在ニューオーリンズ総領事
坂戸 勝
「総領事、ポンチャトレーン湖の堤防が決壊して、ニューオーリンズが洪水に襲われています」--広報文化担当の副領事の電話でたたき起こされたのは、昨年8月30日早朝のことでした。晩夏の空はまだ暗かったので、午前4時か5時だったでしょうか。これが、ルイジアナとミシシッピ両州での、ハリケーン・カトリーナによる高潮と洪水災害後の在留邦人の安否確認作業の始まりでした。
ハリケーン・カトリーナはその前日の早朝、ミシシッピ川河口付近に上陸、勢力が最大瞬間風速60メートルを超えるような強いハリケーンとしてルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ3州のメキシコ湾岸部に猛威を振るいました。当総領事館は、28日に出されたニューオーリンズ市長からの強制退避命令を受け、在留邦人に閉館のお知らせをメールで案内するとともにホームページに掲載し、同日夕刻、市内に取り残された邦人旅行者2人を保護した後、在ヒューストン総領事館に一時退避しました。翌29日、同総領事館内にハリケーン・カトリーナ対策本部を設置し、情報の収集と邦人の安否確認の作業を開始しました。ハリケーン上陸日は、大雨と強風に見舞われるメキシコ湾岸の様子がひっきりなしに伝えられましたが、夕方には、さしもの嵐もだいぶ収まりました。激しい風雨でかなり被害が出たように思いましたが、「台風一過」の安堵もいささか感じました。その頃、ニューオーリンズ市の方々で堤防が決壊し、市域の大部分が濁流に巻き込まれつつあることは、報道を視聴していた大多数の人々には伝わっていませんでした。
翌30日からの光景は、日本の皆さんもテレビでご覧になったのではないかと思います。見渡す限り黒々とした水に覆われたニューオーリンズの町並み、濁流に浮かぶ屋根の上で救助を待つ人たち、上空を埋める多数のヘリコプター、ルイジアナ・スーパードームに集まった着のみ着のままの避難民たち、19世紀の瀟洒なフランス風街路でお馴染みのニューオーリンズは、一転して悪夢のような惨状を呈しました。風光明媚なミシシッピ州メキシコ湾岸も、海岸沿いの町並みは高潮で瓦礫の山と化しました。
ルイジアナとミシシッピ両州には約1100人に上る日本人が住んでおり、中でも特に被害の深刻な地域には約450人がおられました。ハリケーンの後、ヒューストンの対策本部では、被害の様子を把握し、現地当局に邦人避難民の救助と保護を依頼すべく、両州政府や市の関係者、警察当局などに盛んに連絡を試みましたが、固定電話も携帯電話も、回線の不通や混雑で全く通じませんでした。奇跡的に電話がつながったニューオーリンズ警察の署長は、緊迫した口調で、アジア系遭難者はまだ見かけないこと、日本人とおぼしき人物を救助したらすぐ総領事館へ連絡すると約束してくれました。市内に残留した領事からは、水位が高まりつつある市中心部の様子を報告してきました。対策本部から企業関係者などにEメールで出した安否照会に対して、夕方には漸次返事が入るようになりましたが、依然として大部分の邦人の安否は不明でした。
翌31日から、外務本省と在ヒューストン総領事館の協力を得て、人海戦術で両州在住の全邦人へ電話による安否確認を開始しました。並行して、ルイジアナ州都バトンルージュおよびミシシッピ州都ジャクソンのおのおのに、州政府との連絡、現地被害状況の把握、周辺避難所における邦人の安否確認などのため、総領事館員を派遣しました。避難所における邦人の安否確認は北米各公館に拡大して行われました。両州へ派遣された前線部隊は、北米在外公館からの応援要員を得て、避難所訪問のほか、電話では安否が確認できない被災地域の邦人宅を、水が引くにつれ、しらみつぶしに訪問しました。私も両州政府幹部との連絡経路を確立した後、両州のテレビやラジオに出演させてもらい、邦人に対し、対策本部へ所在や安否を連絡するよう呼び掛けました。洪水や高潮で自宅が被災された方も多く、確認には思いのほか時間がかかりましたが、最終的にはほとんどの方々と連絡がとれ、160件に及ぶ日本からの安否照会にも回答を行うことができました。ただし、ミシシッピ州で日本人の婦人が1人亡くなったのは残念でした。この場を借りて改めてご冥福をお祈りします。
災害に遭遇した時は、人の絆が深まる時でもあるようです。ミシシッピ州ガルフポート近くの陸軍基地内の避難所に邦人女性が収容されているとの連絡で、在米大使館から応援にきていた若い書記官が面会に行ったところ、「心が滅入っていた時に、このようなところで、日本語で話せる人に会えてうれしい」と感謝されたとのことです。安否確認でお会いできた邦人の方々から、このようなお礼を言われる時が、毎日あちらこちらに飛び回った領事や書記官たちの最もうれしい瞬間でした。ルイジアナ州緊急オペレーションセンターで、洪水直後のニューオーリンズ郊外に立ち往生した2人の邦人旅行者の保護依頼をしている際、軍関係者でしょうか、自分は沖縄にいた、横須賀にいた、など多くの方から声を掛けられました。中には、片言の日本語で話し掛けてくる人もあり、果ては私たちに漢字を書いて見せる人も現れました。日本で受けた親切が、私たちへの親しみとなって表れていることを強く感じました。