外務本省

外務省外交史料館 特別展示「外交史料に見る日本万国博覧会への道」

博覧会の実施と明治の万博計画(1)

概説と主な展示史料


(写真)【展示史料6】岩倉具視特命全権大使とオーストリア・ハンガリー外務卿の会談録
【展示史料6】
岩倉具視特命全権大使と
オーストリア・ハンガリー外務卿の会談録

1.1873年ウィーン万博と内国勧業博覧会の開催

 明治維新後、1871年(明治4年)にはロンドンやサンフランシスコでの博覧会がありましたが、国情の安定を優先した政府は、民間に布告して出品者を募るにとどめ、政府としては参加しませんでした。

 明治政府として初めて正式に参加したのは、1873年(明治6年)のウィーン万博です。1871年3月(明治4年2月)に駐日オーストリア・ハンガリー代理公使の勧誘を受け、政府は1872年2月(明治5年1月)、博覧会参加を布告しました。佐賀藩がパリ万博に出品した際の事務官長であった佐野常民はこれを知り、万博参加についての上申書を政府に提出しました。そこにはウィーン万博参加の目的の一つとして「(日本での)博覧会ヲ催ス基礎ヲ可整事」が挙げられていました(『墺国博覧会参同記要』)。

 佐野は1872年12月(明治5年11月)に設置された博覧会事務局の副総裁に任命され(事務総裁は参議大隈重信)、後に駐オーストリア・ハンガリー弁理公使を兼任し、ウィーン万博開催にあわせて同国に赴任しました。

(写真)【展示史料7】パリ万博にアンティークの出品を求めるフランス大統領より明治天皇宛国書
【展示史料7】
パリ万博にアンティークの出品を求める
フランス大統領より明治天皇宛国書

 1873年6月には、欧州歴訪中の岩倉使節団一行がウィーン万博を視察しました。岩倉具視特命全権大使とオーストリア・ハンガリー外務卿との会談では、同外務卿から万博参加に対する謝意が述べられ、これを機会として両国貿易を発展させたいとの強い意向が伝えられました。

 初期の万博をリードしたのは英仏両国でした。万博開催の先駆けとなったイギリスでは、1851年、1862年、1871(~1874)年にロンドン万博が開催されましたが、フランス(パリ)でもこれと競い合うように万博が企画され、日本の幕末・明治期にあたる期間だけで5回(1855年、1867年、1878年、1889年、1900年)の万博が開催されました。日本は1867年以降の4回のパリ博全てに参加しました。

 1878年(明治11年)のパリ万博にあたっては、フランス大統領より古物(アンティーク)の出品を要請する国書が明治天皇に発出されました。なお、この1878年パリ万博では農業に関する国際会議を同時開催することが宣言され、またちょうど同時期パリで万国郵便連合会議が開かれていました。そして、以後の万博では、国際会議を共に開催することが恒例となりました。

 1873年ウィーン万博参加以降、日本は官民ともに外国で開催された多くの博覧会に参加しました。その数は明治時代だけで40近くに及びます。他方、国内でも、5回にわたる「内国勧業博覧会」をはじめ、殖産興業政策の一環として多くの博覧会が開かれました。

 内国博覧会開催は、万国博覧会開催への気運を盛り上げるステップにもなりました。例えば西郷従道農商務卿は1885年(明治18年)に、1890年(明治23年)を期した「亜細亜(アジア)大博覧会」開催を建議し、佐野常民も、1890年に予定された第三回内国勧業博覧会をアジア地域での博覧会とするよう提言しました。これらのアイデアは実現に至りませんでしたが、第三回内国勧業博覧会では外国人を積極的に招致する方針が立てられ、外国人賓客用の日本地図や「旅行免状」が作成されました。


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