在ベレン総領事
中軽米 重男
ベレンと言っても、大方の人にとってはあまり聞き慣れない地名ではないでしょうか。ベレンは17世紀初頭にポルトガル人がアマゾン河の河口付近に開いた植民要塞都市で、今では人口約180万人のブラジル北部第一の都市です。この街は、ほぼ赤道直下の南緯1度40分に位置し、日本との時差がちょうど12時間、そこにたどり着くには飛行機を乗り継いで約30時間かかります。
またベレンは、今から77年前の昭和4年(1929年)にアマゾン地域への最初の日本人移住者が到着した所です。日本政府はそうした移住者の方々のお世話をするために昭和9年(1934年)に領事館を開設しました。領事館はその後第二次大戦中の昭和17年(1942年)に一時閉鎖されましたが、戦後の日本人移住の再開とともに昭和28年(1953年)に総領事館として再開され、現在に至っています。
在ベレン日本国総領事館は、ベレン市を州都とするパラー州とその周辺のアマゾン地域4州を管轄しており(その総面積は日本全土の約5.3倍)、そこには日本人移住者一世とその子孫(二世から四世ぐらいまで)からなる約1万人の日系社会が存在しています。なお、日本人移住者は当初ベレン市から約250キロ南のトメアスという地域を中心にアマゾン各地に入植してジャングルの開拓を始めましたが、現在では大半(約40%)の方々がベレン市とその近郊に集中して居住しています。
そうした中で、総領事館の領事業務の直接の対象となる在留邦人は2,000人前後ですが、その多くは日本とブラジルの両国籍を有して現地社会にしっかりと根を下ろした定住者です。その他のいわゆる長期滞在者は私ども総領事館員を含みわずか30人前後、また、商用や観光目的などの短期滞在者は、よほどの事件などでも起きない限り総領事館がその存在を把握できないくらいのごくわずかな数です。従って、特に、日本人が事故や犯罪被害に遭遇するケースは非常に少ない状況です。
それでは、ここは安全で平穏な所かと言えば、実態は全く逆で、ベレン市などの都市部のみではなく地方部でも至る所で強盗、窃盗、傷害などの一般犯罪が頻発しており極めて危険です。つい最近でも、総領事館のすぐ近くにある日系団体が運営する病院に、日中、3人組の武装強盗が押し入り、現金、パソコン、そして職員等の携帯電話を強奪して、あっと言う間に逃走する事件が発生しました。その時、総領事館員の一人も病院内で治療を受けていたのですが、事件には全く気付きませんでした。それほどに彼らの手際は巧みで、しかも、人々もそうした事件に慣れっこになり、遭遇した際の対応の仕方などもしっかりと身につけています。対応の仕方とは一にも二にもまず無抵抗ということですが、一方で、人々はこのような場合に無抵抗のみが最善の策ではないことも知っています。奪う物が何も無いことに腹を立てた強盗が、時にはいとも簡単に人を殺してしまう事件も発生しています。
従って、自分も狙われる可能性があると常日頃から感じている、換言すれば、自分も社会の中で一定以上の富裕層に属すると認識している人々は、こうした場合に備え、常に何がしかの金品をすぐに差し出せるよう準備しています。まさに、安全のための生活の知恵です。
なお、ここブラジルで半年ほど前に、国民が銃器を持つことを認めるか否かについての国民投票が行われ、「認める」が過半数を占めました。この結果は、人々の治安情勢や治安機関の能力などに対する一般的な認識、評価を如実に示していると言えます。
こうした中で総領事館は、日系社会の多くの人々が胸に抱き続ける日本人としてのアイデンティティーの保持あるいは日本とのより密接なきずなの確保などへの強い思いに対して、いかにこれと適切にかかわり、向き合っていくかを常に問われています。このかかわり方には工夫を要する面が多々あり、単に日系社会の人々に対して日本文化を積極的に紹介するとか日本語学習の促進に努めるなど等で、事が済む話ではありません。
そのことは日々の領事業務の中でも頻繁に現出します。この地域からも約1,000人近くに及ぶ日本への出稼ぎ者への査証業務は慎重な対応が必要です。また、例えば、移住者三世の日本人の父とブラジル人の母から生まれた子供の出生届があった時、たまたま判明した父親の二重国籍についてはいかに対応すべきかなど、極めて難しい判断を迫られることもあります。この場面で単に厳格な行政事務の実施という面だけから対応した場合、いささか人情に欠けた結果となる可能性があるやもしれないなどと考えつつも、“しからばいかに”となると明確な答えはすぐさまには見当たらないことも多く、悩ましい限りです。
当地では、適切な治安対策もさることながら、屋内外を問わず、次のような劣悪な衛生環境への十分な対策を怠らないことが重要です。