外務本省

『日本外交文書』
昭和期II第一部第四巻(上・下)

 本巻は、昭和10年の対中国関係外務省記録を編年方式により編纂し、上下2冊に分けて刊行したものです。『日本外交文書』は、本2冊を加えて明治期以来通算197冊となりました。(A5判、本文958頁、日付索引80頁、総ページ数1038頁、採録文書総数797文書)

本巻の概要

一 日中外交関係一般(いわゆる三原則交渉を含む)

  付 在中国公使館の昇格

二 日中諸案件交渉

  1. 一般問題
  2. 日中航空連絡問題
  3. 中国関税問題
  4. 中国排日問題
  5. 上海における日本人水兵射殺事件
  6. 『新生』不敬記事事件

三 華北問題

  1. 一般問題
  2. 華北における日本軍の諸要求事件
    (「梅津・何応欽協定」および「土肥原・秦徳純協定」問題を含む)
  3. 華北分離工作
  4. 塘沽停戦協定善後交渉
  5. 華北における日本の権益発展策

(以上 上冊)

四 中国幣制改革

  1. 通貨危機に対する中国政府の対応
  2. 英国による対中国財政共同援助提議
  3. 銀国有化と幣制改革の実施

五 中国をめぐる列国との関係

六 満州国をめぐる諸問題

  1. 一般問題
  2. 満州国における邦人への課税問題
  3. 満州国幣制改革に対する日本の協力
  4. 列国の対満経済発展活動

七 雑件

  1. 華南方面における諸問題
  2. 日本軍艦の厦門税関監視船専条号臨検事件

日付索引

(以上 下冊)


一 日中外交関係一般(いわゆる三原則交渉を含む)

 昭和10年は、日中両国が満州事変以来冷却化した国交を改善するため、様々な努力を試みました。本項目ではこの国交改善交渉を中心に、日本の対中国政策における基調や、日中関係の基本的な展開を示す文書を採録しています。
 具体的には、日本との善隣友好関係を説いた蒋介石声明(2月1日)が発出されるまでの日中交渉、訪日した王寵恵特使と広田弘毅外相との会談(2月26日)、中国側による日中親善のための三原則提案(9月)、これに対する日本側の三原則提案と日中交渉(いわゆる三原則交渉、11月~)、蒋介石新内閣の対日方針などに関する文書が採録されています。(77文書)

付 在中国公使館の昇格

 昭和10年の日中国交改善交渉の中で、特筆すべき出来事が日中双方による公使館の大使館昇格です。本項目ではこの経緯に関する文書を採録しています。
 昇格提議は5月7日、日本側から行われ、中国側の賛同を得て、5月17日、両国は大使交換の実施を発表しました。日本側は現任の有吉明公使が大使に昇格し、6月14日に国書を捧呈しました。また日本は中国への昇格提議の直後、英、米、仏、独の関係各国に対して在中国公使館の昇格を勧説し、その結果、各国も続々と昇格しました。(19文書)

二 日中諸案件交渉

 日中二国間で交渉された様々な案件に関する文書を集めた項目です。6つの小項目に分かれています。

1 一般問題

 日中二国間交渉案件の中、「2」以下で採りあげた案件以外の様々な問題を集めた項目です。
 日中無線電話連絡協定交渉(10月調印)、外国人水先案内人の排斥を意図した中国側の国内法実施に対するわが国の交渉ぶり、中国政府の公債募集に対し日本側債権の保全や利払い督促を申し入れた問題、朝日新聞社飛行機の南京親善訪問、中国経済視察団の訪日、中日貿易協会の設立などに関する文書を採録しています。(42文書)

2 日中航空連絡問題

 当時、列国間では中国への航空路線開設競争が激化し、日本も中国に対して、諸外国に先駆けて福岡・上海間に路線を開設するよう求めていました。しかし中国側は、外国機の訪中を認めず、中国機のみで国際連絡を行う方針であり、日本側は相互連絡を主張して交渉が続けられました。
 10月中旬には福岡・上海間の航空連絡協定案がほぼ合意に達しましたが、中国側は日本軍が満州国と華北地方の間で軍用機の航空連絡を強行実施したことに強い不満があり、その中止を調印の条件としたため、結局、協定は調印に至りませんでした。本項目ではこの関連文書を採録しています。(18文書)

3 中国関税問題

 昭和10年、中国政府は輸出増進を目的とした輸出税の減免とともに、その税収減少の補填として、輸入税率の引き上げを決定しました。中国では前年にも大幅な関税率改訂を行っており、この改訂に不満のあった日本側では、さらなる輸入税率引き上げに強く反対しました。
 その後、中国側は輸入税率そのものの引き上げを諦め、輸入税付加税の徴収に変更しましたが、これも関係国の反対に遭い、年内の実施は延期となりました。本項目ではこの関連文書を採録しています。(14文書)

4 中国排日問題

 年初からの日中国交改善交渉において、日本側は中国側の排日運動停止を強く求め、中国政府は3月に排日禁止令を公布してこれに応えました。中国政府は同令励行を広く関係方面に求め、その結果、対日空気は著しく改善されました。4月15日、汪兆銘行政院長と会見した有吉公使は、中国政府の努力を多とする旨を伝えています。
 しかし6月に入ると、華北における日本軍の対中要求を契機に、中国側の対日感情は悪化傾向が顕著となりました。9月には漢口で警備当局兵舎内での排日ポスター掲示が明るみとなり、日本側は邦交敦睦令適用の試金石として、警備責任者の罷免を要求しました。本項目ではこれら関連文書を採録しています。(31文書)

5 上海における日本人水兵射殺事件

 11月9日、上海共同租界で日本海軍の陸戦隊員が何者かに射殺される事件が発生しました。日本側は直ちに中国側に犯人捜査を申し入れましたが、容易に逮捕には至りませんでした(翌年4月、中国人3名を犯人として逮捕)。その間、上海の邦人経営商店が中国人暴徒により襲撃される事件も発生し、日本側では一連の事件を重視し、排日言動の徹底的取締を中国政府に要求しました。本項目ではこの関連文書を採録しています。(17文書)

6 『新生』不敬記事事件

 上海の雑誌『新生』に掲載された、昭和天皇に関する記事が不敬に当たるとして日本側が抗議し、雑誌の廃刊と社長・執筆者の処罰などを求めた事件です。交渉中に雑誌『新生』が中国国民党の検閲を経ていたことが判明したため、日本側は検閲責任者の処罰や、同様事件の再発防止に関する国民党の措置も要求しました。その際、日本軍部は、国民党中央が各地方党部に対して一切の排日活動停止を命令することを要望し、これも要求事項に追加されました。中国側はすべての要求に応じ、事件は解決しました。本項目ではこの関連文書を採録しています。(11文書)

三 華北問題

 当該期の華北地方における日中間の交渉案件は、両国関係において特段の重要性を有していました。そこで「二 日中諸案件交渉」から分離・独立した項目として、5つの小項目からなる「三 華北問題」を設定しました。

1 一般問題

 華北に関する問題の中、「2」以下で採りあげた案件以外の様々な問題を集めた項目です。
 当該期、関東州ないしは満州国から華北地方への密輸は巨額に上り、列国も注目する問題でした。北平に駐在する外交団は、中国政府に対し密輸横行に有効な措置を講じるよう共同通牒の発出を検討しましたが、日本側の主張により各国各別の対応をとることになりました。また、多田駿支那駐屯軍司令官による華北五省(河北・山東・山西・察哈爾・綏遠)の連合自治構想を述べた新聞談話(9月24日)は、華北地方の有力将領に離反の空気を醸成し、中国政府首脳に強い衝撃を与えました。
 本項目ではこれらの問題を中心に、豊台で発生した中国軍人によるクーデター事件への邦人の関与や、山東苦力の満州国入国管理を目的とする大東公司の活動に関する文書などを採録しています。また、河北省政府の改組問題、黄郛駐平政務整理委員会委員長の去就、同委員会の解散など、日本側政策の背景となる中国側政情に関する文書も併せて採録しています。(45文書)

2 華北における日本軍の諸要求事件
  (「梅津・何応欽協定」および「土肥原・秦徳純協定」問題を含む)

 昭和10年には、華北地方で発生した事件をとらえて、現地の日本軍人がしばしば中国側に要求を行いました。
 その代表例が一般に「梅津・何応欽協定」と呼ばれる要求事項に関する交渉です。支那駐屯軍の酒井隆参謀長らは、長城付近で満州国の治安を乱す孫永勤軍の活動や、天津での親日派新聞経営者暗殺事件をとりあげ、これは塘沽停戦協定の破壊に当たると抗議し、蒋介石政権による抗日政策の放棄、中国中央軍および国民党部等の華北撤退、于学忠河北省主席らの罷免を要求しました。最終的に日本側は交渉相手である何応欽北平軍事分会委員長から、要求事項をすべて承諾した旨の書簡を取り付けました。
 本項目ではこの経緯を中心に、このほか、察哈爾省からの憲兵隊や国民党部の撤退、排日行為の禁止を要求した交渉(この結果成立した合意が「土肥原・秦徳純協定」と呼ばれる)や、唐山日本守備隊長らが狙撃された事件(らん州事件)の責任を追及し、華北軍事委員会の撤退を要求した交渉を併せ、関係文書を採録しています。(59文書)

3 華北分離工作

 華北諸省を中国国民政府から分離・自立させようという日本軍部の工作は、11月に中国幣制改革が断行されると、俄然現実味を帯びました。軍部の決意が固いと判断した外務省は、有吉大使を南京に派遣し、華北の現状に即応するよう蒋介石に求め、蒋は近く華北に日本側と交渉する大官を派遣して事態調整を図ると回答しました。
 一方、現地日本軍が華北自治の中心人物と嘱目した宋哲元は態度を鮮明にしなかったため、現地軍はまず塘沽停戦協定区域内での自治実行を決め、11月25日、通州で冀東防共自治委員会が発足されました。国民政府は同委員会を認めず、翌26日、首謀者の逮捕令を発するとともに、何応欽駐平弁事処長官の華北派遣を決定しました。何応欽は12月3日、北平に到着しましたが、日本側は彼との面会を一切拒絶しました。
 ここに至り、中国側も華北情勢に適合した政治組織を作るほかないという結論に達し、12月11日、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会を発足させました。その後、宋哲元に付与する自治権限をめぐる日中交渉は平行線をたどりました。本項目ではこの経緯に関する文書を採録しています。(75文書)

4 塘沽停戦協定善後交渉

 塘沽停戦協定締結時に積み残しとなった中国・満州国間の交通・交易問題については、その後、実務者による協議で解決が図られました。昭和10年は前年に妥結した郵便連絡の実施過程において発生した問題への対処や、華北地方への航空連絡に関する交渉が中心となりました。華北航空連絡は交渉停滞の中、業を煮やした関東軍が4月下旬、停戦協定区域内の視察という名目で、軍用機による航空連絡を強行しました。
 また、日本側は塘沽停戦協定の協定区域内非武装という条項を援用し、協定区域の線を海上に延長して区域内の沿岸3海里も非武装地帯であると主張し、税関密輸取締船の進入を一切禁止しました。この措置は華北における密輸横行を助長する結果を生み、中国側は日本側措置の不当を抗議しました。本項目ではこれら関連文書を採録しています。(31文書)

5 華北における日本の権益発展策

 外務省は華北におけるわが国経済権益の確保・発展を重要視していました。その中でも中国側との交渉の試金石として位置づけていたのが、滄石鉄道(滄州・石家荘間)計画の実現でした。
 同鉄道については日本が主張する優先的敷設契約をめぐって日中間で見解に齟齬が生じ、契約が宙に浮いていました。昭和10年は終端港の積み出し能力に疑問を持つ満鉄が、終端地の変更を主張したのに対し、外務省が本件はまず中国側に同鉄道敷設契約を容認させることが第一義であるとして、外交交渉に満鉄が容喙しないよう松岡洋右総裁に説明を行うなどの動きがありました。
 このほか、膠済鉄道に関する中国側債務の償還問題や、秦皇島北方にある鉱山の鉱区をめぐる日中民間企業の紛争に関東軍特務機関が介入して、実力による鉱区差し押さえを行った問題なども併せ、関連文書を採録しています。(42文書)

四 中国幣制改革

 昭和10年11月に実施された中国幣制改革は、日中間の重要交渉案件であると同時に、中国をめぐるわが国と列国との関係においても重要な問題でした。そこで「二 日中諸案件交渉」と「五 中国をめぐる列国との関係」の双方からから分離・独立した項目として、3つの小項目からなる「四 中国幣制改革」を設定しました。

1 通貨危機に対する中国政府の対応

 世界的な銀価高騰のため、銀本位制の中国は通貨および財政の危機に直面しました。
 中国政府はまず英米両国に支援を要請しましたが、色よい返事を得られず、1月下旬には、孔祥熙財政部長が日本に対して借款を要請しました。中国側は通貨問題に苦しむ中国に日本が進んで援助することが日中関係改善に寄与すると説きましたが、日本側では外務・大蔵両省の打合会において、対中支援の可否を検討した結果、北満鉄道買収を含む満州国関連の支出が大きく、高額な対中借款やクレジット設定は不可能という結論を出しました。
 日本側が明確な回答を出さない中、中国側は中国・中央・交通の3銀行に増資して政府の統制を強化し、宋子文前財政部長が中国銀行董事長に就任しました。宋は4月中旬、中国で営業する外国銀行の代表を招致し、最近の金融不安に鑑み、当分の間、銀の国外積み出しを差し控えてほしいと要請しました。外国銀行側は討議の結果、この要請を受け入れました。これら一連の動きは幣制改革実施への布石でした。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(33文書)

2 英国による対中国財政共同援助提議

 英国は2月下旬、日米仏3国に対し、中国財政危機への対策を共同で検討すべきと提議しました。日本側は英国側の底意を疑って積極的な賛同を示さず、中国政府に対しては、万事、日中間の意思疎通を前提に行動するよう申し入れました。このため中国は原則的には賛同しつつも、英国提議の具体化には煮え切らない態度を示しました。そこで英国は3月下旬、関係国に対し、学識経験豊富な専門家を中国に派遣し、救済方法の調査・勧告をしたいと提議し、6月にリース・ロスの中国派遣を決定しました。
 リース・ロスは訪中の途次、9月上旬に訪日し、広田外相、重光外務次官らと会談しました。リース・ロスは重光次官との会談で、中国に有力な中央銀行を興して通貨発行権を独占し、ロンドンに外国の援助資金でリザーブを設定し、通貨はポンドにリンクして銀本位より離脱する、他方、中国は満州国を承認し、満州国は中国の負債中の適当な割合を支払うという案を示しましたが、重光は満州国が中国の負債支払いをどのように考えるかは、日本としてあらかじめ約束できる性質ではないと、この提案を一蹴しました。本項目では、2月の英国提議からリース・ロス訪日までの経緯に関連した文書を採録しています。(53文書)

3 銀国有化と幣制改革の実施

 9月下旬に訪中したリース・ロスは、調査・研究を重ねた結果、10月28日、有吉大使に1千万ポンド対中借款計画を示して日本側の参加を要請しました。一方、11月2日には孔祥熙財政部長の使者が有吉大使を訪問し、中国・中央・交通の3銀行が通貨発行権を独占し、現銀との兌換を停止し、外国銀行保有の現銀は3銀行の紙幣をもって買い上げる幣制改革案を内報し、日本側の同意と協力を求めました。有吉は即座に賛成しがたいと答えましたが、中国側は4日これを実施しました。
 同日、有吉は孔と会談し、新制度の抜き打ち実施を強く抗議しましたが、孔はやむを得ない緊急の措置であったと答え、日本側の協力を要望しました。日本側にはリース・ロスの借款計画を裏打ちとして幣制改革が実施されたとの疑念がありましたが、中国側もリース・ロスも関連性を否定したため、日本はこの両者を別問題として取り扱い、リース・ロス借款計画には従来同様、外国借款には反対という態度で臨み、幣制改革については当面成り行きを静観することとしました。本項目では外国銀行の保有銀引き渡し問題も併せ、リース・ロス訪中後の経緯に関連した文書を採録しています。(99文書)

五 中国をめぐる列国との関係

 当該期、わが国は欧米列国の中国建設事業に対する経済活動が結果的に中国の国内統一を妨げ、アジアの平和維持に影響を及ぼす虞れがあるとの見解に基づき、各国の活動を注視しました。
 昭和10年の主な問題としては、中国への外資導入の窓口会社として設立された中国建設銀公司の活動状況、米国企業家が漢冶萍公司での製鉄業に関し日米共同事業とする可能性を照会した問題、広東省に対する英米企業の投資計画などがあります。また中国が招請した英国人鉄道専門家ハモンドによる中国鉄道事業に関する実地調査や、国際連盟の連絡員ハースが対中国技術的援助のために行った現地調査にも日本側は警戒感をもって動向を注目しました。本項目ではこれら関連文書を採録しています。(41文書)

六 満州国をめぐる諸問題

 日本と満州国との間の交渉案件や、満州国をめぐる列国と日本の関係を示す文書を集めた項目です。4つの小項目から構成されています。

1 一般問題

 「2」以下で採りあげた案件以外の様々な問題を集めた項目です。
 具体的には満州国における治外法権の撤廃と南満州鉄道付属地行政権の移譲に関する日本政府の閣議決定、日満経済共同委員会の設置に関する協定、満州国皇帝の訪日関係、満州国銀行法の在満本邦銀行への適用問題、満州国石油専売制実施に伴う英米企業の保有石油処分問題などの関連文書を採録しています。(18文書)

2 満州国における邦人への課税問題

 日本側では満州国成立以後、日満間の密接なる関係に鑑み、満州国の税収確保に協力する観点から、著しく不利益と認められる税目以外は、できる限り課税を黙認すべきとの方針でした。
 昭和10年は改正された営業税の邦人への適用を原則的に黙認する方針案が作成されるなど、近く予定される治外法権の撤廃を視野においた対応が採られました。また南満州鉄道付属地の内外に格差を設けないようにとの各地居留民会の要望にも配慮し、付属地課税問題に関して、大使館、関東軍、関東局が協議を行い、治外法権撤廃までの中間的措置案が作成されました。本項目ではこれら関連文書を採録しています。(11文書)

3 満州国幣制改革に対する日本の協力

 銀本位制を採用する満州国は、中国同様に世界的な銀価高騰による通貨危機に直面し、4月、同国の通貨である国幣を銀から正式に離脱させるとともに、日本円に等価リンクする政策を採用しました。その結果、9月には完全に等価関係を確立しましたが、日本はこの満州国の政策を支援するため、11月4日、満州国国幣価値安定ならびに幣制統一に関する閣議決定を行い、満州国に流通している日本側銀行券の発行を停止し、本邦官民ができる限り国幣を使用することとしました。またそれとともに満州国為替管理にも協力することを対満事務局事務官会議で方針決定しました。本項目ではこれら関連文書を採録しています。(9文書)

4 列国の対満経済発展活動

 満州国成立以後、欧米列国では多くの実業家が満州国建設事業などへの資本導入を望み、実情照会や現地調査を行いました。
 昭和10年は独国の経済使節団が訪満し、満州大豆と独国工業製品とのバーター貿易に関する交渉が行われました。しかしベルギーやイタリアなど、視察員派遣を計画したものの、実現には至らない例もありました。その背景には、在満州国南次郎大使が、対満経済競争へ日本以外の国が参入する余地は極めて少なく、特に政治的理由がない場合はほぼ不可能であるとの見解を示すなど、日本側が第三国の参入に必ずしも全面的歓迎を示さない事情もありました。本項目ではこれら関連文書を採録しています。(27文書)

七 雑件

 雑件は他の項目にくくることのできない特殊な問題や、中国の特定地域に関する問題などを採録する項目です。本巻では2つの小項目を設定しました。

1 華南方面における諸問題

 当該期、広東・広西両勢力(両広勢力)は中央政府と一定の距離を保つ独立色の強い地方勢力でしたが、中央の国内統一政策が進む中で、独立性の維持は次第に困難となっていました。
 広東在勤の河相達夫総領事は、両広勢力の中央政府との関係や両広勢力の対日態度についてしばしば報告を行いました。特に邦商が搬入した米穀を公安局が抑留する事件の解決交渉を通じて、河相は広東派が親日的な政策に転じる可能性は低いとの観測を本省に送りました。本項目では両広勢力の動向観測を中心に関係文書を採録しています。(18文書)

2 日本軍艦の厦門税関監視船専条号臨検事件

 福建省では台湾からの密輸が盛んなため、中国税関は監視船による取締を前年から強化し、日本籍船舶に対する臨検・抑留事件が多発しました。日本側では公海ないし日本領海内での臨検は不当であると警告し、特に台湾当局は税関監視船の活動を快く思っていませんでした。そこに発生したのが本事件です。
 5月下旬、日本の駆逐艦はジャンクを曳航した税関監視船専条号を厦門近海で発見し、日本籍船舶への不当臨検の嫌疑が濃厚であると見て、専条号を停船させ、臨検・訊問しました。しかし曳航船舶が中国籍であると判明、遺憾の意を表して専条号を釈放しました。その後、厦門税関長は日本側駆逐艦の行動を不当として抗議し、日本側はむしろ前年来の税関監視船の活動こそが不法行為であると反駁し、議論の応酬が続けられました。本項目ではこの関連文書を採録しています。(17文書)

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