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ODAロゴ INTERVIEW:ODAは日本外交の土台・経済協力50年を振り返って

(「外交」117号:国際協力50周年特集号 INTERVIEW より)


外務省経済協力局参事官 兼国際社会協力部参事官 佐渡島 志郎

聞き手 山崎真二(時事通信社 解説委員)


―― 日本が1954年にコロンボ・プランに参加を決定し、それから日本の経済協力が始まり、今年で50年となりますね。この50年を振り返って、経済協力、とりわけ政府開発援助(ODA)についてどんな感想をお持ちですか。

佐渡島 ODAと外交という時、いつも頭に思い浮かべるのは二つのことです。一つは、非常に根本的なことなのです。要するに日本という国の一種の生きざまというか、それと表裏一体の関係を形成しているのではないかと思います。
 それはどういう生きざまかというと、先の大戦が終わって、日本は新憲法下で平和国家としての道を行きますと宣言したわけです。
 日本の選択した生き方というのは、1945年以前との決別。要するに武力を自ら行使することによって問題を解決するやり方ではなくて、平和をつくるということ。自分の国の問題を外に向かって解決する時に、あるいは内向きでもそうかもしれませんが、力を行使するのをやめる。それは具体的には何かというと、国際社会のために貢献していくということですね。私は憲法の前文は非常に大切な、国際社会に向かっての決意表明だと思うのです。

日本が貧しい時代から始めた

 日本の経済協力の始まりの時期はある意味では非常に象徴的だったと思います。
 1954年に日本はコロンボ・プランに入りました。これはアジア・太平洋地域諸国の経済社会開発を促す目的の地域協力機構に加盟して、その中で技術協力をしていこうということだった。日本が持っている当時のノウハウをいろいろな人に伝えていく努力を日本はすると。

―― その当時は戦争の傷跡も十分癒えていない時代ですよね

佐渡島 そうです。当時はまだ戦後の復興過程というか、51年にサンフランシスコ講和条約が締結されて、そのわずか3年後ですからね。当時は復興需要などがまだまだたくさんあったころですね。
 そういう時代、つまり日本がまだ貧乏で、フィリピンと比べても日本の方が貧しいという時代だった。そういう中にあっても、よその人を助けるために自分も一部を出しますと、こういう覚悟をしたのです。

―― 日本自身が苦しい時代によく、そんな覚悟をしましたね。

佐渡島 ええ、当時、もちろん国会でもやり取りがあって、野党の方々が日本だってこんなに苦しいのに何を言っているのだと主張したのに対し、当時の政府側が説明したのは、いや、日本は、これから自分がたとえ貧しくても、人のためにわずかなものを割いて国際社会のために貢献して生きていく、と。そういう決意だったのです。まさにその初心というか、スピリットがあった。
 当時はODAという言葉はたぶんなかったのでしょう。その後、日本は賠償という形で支払いをしながら、それと並行して経済協力が実施されていくのですが、私は原点がまさにそこにあったと思うのです。
 ODAというのは、まさに日本がそうやって自分が苦しかろうと人のために、国際社会の平和や向上のために頑張る。それで、ああ、日本はやってくれるのだと思われるようになる。つまり、経済協力なりODAは、国際社会における日本の地歩を築く重要な道具の一つではないかと思うのです。
 それからもう一つは、日本の外交との関係で言うと、日本はそうやって営々と国民が築き上げてきた地位を土台にして現在のような幅のある外交ができるようになったという事実です。
 例えば政府レベルのアフリカ開発会議(TICAD)を3回、日本で開催しました。日本はアフリカから遠いですよね。しかし、日本でそういう会議を開きますと、皆さん来てくれるわけです。つまり日本に行けば得るものがあると思うわけです。
 それは援助資金なのかもしれませんが、私はただ単に金だけで集まっているのではないのだと思います。それは、長年にわたって日本が援助してきたことへの感謝と信頼の成果とでも言えるものですね。

欧米と異なる日本の援助方法

佐渡島 そうでしょう。もう一つの側面として指摘したいのは、開発問題という知的な作業をリードする、そういう役回りを日本は担っているのではないかということです。日本の援助のやり方は「一緒にやっていこうではないか」と一生懸命訴えているわけです。
 欧米型の援助というのは、今日お腹が空いていますと、そこにご飯を持ってきてあげましょう、パンを持ってきてあげましょう、食べなさいという方法です。
 しかし、食べて、そこで終わってしまう。つまり当面の問題にどうやって対処していくかというところに非常に力点があったし、恐らく今でもそうだと思います。これは宗教的なバックグラウンドがあるのかもしれませんが、チャリティーというか、慈善の概念というのが非常に強く、一本の芯として通ってきたわけです。
 日本はどうするか―。まず、どうやったらそもそも飢えないか、飢えた時には問題をどうやって解決したらいいか、その道具をあげましょう、それで一緒に考えましょう、というのが日本の援助方法です。だから効果はすぐ見えないかもしれないけれども、5年、10、15年とやっていると「ああ、なるほど」となるのです。
 なぜ、日本はこういうことができるかというと、日本自身がわずか半世紀ぐらいの間に途上国から先進国のところまでずっと上り詰めてきたという事情があるからです。つまり、かつては自分の問題だったわけです。飢えの問題もそうだし、破壊された産業基盤をどうやって再建するかとか、平和の構築や平和の定着とか言われている問題はまさに自分の問題でもあったわけですね。だから途上国に物を言う時の説得力はやっぱり一味違うのだろうと思うのです。

―― ODAなり、日本の経済協力は日本の外交戦略上どう位置づけられてきたのでしょうか。

佐渡島 日本の外交、あるいは日本の対外活動の一種の基盤をつくっているのではないかと思います。つまり音楽で言えば、一種のコントラバスみたいなもので、通奏低音。要するに、それがないと何となく音楽も締まらないし、場ができない。
 日本はそれを地道にずっとやることによって、いろいろなところでの対外活動がやりやすい、あるいは外交活動がやりやすい、商売がやりやすい、あるいは外に行ってもより安全な環境が提供されるようになっている。
 気がつきにくい点ですけれども、先ほど申し上げたように、例えば域外国の会議を開こうという時に、そこの人たちが日本にやってくるのは、そういうことだと思うのです。  徐々にしっかりと仲間をつかまえていく道具として、今までODAがかなり役立ってきたということでしょう。

―― なるほど。ODAないし経済協力はあまり目立たないかもしれないが、日本外交のいわば土台をつくってきたということですね。

対中ODAは是々非々で

―― ODAについてはこれまでいろいろと見直しが行われてきましたね。

佐渡島 そうですね。見直しというか、ある意味では量的な拡大を目指してわれわれは一生懸命、「坂の上の雲」を求めて上ってきましたが、日本自身も経済的にここ10数年、非常に不況に苦しんだわけです。
 自分も今まで右肩上がりでずっとやってきたけれども、そうでない時期というのもあるわけで、いつもわれわれがいろいろリソースを提供できるとは限らない。量的にいろいろなところにリソースが提供できないとしたら、どうしたらいいのか。どうやったら限られたリソースの中で、皆に喜んでもらえるかを考え始めたわけです。
 正直に言って、これまで経済協力は官主導で伸びてきたと思います。しかし、これはまた根本の問題に返りますが、開発援助というのは日本の戦後の生きざまに一つ直結している問題なので、突き詰めると官だけの問題ではないわけです。
 参画基盤をより広げていくのにはどうしたらいいのか。NGOの参画だとか、NPOの参画だとか、あるいは援助に関わる仕事の人たちをどうやってより広い基盤で確保していくかとか、あるいは環境と開発をどうやって調和していくのかと等々。

―― ODAの見直しの作業は、どう進められているのですか。

佐渡島 「ODA大綱」そのものは去年、見直しが行われたのです。一番上にある大綱をキチンと見直して改定したので、それに合った中期政策が策定されるべきではないかという議論があり、今、その作業が進んでいる状況です。

―― ODA見直しが行われた背景について具体的にご説明願いたい。

佐渡島 大雑把に言って二つあると思います。一つは、ちゃんと使われているのかということです。例えば、百円のリソースを持っていくとしたら出元で百円、届いたところできちんと百円なのかという部分について厳しく点検しなさいという声が出て、それが政府としても看過できないところまできたという事情が背景にあるのです。
 それから、外務省自身について言えば、やはりスキャンダルではないですかね。主務官庁と言われているところで横領事件などを起こして、お前ちゃんと物が言えるのかという批判が出た。
 それに対して組織自体もキチンと見直しましょうとなって、さらにそのやり方についても、もっと参画基盤を広げることによって周りに監視役の市民がより参画できるよう促していく。
 そうすれば、われわれも説明責任をもっと明確な形で果たさねばならなくなる。その上に立ってODAという開発援助もこう変えていきましょうということになったわけです。

―― ODA予算の減少についてはどうみていますか。

佐渡島 今、国際社会を見わたすと主要国がODA予算を増やすと宣言し、アメリカやヨーロッパは現に増額してきているところです。その背景にはテロ拡散防止の問題があり、貧困がその根っこにあるという見方がある。貧困問題を解決することにより、少しでもテロの少ない国際環境に持っていきたいという考え方が共有されているわけです。
 そういう中にあって日本だけずっと台所事情が苦しいので減らしてきたのですが、周りは上昇に転じている時に日本が反対を向いているのはどうも迫力に欠ける。日本がいろんな問題を解決しようと、例えばイラクの問題、あるいは今、アフリカのリベリアやスーダンなどの国々に平和を取り戻して、定着させていこうとする時、日本も一生懸命やりたいと思うのですが、ハッと見ると手元不如意だということになってしまうという危惧がありますね。
 そういう中にあって、われわれも上昇に転じられるものは転じていきたい。

―― 中国へのODAへの批判が強まっていますが。

佐渡島 私自身は要するに是々非々で物事をキチンと決めればいいと思っています。環境とか、教育投資とか、あるいは非常に経済がうまくいっている沿海部ではなくて、なるべく内陸の方のより貧しい地域をにらんで援助していくようにしたり、またインフラ物はもうなるべく自分でやってくださいと中国側にも言ったりしています。自分の台所を見ながら、粛々とやっていけばいいと私は思います。

官主導の見直し

―― 過去と比較して最近のODAで何か特徴的なことはどんな点ですか。

佐渡島 一番の違いは何かなというと非政府団体の参画の規模が非常に広がったことでしょう。それからNGO支援でもいろいろなリソースができて、財政基盤はわずか10年ぐらいの差で非常に強く大きくなってきました。
 どちらが良いということではないのですが、政府は比較的規模の大きい援助を、相手国の国家開発計画に沿った形で出せるという強みがある。一方、民間団体は小回りが利き現場に即した援助ができる部分がある。両方ないとうまくいかないのです。

―― ODAの将来像についてはどんなイメージを持っていますか。

佐渡島 経済協力に必要とされる知識、経験が非常に広がっています。従って官の中だけで閉じこもっているのではなくて、いろいろなところで、例えば官の人も人事交流でどこかのNPOで仕事をしてみるとか、あるいは学者、学生さんもNPOだけでなくて、政府のサイドに来て働いてみるとか、そういう中でいろいろなリソースが大きくなって、常に必要に応じてわれわれが離合集散しながら仕事ができるような格好に持っていけるといいというのが私の願いです。

―― 新しい国際協力の実現に向けて頑張ってください。本日長い間どうもありがとうございました。
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