「武力紛争の際の文化財の保護のための条約 (1954年ハーグ条約)」の考察 ─1999年第二議定書作成の経緯─
可児英里子
国連平和維持活動(PKO)における部隊提供国の役割 ─国連エチオピア・エリトリアミッション(UNMEE)へのオランダ参加問題を手がかりに─
酒井啓亘
国連PKO待機制度の現状とその展望 ─待機軍即応旅団(SHIRBRIG)─
一政祐行
中部アフリカ経済通貨共同体(CEMAC)の発足 ─旧仏領中部アフリカのUDEACの改組による─
岡田昭男
川崎晴朗
研究ノート: 航空保安の国際ルール強化に向けた最近の動向 ─2001年9.11同時多発テロ事件後─
川原英一
スウェーデンの環境党・緑 ─党の結成・国会への進出及び環境政策に与えた影響─
中嶋瑞枝
松村正義
研究ノート: 戦後日本の首脳外交 ─独立回復後、森首相退陣まで─
加藤淳平
「武力紛争の際の文化財の保護のための条約 (1954年ハーグ条約)」の考察
─1999年第二議定書作成の経緯─(PDF)
可児英里子
本稿は1954年にユネスコで作成された 「武力紛争の際の文化財の保護のための条約」及び同時に作成された第一議定書並びに1999年に作成された第二議定書を紹介するものである。冷戦後、紛争対立の原因がイデオロギーから民族・宗教へ移行するに伴い、文化遺産も紛争の主要攻撃対象となる可能性が以前より増し、ユネスコは武力紛争時の文化遺産破壊防止の取り組みを積極的に考察した。その中で上記条約が見直しの対象となり、結果として第二議定書作成に至ったのである。本稿では同条約の概観、条約署名直後の我が国の検討内容、1990年代のユネスコにおける条約見直し議論、および第二議定書の内容を検討する。
国連平和維持活動(PKO)における部隊提供国の役割
─国連エチオピア・エリトリアミッション(UNMEE)へのオランダ参加問題を手がかりに─(PDF)
酒井啓亘
冷戦後における国連PKOの実行をみると、任務の拡大や国連憲章第7章に基づく行動との結合といった様々な点で、その活動原則の再検討が要請されているが、他方では同時に、PKO要員の現地展開やその安全確保という観点から、国連加盟国、とりわけ部隊提供国との協力関係の強化が必要であることも認識されるようになってきている。
本稿では、国連エチオピア・エリトリアミッション(UNMEE)へのオランダの参加経緯に触れながら、国連PKOへの参加に消極的な国内世論を前に、オランダ政府が「出口戦略」概念を国内外に提起することによって、いかにしてその閉塞状況を打開し、国連と部隊提供国一般の協力関係に関する原則の構築に寄与したかを考察するとともに、こうしたオランダの経験が我が国の対国連PKO政策に与える示唆にも言及する。
国連PKO待機制度の現状とその展望
─待機軍即応旅団(SHIRBRIG)─(PDF)
一政祐行
SHIRBRIGは冷戦時代から国連待機軍を実施していた北欧諸国やカナダ等が中心となって運営する多国間待機軍組織である。その主な特徴としては、国連憲章第7章に該当する強制行動には一切参加しないこと、待機部隊は国連からの要請があった際に極めて短時間でミッションエリアに展開することが可能であり、又構成国の政治的意志が一般に高く、PKOに対して積極的であること等が挙げられる。
他方で、昨今ではPKOの多様化が著しく、強化PKOや平和強制といったこれまでのPKOと根本的に異なる、緊急性・危険性が高いミッションが出現してきている。しかし、こうしたミッションへの兵力拠出には積極的な国が少なく、今日大きな問題となっている。そこで本論文では、SHIRBRIGを例に用いて強化PKOや平和強制をも視野に入れた今後の国連待機軍制度のあり方を検証する。
中部アフリカ経済通貨共同体(CEMAC)の発足
─旧仏領中部アフリカのUDEACの改組による─(PDF)
岡田昭男
旧仏領中部(赤道)アフリカおよび西アフリカの両地域においては、1960年の独立後、各国は、今日においてもCFA・フランを使用し、経済関税同盟を形成しつつ、今日に至っている。ただ、CFA・フランの基軸通貨がフランス・フランよりユーロに替わったため、CFA・フランは1999年1月よりユーロ貨にリンクすることになった。この機会に西および中部の両地域における旧経済通貨同盟の制度を改組し、中部アフリカのUDEACはCEMACに改組され、今日に至っている。本稿は、中部アフリカのCEMACの発足の経緯を辿ったものである。
川崎晴朗
2002年の年央、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は15のEU加盟国のうち、フランス及びアイルランドを除く13ヵ国と外交関係を樹立しており、また、2001年5月には、同国はEU自体と外交関係を設定した。西ヨーロッパ諸国のうち北朝鮮を承認し、これと外交関係を開設した最初の国はスウェーデンで、それは1973年4月のことであった。(当時、スウェーデンはまだEUに加盟していなかった。)
本稿は、1973年4月から2002年なかばまでの期間における北朝鮮とEU・EU加盟国との公式関係の設定状況を、入手し得た限りの情報をもとに描出したものである。このテーマは、国際政治における北朝鮮の現在の外交努力の方向や、EUが実施している共通外交・安全保障政策(CFSP)のあり方を示唆する一方、第三国による「二分国家」の承認、EUのもつ使節権の行使等、国際法の観点からみて興味ある問題を含んでいると考えられる。
研究ノート:
航空保安の国際ルール強化に向けた最近の動向
─2001年9.11同時多発テロ事件後─(PDF)
川原英一
昨(2001)年9月11日に米国内で発生した民間航空機を使用しての同時多発テロ以降、世界の民間航空機に対する航空保安の強化の重要性が強く叫ばれた。同事件以後、米国では、迅速かつ精力的に対応措置を実施してきた。また、航空保安の国際ルールを取扱う国際民間航空機関(ICAO)、G8サミット等の場で、国際ルール見直しや各国間の協力強化について検討された。これらの場で、未曾有の事件を契機に再発防止のため、航空保安の強化に関する国際的な枠組みが鮮明となりつつある。如何なる対応措置について合意・実施を決定してきたのか、主要な流れを振り返ってみる。
他方、検討課題もある。米国では同事件の教訓を生かし、これまで議会、行政府、産業界が一丸となって成果を出してはきたが、2002年の保安対策追加緊急予算についての行政府の要請は、議会により削減され、今後の航空保安対策に支障が出る可能性がある。途上国を含めた航空保安体制の強化のため、ICAOでは、2003年から各国へ航空保安監査を実施予定である。同監査の実施結果、判明した各国の欠陥を是正する措置に必要となる財源確保や人材育成強化面で、先進国や国際機関による支援・協力体制について基本合意はあったものの、資金確保の具体的な見通しは不透明である。今後ICAO等で如何なるフォローアップがなされるのか注目される。中部アフリカ経済通貨共同体(CEMAC)の発足
スウェーデンの環境党・緑
─党の結成・国会への進出及び環境政策に与えた影響─(PDF)
中嶋瑞枝
1981年に結成されたスウェーデンの環境党・緑は、1988年、4%条項をクリアして、新党として約70年ぶりに国会進出を果たした。それは1920 年代始めから常に同じ5政党が議席を占めていた国会において、画期的出来事であった。その後、環境党・緑は1991年の総選挙で国会の議席を失った後、反EUの姿勢が有権者を引きつけ、1994年に再び国会に返り咲いた。1998年以降、社民等政権に閣外協力を行うことにより小政党としての立場を有利に活用している。他の先進国に先駆けて、様々な環境対策を取り、環境問題に関心が高いといわれるスウェーデンにおいて、環境党・緑がその結成後、政党として認知され、国会進出を果たすと共に、環境党・緑の存在が様々な分野へ影響を及ぼすに至った過程及びスウェーデンの環境政策に与えた影響につき考察する。
松村正義
第一次世界大戦を終結させるためのパリ講和会議(1919年)で、日本全権団は、旧ドイツ租措置の中国・山東半島の帰属問題をめぐって中国代表団から激しい宣伝攻勢に逢い、図らずも非常な苦渋をなめさせられた。日本は、その反省に立った外務省内の若手外交官らの革新的な動きと原敬首相の現実主義的な着想とによって、事実上は1920年4月1日から、法制上は翌年8月13日から同省内に情報部を創設したばかりでなく、他方で対中国専門の通信社たる東方通信社の拡充強化も行なって、一層組織的な対外宣伝活動に乗り出したのである。
1921年11月12日から翌年2月6日まで開催されたワシントン(軍縮)会議は、誕生してまもない同情報部にとって、まさしく国際舞台への初陣に他ならなかったと同時に、それはまた、二ないし三年前のパリ講和会議で対外宣伝上こうむった惨敗に対する、願ってもない雪辱戦でもあったのである。同情報部が、会議の開催前夜に可能な限り準備を尽くしたことと、会議期間中、病苦を押して見事な交渉力を発揮した幣原大使(全権)を強力に支援することによって、ワシントン会議における日本の広報外交は、「パリ講和会議の場合と比べて確かに巧みであった」と評されるほどに、成功したものとなった。
研究ノート:
戦後日本の首脳外交
─独立回復後、森首相退陣まで─(PDF)
加藤淳平
1952年に日本が独立を回復してから、2001年、先の森前首相が退陣するまでの50年間、歴代の首相は、外国を訪問して、積極的な首脳外交を行なった。占領期と一線を画し、日本独自の外交を探った鳩山、岸両首相の路線は、安保改定反対運動の壁にぶつかり、継ぎの池田首相が、経済中心、欧米志向の路線に転換した。その後佐藤首相や田中、福田両首相が、独自外交を目指したが、池田首相の弟子の大平首相が、再び欧米寄り路線に転換し、それ以降今日まで、ほぼ同じ路線が踏襲された。その中で国際的に活躍したのは、比較的長く政権に留まった、中曽根首相だったが、同首相を最後として、国内政治が不安定になったこともあり、世界における日本の外交の存在感は薄れた。
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