外務省外交史料館 特別展示「外交史料に見る日本万国博覧会への道」
概説と主な展示史料
第二次世界大戦終了(1945年)後も、日本は海外で開催された博覧会に積極的に参加しました(1958年ブリュッセル、1962年シアトル、1964年ニューヨーク、1967年モントリオールなど)。この間、サンフランシスコ平和条約締結(1951年)や国連加盟(1956年)があり、国内の経済発展と相まって、日本での万博開催の条件が整っていきました。さらに、1964年(昭和39年)東京オリンピックの開催は、万博開催の気運を再度盛り上げることになりました。
1964年2月、国会において、かつて商工官僚として1940年万博計画を主導した議員により、万国博覧会開催が提案されました。これに呼応するように、大阪からは万博誘致の要望書が政府に提出されました。それらの動きを受け、政府も万博開催の検討を始め、同年8月には「1970年の万博開催を積極的に推進する」ことが閣議決定されました。
会場については、当初東京や千葉も候補となりましたが、1964年7月に「大阪を中心とする近畿地方」での開催を推進する委員会が発足するなど、近畿地方での誘致に向けた活動が本格化したため、候補地は早々に近畿に絞られました。その後調整の結果、会場は大阪の千里丘陵に決定しました(1965年4月)。
万博開催のためには、戦前から非加盟のままとなっていた、国際博覧会条約(1928年調印)を批准する必要がありました。万博開催の方針が固まったことで、1964年12月28日、条約は衆参両院の全会一致で批准され、翌1965年(昭和40年)2月8日、日本は条約加盟国となりました。
博覧会国際事務局(BIE)の規定では、開催5年前より正式の外交ルートによる申請ができたため、1965年4月22日、駐仏大使を通じて同事務局に申請書が提出され、翌月のBIE理事会において受理されました。
「日本万国博覧会」の招請状は、1966年(昭和41年)9月より133カ国、24国際機構に発出され、閣僚や万博協会役員、博覧会政府代表が諸外国を訪問して参加勧奨を行いました。その結果、日本以外に76カ国の参加を得ることができました。
「人類の進歩と調和」をテーマとする「日本万国博覧会」(大阪万博)は、1970年(昭和45年)3月14日から9月13日まで開催されました。入場者総数は過去最高の6,400万人以上を記録しました。なお、大阪万博では、戦前の1940年に計画され、無期限延期となっていた「日本万国博覧会」で前売りされた入場券を使用することもできました(実際に数千枚が使用されたといわれています)。
万博条約と昭和の万博計画(2) > 日本万国博覧会の実現