外務省外交史料館 特別展示「外交史料に見る日本万国博覧会への道」
概説と主な展示史料
19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの国が産業振興や貿易促進の手段として博覧会を開催したため、その開催数は年々増えました。しかし、国際的な博覧会の乱立によって主催国や参加者の負担が重くなったり、特定地域や個人の利益のために開催するケースが見られたりして、しばしば問題となったため、博覧会の開催数を制限する必要が説かれました。
このような要請は、1907年~1908年に欧州諸国の国内委員会代表者による会議となり、1912年(大正元年)ベルリンにおける国際会議で、政府レベルの検討が行われました。ベルリン会議の結果、「国際博覧会に関する条約」が採択され、欧州各国に日本を加えた15カ国が調印しました(10月26日)。この条約には、万博の性格を規定し、開催数を抑制するための様々な項目が盛り込まれましたが、1914年(大正3年)の第一次世界大戦勃発により、批准には至りませんでした。
第一次世界大戦後、1928年(昭和3年)になってパリで国際会議が開かれ、万博開催のルールにつき、戦後の状況変化をふまえた議論が行われました。この会議の結果、同年11月22日、「国際博覧会に関する条約」(「国際博覧会条約」または博覧会国際事務局 Bureau International des Expositions の頭文字から「BIE条約」ともいいます)が採択されました。日本を含む31ヵ国がこの条約に調印しましたが、日本は批准せず非加盟国となっていました。そのため、1940年(昭和15年)の開催に向けて東京万博が計画されたとき、手続上の困難に遭遇することとなりました(次の項目を参照)。
なお、平成22年現在も万博は、幾度かの改正を経たこの条約に基づいて開催されています。
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