外務本省

外務省外交史料館 特別展示「外交史料に見る日本万国博覧会への道」

万博条約と昭和の万博計画(2)

概説と主な展示史料


(写真)【展示史料14】「ニューヨーク・ワールド・テレグラム」の1939年ニューヨーク万博特集号
【展示史料14】
「ニューヨーク・ワールド・テレグラム」の
1939年ニューヨーク万博特集号

2. 1940年「日本万国博覧会」計画

 明治期の「日本大博覧会」計画以降、日本ではしばらく万博開催が本格的に検討されませんでした。しかし、1929年(昭和4年)民間から開催の建議があり、東京府及び神奈川県知事、東京・横浜市長、商工会議所等の賛同を得て、1934年(昭和9年)設立の「日本万国博覧会協会」によって準備が進められました。企画過程での調整の結果、この万博は、「皇紀(紀元)二千六百年」奉祝行事として1940年(昭和15年)に開催することとなりました(「皇紀」とは、初代神武天皇の即位年とされる西暦紀元前660年を元年として数えたものです)。

 この計画では、国際博覧会条約との兼ね合いが問題となりました。同条約発効以来最初の万博であるブリュッセル万博(1935年)に引き続き、1937年(昭和12年)にはパリでの万博開催が決定しており、次回もすでに米国が1939年(昭和14年)ニューヨークでの開催を博覧会事務局に申請していました。条約上、万国博覧会(テーマを限定しない「一般博覧会」)は先に開催された万博から2年を経過していないと開催できないことになっており、日本が予定する1940年の開催は困難でした(なお、1941年にはイタリアが開催の意欲を示していました)。日本が条約に加盟していなかったこともあって、日本側には博覧会国際事務局が日本の申請を認めないとの観測が立ちましたが、在仏大使館を通じた交渉の結果、同事務局からは、「東西文化の融合」をテーマとする「特殊博覧会」(テーマや規模が限定される代わりに年限規定が緩やか)として開催することが提案されました。

(写真)【展示史料15】1940年日本万国博覧会計画<br>「会場配置図」
【展示史料15】
1940年日本万国博覧会計画
「会場配置図」

 1938年3月、委任統治領などを含めた70カ国に招請状が発出されるとともに、在外公館を通じた誘致の働きかけが行われ、欧州、北米、中南米、アジア大洋州の各方面に、招請のための使節団が派遣されました。これに対し、ドイツ、イタリアなど当時の日本の友好国のほか、オーストラリア、ブラジルなど太平洋や中南米の国々が出品に前向きな姿勢を示していました。また、この計画の財源は大部分を入場券の前売り収入によって充てることとなっていたため、1938年(昭和13年)1月より富籤(宝くじ)付き入場券の販売が開始されました。

 しかし、1937年7月以来の日中戦争の長期化に伴い、1938年半ば頃から、時局に配慮しての万博中止論が高まり、同年7月15日、万博開催の「延期」が閣議決定されました。

 なお、万博と同じく「皇紀二千六百年」奉祝行事として同年に計画された東京オリンピック招致についても、時局の変化に伴って内外からの批判をうけ、返上を余儀なくされました。


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