研究ノート: スウェーデンの環境党・緑 ─ドイツ・緑の党との比較における政権参加の条件─
中嶋 瑞枝
坂田 慶子
研究ノート: 武力行使に関する国連の法的枠組みの有効性 ─対アフガニスタン軍事作戦とイラク戦争の場合─
折田 正樹
川崎 晴朗
武藤 弘次
山内 麻里
七海 由美子
松村 正義
研究ノート:
スウェーデンの環境党・緑
─ドイツ・緑の党との比較における政権参加の条件─(PDF)
中嶋 瑞枝
ドイツの緑の党は、1970年代の環境保護運動、オルターナティヴ運動、平和運動など多様な社会・市民運動から生まれ、1980年1月、全国政党として結成された。「エコロジー」「底辺民主主義」「社会的関心」「非暴力」の四大基本理念を掲げ、1983年に連邦議会への進出を果たした。その後、結党当初に比べ、現実的選択による変貌を遂げ、1998年、結党18年目にして社会民主党(SPD)との連立政権への参加を達成したが、2005年の連邦議会選挙後、両党で過半数を得られず、SPDとの連立は解消となった。
スウェーデンの環境党・緑は1980年に実施された原子力発電に関する国民投票が契機となり結成された。同党の成立は独・緑の党と比べ、1年後であったが、国会への進出は1988年と緑の党の5年後であり、1998年に社民党政権への閣外協力政党となったものの、政権参加は果たしていない。
本稿においては、党の成立、運動政党、社会民主党との関係、政治・選挙制度、労働組合との関係等の点を比較することにより、スウェーデン・環境党の政権参加の条件を考察する。
坂田 慶子
スウェーデン人がEUに対して懐疑的であることはEU加盟国民投票、EMU加盟国民投票、欧州議会選挙及び欧州憲法条約に対する世論調査から明らかである。ユーロ国民投票の投票行動から、大多数のスウェーデン人は現状の生活に満足しており変化を好まないこと、さらに、スウェーデン人にとって変化とは生活水準の低下を意味することがわかる。これがEUに対する否定的な態度となって現れている。
スウェーデン人は、欧州憲法条約によりEUが更に統合された共同体へと発展しつつあるという印象を強く持っており、これに対する不安を欧州議会選挙で示したと言える。
自国の現状に満足し、EUの更なる統合に否定的なスウェーデン人が拠り所と感じているのは「北欧協力」であろう。経済を初め様々な分野においてEUよりも多くを既に達成している北欧協力の存在が、スウェーデン人をEUに懐疑的にさせているのではないだろうか。
研究ノート:
武力行使に関する国連の法的枠組みの有効性
─対アフガニスタン軍事作戦とイラク戦争の場合─(PDF)
折田 正樹
9・11国際テロ以後のアフガニスタンへの軍事作戦とイラク戦争は、国際法上の観点また国連の機能の観点から、大きな議論を呼び、国連の機能の限界が認識された。また、米国では、自衛による先制攻撃論も主張された。「武力行使に関する国連の法的枠組み」は、現在の国際的安全保障情勢において国際テロの脅威のような「新たな脅威」とされる事態についても対応が出来るのであろうか。アフガニスタンへの軍事作戦、イラク戦争を分析して見れば、「武力行使に関する国連の法的枠組み」が有効に活用されたものとは言えないが、国連の枠組みは「新たな脅威」についても充分に対応が可能な法的基礎のある枠組みである。その枠組みを実際に有効に活用出来るかどうかは、米国等安保理常任理事国など国連加盟国間の協調次第である。
川崎 晴朗
1952年8月11日、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の最高機関がルクセンブルクで活動を開始したが、9月1日及び2日、イギリス及び米国がそれぞれ最高機関に対する常駐代表部を開設した。国際機関に対し、これに加盟していない国が常任オブザーバーを置くことについては先例があるが、最高機関に対する両国の代表部には外交代表部としてのステータスが付与された。他の多くの第三国がイギリス及び米国の例にならい、また1958年初頭、ブリュッセルに欧州経済共同体(EEC)及び欧州原子力共同体(ユーラトム)が誕生するや、これら二つの共同体に対しても多数の第三国が外交代表を派遣した。(通常、三つの共同体に対し1人の代表が任命された。)これは、1967年年央に併合条約が実施され、単一の理事会(EC理事会)及び単一の委員会(EC委員会)が創設されたあとも同様である。
こうして、ルクセンブルク及びブリュッセルを舞台に、欧州共同体に対する第三国の常駐外交代表の派遣という新しい国際慣行が生まれ、反復継続されて現在に至っている。(1993年11月から、EC理事会はEU理事会、またEC委員会は欧州委員会と改称した。)社会主義諸国も欧州共同体に外交代表部を置くようになり、いまやこの慣行は国際社会を構成するほとんどの国の法的確信(opinio juris)により裏打ちされているといえよう。
武藤 弘次
過去20年余で超近代化を成し遂げたサウジアラビアでは政治経済社会の様々な分野で急激な改革が行われようとしている。サウジアラビア社会システムの伝統的且つ象徴的な特徴の一つである部族内の連帯意識も時代と共に変化してきている。また、グローバリゼーションによる欧米文化の流入やインターネットの普及等により若者を取り巻く環境は先代のそれとは大きく異なる。若者の最大の懸案事項である雇用問題は教育改革の遅れが一因となっており、多くの若者が政府の対応に失望している。1970年代より構築されたサウド家や宗教界、テクノクラートらによる政府指導体制は今後もより結束力を増し、散発的に発生するであろう様々な問題にうまく対処してゆく事であろう。
国連における平和構築の潮流
─平和構築委員会設立─(PDF)
山内 麻里
PKOが成功を収め撤退した後、5年以内に紛争に逆戻りするケースが5割にも上ると言う。「永続的平和を確立する活動」である平和構築の重要性が指摘される所以である。この平和構築を効果的に行う方策の検討が国際社会の急務となる。
昨年9月、国連首脳会合が開催された。この会議の成果の一つが平和構築委員会(Peacebuilding Commission: PBC)の設置であった。PBCは、国連が紛争後の平和構築の初期から復興・開発段階まで一貫性をもって統合的に対応する画期的な仕組みである。
過去、国連では平和構築について様々な議論があり、本部及び現場での試行錯誤があった。また、PBCも国連政治のなかで活動することが求められる。本稿は、PBCを歴史的文脈と政治的現実の下で捉え、その意義と問題点を明らかにしたい。
七海 由美子
世界遺産の「代表性」の概念は、今日の世界遺産条約におけるキー・コンセプトの一つである。1972年のユネスコ総会での採択以降、世界遺産条約は締約国数と世界遺産数を伸ばして飛躍的な発展を遂げたが、それとともに、世界遺産一覧表の記載物件の偏りを是正する努力が、一覧表の代表性の向上という名の政策目標の下に行われてきた。
世界遺産の理想像を示す代表性の問題は、一方で様々な地域や遺産のカテゴリーを衡平に代表にするものとして設定され、他方で最近は締約国ごとの遺産数を問題とするという、ねじれを内包している。本稿では、このねじれの原因を歴史的経緯に探り、代表性問題を1980年代末から1990年代にかけてと、 1990年代末から現在までにかけての2段階の発展として捉えて検討し、今後の世界遺産のあり方に一石を投じるものである。
もう一人のポーツマス講和全権委員
─高平小五郎・駐米公使─(PDF)
松村 正義
1908年の高平・ルート協定でその名を知られる高平小五郎(1854~1926年、岩手県一関市出身)も、同協定のことを除けば、ポーツマス講和全権委員までも勤めながら、その外交的業績の全体像について単行本はもちろん論文ですら殆ど纏まったものがない。ともあれ、1900年に駐米公使となった高平には、ワシントンに着任後4年目で日露戦争が勃発するが、翌年にNH州のポーツマスで講和会議が開かれるや、彼は、小村寿太郎外相とともに講和全権委員として困難な交渉に当たった。ついで、同戦争後の1908年に駐イタリア大使から今度は大使として再びワシントンに赴任した高平は、日露戦争中やポーツマス講和会議でセオドア・ルーズベルト米国大統領が見せた非常な親日的言動を忘れず、1906年にノーベル平和賞を受賞した同大統領を明治天皇の御名で日本へ招聘するよう1908年に東京へ進言した。しかし、「前例なし」との理由で承認されなかった。もしこれが実現していたなら、その後の日米関係にはもう少し違った友好的発展が見られたのでなかろうか。
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