地球環境

世界防災閣僚会議in東北 
女川第一中学校の生徒による基調報告

(7月3日(水曜日)於:仙台国際センター)

 私たちの町女川は,宮城県の東部,南三陸国定公園の最南端にあり,銀ざけやホヤの生産額が日本一で,水産加工業も発展し,小さくてもとても活気溢れる町でした。

 2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災で30分後に襲ってきた巨大津波によって,女川では,各地で観測された中で最大の43mもの津波が到達し,人口1万人の8%以上の尊い人命が失われ,家屋の80%以上が流失しました。甚大な被害があった岩手や福島,私たちの宮城では,食べ物や飲み物さえない極限の生活が来る日も来る日も続きました。そして,辛く,悲しいたくさんの出来事が,私たちの周りで起こりました。

 「あの日津波は私たちの大切なものを次から次へと飲み込んでいきました。あの日の4日前,ぴーちゃん(曾祖父母)が,もうすぐ中学生になる私にお祝いをしてくれました。「またおいで。今度は制服姿を見せらいよ(見せてね)。」と言われ,「うん,また来るね。」何気ない会話でした。ひいじいちゃんは,帰る時は,にこにこの笑顔でハイタッチ,ひいばあちゃんは,おいしいご飯をいつも作ってくれます。そんな二人が大好きでした。

 あの時私は,一週間後に控えた卒業式の練習をワクワクでしていました。地震後に総合体育館に避難する途中,津波を見ました。涙が止まらず,ただただ家族やぴーちゃん達の無事を祈るだけでした。私の家はギリギリで流されず,蝋燭の火で不安な夜を迎えました。家族皆が無事で安心した正にそんな時,叔母から1通のメールが届いたのです。「ぴーちゃんと,小4・中1のいとこが行方不明」という内容でした。石巻のぴーちゃんの家から100mほどで日和山につながる坂があるので私は,大丈夫だろうと思っていました。しかし,何箇所も避難所を回っても,4人の安否は分からないままでした。「津波で流されたんだなあ」そう思ってから私は,ぼーとすることが多くなり,何もする気にもなれませんでした。門脇小の並びにあるぴーちゃんの家は,火事でずっと近づけず,ようやく行けるようになっても,私は行きたくありませんでした。でも,ひいじいちゃんのあの言葉が頭によぎりました。「またおいで・・。」あの言葉にはっとし,「行ってみよう」と決心して行きました。余りにも悲惨な現実でしたが,私はなぜか涙がでず,瓦礫の中を手でかき分けていました。すると,私たちがあげた手紙が全部入っていた袋がありました。その時,やっと涙が溢れてきました。女川の家に戻り,急いで毎年二人がお年玉袋に書いてくれた手紙を探しました。ようやく見つけた袋には,「愛ちゃん,もう中学生だね。色々あるけど頑張ろうね。」と書いてありました。

 あの時から私は,辛いことや嫌なことがあっても震災前に比べて挫けないようになりました。どんな辛いことがあっても,4人が近くで応援してくれている気がするからです。私にとって,この1年は,とても辛く,悲しい毎日でしたが,「勇気」を与えてもらった1年でした。私は,これからも4人のことをいつまでも忘れず,私に勇気を与えてくれた二人に感謝し,今を生きていきたいです。4人は,今も行方不明です。一日も早く見つかるように願いながら,4人の分も一日一日を精一杯生きていきたいです。

 これは,1年間の社会科の授業のまとめとして私が書いた作文です。4月11日,私たち新入生67名は入学式を例年通りに行うことができました。食料やガソリンもなく,制服は津波で流され,鉛筆やノートを買うことさえきませんでした。でも私たち女川町の全ての児童生徒700名には,入学式の日に,ユニセフからのバック,そして,阿部一彦先生の呼びかけにより,三重県鈴鹿市のNPO法人愛伝舎の坂本久海子さんのご協力により全国,世界からのご支援により始まった「希望のえんぴつプロジェクト」を通じて,鉛筆やノート等をいただきました。不安ばかりの私たちはとても感動しました。3年生の先輩は,避難所でその夜,いただいた鉛筆を握りしめ,家族全員で泣きながら喜び合ったそうです。

 最初の社会科の授業で,阿部先生は,「愛するふるさとが,大震災で大変なことになった。「社会科として何ができるか」小学校で学んだことを生かして,考えてみよう」と話され,皆で夢中で話し合いました。

 ほぼ全員が避難所や仮設住宅から安全面の理由でバス通学。校舎も半分しか使えず, 3つの小中学校との共同生活。何もかも制約された生活ですが,ユニセフのアンソニー事務総長が来校するなど,温かいご支援のおかげで,私たちは充実した学校生活を目指しました。「希望のえんぴつプロジェクト」の縁で,先輩の描いた絵や私たちの俳句が,スペースシャトルで日本の宇宙実験船「きぼう」に届けられ,絵は復興の絵葉書として,女川の感謝の心を届けています。「見上げれば 瓦礫の上に 鯉のぼり」は17の言語に翻訳され,連句が世界中で作られています。

 3年生は修学旅行で,支援の感謝と御礼を外国人記者クラブで発表し,町内に花を植えたり,小学生に全校合唱を届けるなど,自分たちができる事を積極的にしてきました。

 私たち1年生は,社会の授業で,ふるさとの地理的な特徴を調べ,「津波の被害を最小限にする方法」を皆で考えました。「大地震の時は一人一人がとにかく逃げる」あるグループで結論がでた瞬間です。「逃げよう!!と言っても逃げない人がいるんだよ。それは,どうするの!!」友達が涙ながらに訴えました。友達の祖父は,高台への避難を呼びかけ多くの命を救いました。しかし,逃げようとしなかった方の家に3度目に向かい,流されてしまったのです。「あの過酷な体験をした私たちにしか言えないことを出し合おう」と,話合いを最初からやり直しました。

 私たちはまだ中学生で実現できることは限られています。でも,あの大震災の中で大切な命を家族や先生,町の人など,たくさんの方々が守ってくれました。今度は,私たちがこれから生まれてくる人のために,「三陸の豊かな海の恵みに支えられた暮らしを1000年後まで残そう!!」と考え,ぜひ実現したいことが3つあるのです。

 1つ目は,「互いの絆を深めること」です。非常時に共に助け合うためには,普段から絆を結んでおくことが必要だと,避難する時や避難所生活を通じて感じました。もっと絆を強くしておけば,避難を呼び掛けて亡くなってしまった,友達の大切な祖父や多くの人たちの尊い命を守れたはずです。

 第2は,「高台へ避難できる町作り」です。住宅や病院,学校等は,津波が絶対に来ない高台に移します。でも,漁師さんや加工場の人達は海沿いで働きます。そこで,夜でも,初めて来た観光客にも分かるように,太陽光パネルを活用した避難誘導灯と高台への広い避難路を整備しておくのです。

 そして,何より大切であり,私たちがぜひ実現したいと願っているのは,この大震災の出来事を「記録に残すこと」です。社会の授業で様々な資料を調べましたが,津波の記録が私たちの体験と違っていました。今ある記録だけが残ったのでは,きっといつかまたこの大惨事が繰り返されてしまいます。そこで,女川町内にある全ての浜に最大の津波が来た所に石碑を建てます。その石碑の周りには,3日分の食料や水を備蓄しておき,毎年3月11日,全員で避難訓練をし,震災のことを書いた私たちの本を子どもや孫に代々語り継いでいくのです。そうすれば,祖父母が囲炉裏端で津波のことを語り継ぎ,三陸の海で2000年以上も暮らしてきたように,あの豊かな町を私たちの手で作り上げていきたいのです。

 でも,私たち中学生だけで,これらを実現することはできず,どうしたらよいか悩んでいましたが,今日,野田佳彦総理大臣はじめ,世界30か国の代表の皆様にお伝えする貴重な機会をいただき,女川第一中学校の現在の2年生を代表して発表させていただきました。

 「夢だけは 壊せなかった 大震災」これは,私たちの同級生が昨年の6月に読んだ俳句です。3つの津波対策案は,まだ夢の段階です。でも,あの日,この夢を実現させる唯一の源である大切な命を守ってもらい,世界中の数多くの人々の支えによって今ここにいることができる一人の人間として,これから生まれてくる全ての人の幸福のためにも,ぜひ3つの夢を実現させたいと私たちは強く願っています。

 終わりに,世界中のみなさんのご支援に感謝するとともに,私たち一人一人が,いつの日か世界中の人々の,よりよい未来に少しでも貢献できるような人になれるよう,努力していきたいと思っています。今日は本当にありがとうございました。

宮城県女川町立女川第一中学校
2年今野伶美
勝又愛梨


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