軍事紛争などにソ連が関与しているとして同国への非難を強めていた矢先の出来事でした。また日本側は、ソ連の新疆地方への影響力が増大し、綏遠方面へも赤化工作を進めていることにも注目しました。このようなソ連側の動向に対し日本側は、広田三原則交渉や川越・張群会談などにおいて、中国側に共同防共提携を要望しましたが、ソ連側は、同国を対象とする軍事協定には絶対反対する旨を日本側に伝えました。一方、国共合作が進められていた昭和12年3月には、中ソ間に何らかの了解が成立したとの情報が流れ、翌4月には重光葵駐ソ大使が、ソ連の対中工作は成果を挙げつつあり、日本は楽観すべきではないとの情報を外務本省に報告しました。
本項目ではこれらの関係文書を採録しています。(37文書)
本項目では、「1」~「3」以外の諸国との中国をめぐる関係に関する文書を採録しています。米国との関係では(米中銀協定については項目「六」において採録)、棉麦借款の減額借り換えの実現(昭和11年6月)や、機関車購入代金に関する160万ドルのクレジット成立(昭和12年6月)に関する文書を採録しています。また仏国との関係では、西南時局の解決を受けて、昭和11年7月から広東・ハノイ間の定期航空連絡が実現した問題や、仏国資本による成渝(成都・重慶間)鉄道建設借款が成立した問題などに関する文書を採録しています。(30文書)
リース・ロスは昭和10年9月に来日した際、中国での調査終了後に再来日すると約束していましたが、日本側の冷淡な態度にも鑑み、来日せず帰国する旨を日本側にほのめかしていました。有吉明大使は同人の帰国後の影響力に鑑み、再来日の実現は有意義であるとの意見具申を行い、外務本省もこれに賛同して、同人に来日を勧め、昭和11年6月に来日が実現しました。
来日したリース・ロスは、有田八郎外相をはじめ、堀内謙介外務次官、磯谷廉介軍務局長らと会談しました。会談中リース・ロスは、中国の関税制度保全の重要性を指摘し、華北密輸の防止措置を行うよう力説しました。リース・ロスは6月下旬、上海を経由して帰国しましたが、帰国に際して、日中間での政治的了解の必要性を訴えたステートメントを発表しました。このステートメントは、日本滞在中に日本側と協議の結果、作成されたものでした。
本項目ではこの関係文書を採録しています。(30文書)
日本と満州国との間の交渉案件や、満州国をめぐる列国と日本との関係を示す文書を集めた項目です。本項目は2つの小項目に分かれています。
本項目では、文書の残存状況などにより小項目立てできない問題に関係する文書を採録しています。主に、満州国における治外法権の撤廃に関連して日本と満州国との間で締結された条約に関する文書のほか、昭和11年6月に日本が発動した対豪通商擁護法に対する満州国の協力をめぐる問題、昭和12年1月の為替管理強化のための大蔵省令の満州国適用問題などに関する文書を採録しています。(21文書)
当該期において、列国の満州国における経済活動は概して低調だったものの、独国との間においては、満州大豆と独国工業製品のバーター貿易をめぐる満独交渉が行われました。この交渉の成り行きに関しては日本側も注視しており、独国側が「日独の政治的関係」に鑑みて交渉妥結の方向に傾いたことから、同年4月30日、満独貿易協定が締結されました。本項目ではこの満独交渉に関する文書のほか、英国の満州国への経済進出の関心を示す文書、仏国のモパン社が昭和10年に設立した合弁会社「極東企業公司」が昭和11年6月に解散した経緯に関する文書などを採録しています。(22文書)