2008年5月3日
ユネスコ大使 近藤誠一
自然のままでは、人間はほとんど考えない。考えることは、ほかのすべての技術と同じように、人間が学んで身につける技術で、しかも学ぶのにいっそう骨が折れることだ。わたしは、男女いずれにたいしても、ほんとうに区別されるべき階級は二つしかみとめない。一つは考える人々の階級で、もう一つは考えない人々の階級だが、このちがいが生ずるのはもっぱら教育によるものといっていい。
(ジャン・ジャック・ルソー 『エミール』今野一雄訳より)
ある週末、テレビのスイッチをつけると、タンザニアの漁村を舞台にした、深海でのシーラカンス撮影成功のドキュメンタリーをやっていました。この古代魚は3億8000万年前から生息していたことは化石で確認されていましたが、その後絶滅したものと考えられていました。しかし1938年に南アフリカの東岸で発見されて大騒ぎになりました。太古の昔から殆ど変らず生き延びており、脊椎動物が魚類から四足動物に進化する過程を示すものとして極めて貴重な種です。これまでコモロ諸島の他、インドネシアでも発見されたそうです。
テレビでは、シーラカンスの発見により、その一帯が禁猟区に指定され、漁師の生活が脅かされていること、政府も他地域からの密漁取り締まりや、地元漁民の生活保障などを検討しているが、財政難で思うようにいかないことを紹介していました。漁民にとっては、生物の進化の研究よりも、今日子供達に何を食べさせるのかの方が重要です。グローバル化が進み、経済競争が激化する中で、その負の遺産でもある地球環境問題にどう取り組むかが世界的課題になりつつありますが、途上国の貧しい人々は、そのいずれからも取り残され、海洋資源や貴重な研究材料の保護という規制だけを押しつけられているのです。
テレビのナレーターは、シーラカンスになり代わって、自分達は平和を愛し、他の種にお節介することもなく、深海で静かに細く長く生きる道を選んだことで、人類の2000倍もの間生存しているとの皮肉で締めくくりました。
この漁村の人たち、とくに子供たちには何をしてあげれば良いのでしょう。読み書きソロバンを教えて基礎学力をつけ、それを基に彼らが自ら知識や技術を獲得して生活力を身につけ、更に自国の経済・社会発展に寄与し、国際競争に参加していけることが重要です。そしてその中から環境問題や資源管理、重要な学術・研究の促進など全人類的課題を理解し、それに貢献すると共にそれと地元の利益とのバランスを考える人が出てくるように支援することでしょう。
しかし1980年代、サハラ以南のアフリカ諸国などでは、財政的理由で教育部門の予算が切り捨てられてしまいました。しかも多くの途上国では人口増加、地域紛争、宗教上の性差別のため、基礎教育の普及は大変な困難に直面しました。初等教育を受けられない子供が1億人以上、読み書きのできない成人が9億6000万人と言われました。そこで1990年3月、タイのジョムティエンにおいて、ユネスコ、ユニセフ、世界銀行、国連開発計画(UNDP)の主催で、152の国とNGOなどが参加して「万人のための教育Education for All (EFA)世界会議」が開かれ、初等教育の普遍化、教育の場における男女の就学差の是正などを目標とする「万人のための教育宣言」を採択しました。
それから10年を経ても、この目標の達成には程遠い状況であったことから、2000年4月、セネガルのダカールで国際機関や164カ国が参加して「世界教育フォーラム」が開かれ、ジョムティエン会合以来の進捗状況を分析しつつ、新たに「ダカール行動枠組み」を採択し、次の具体的目標が設定しました(このうち2.と5.は国連のミレニアム開発目標(MDGs)と同じです)。
そしてこの目標達成のための国際的な調整役をユネスコが果たすこと、そのためユネスコは毎年EFAグローバル・モニタリング・レポート(GMR)を作成して、閣僚レベルの会合を開催し、目標の達成状況の評価、国際的支援の調整・促進をすることが決まりました。多くの困難が予想される中で、この人類最大の挑戦のひとつとも言える目標達成に、正面から取り組むことを買って出たのが、当時就任したばかりだったユネスコの松浦事務局長でした。
グローバル化が進む中で途上国が直面する困難な諸問題を考えれば、冒頭述べたようにタンザニアの小さな漁村から、世界的な学者やビジネスマンが生まれるには、長い時間と忍耐が必要でしょう。そしてそこに向けての第一歩である上記6つの目標の達成も容易なことではありません。どの国際機関も、ドナー国も、NGOも、自分だけでこれらを達成することはできません。しかし誰かが中心になって引っ張っていかねばなりません。それをユネスコが買って出たのです。現在のユネスコの最大の優先事業であるのは当然です。
かつてユベール・リヨテというフランスの将軍が、庭に樫の木を植えたいと思って庭師に言ったところ、庭師は樫は成長が遅く、植えてから大木になるまでに100年もかかると言って難色を示したところ、将軍は「それだったらなおのこと、時間を無駄にしてはいけない、今日の午後すぐ樫を植えなさい」と命じたという話を思い出します。皆が短期思考に流されがちな今こそ重要なエピソードです。これはJ・F・ケネディー元大統領が好んで引用したものですが、松浦事務局長のイニシアチブもまさにこの発想と軌を一にするものです。
それではこの目標は達成できるのでしょうか。目標までのちょうど中間点となるユネスコのGMRの2008年版によれば、EFA効果とも言うべき前進は見られるものの、それは一部の国に限られ、今のままでは多くの分野で目標の完全達成は困難と言わざるを得ないようです。例えばインドやタンザニアなど7カ国では初等教育の就学率が急速に進歩し、2005年の目標である初・中等教育におけるジェンダー平等はほぼ3分の1の国で達成されました。129カ国の中で、EFA目標の中で定量化できる4つの目標を達成もしくは達成間近の国が51カ国あります。53カ国が中間点にあり、25カ国は達成から程遠い状況にあります。この調査の時点で、初・中等教育を受けられない子供の数は減ったとはいえ7200万人、読み書きのできない成人は7億7400万人もいるのです。
GMRの試算では、EFAを達成するためには、110億ドルが必要とされています。しかしこれまで援助国からなされた援助約束がすべて実現しても、2010年に50億ドル程度しか確保できず、国際機関の援助を含めても、到底このギャップを埋めることはできそうにありません。今年オスロで開かれる閣僚レベルの会合では、この資金ギャップが重要な議題の一つになります。
しかし世界にはテロとの戦い、環境問題、保健衛生、災害援助など巨額の資金を必要とする案件が山積しています。途上国への援助も、インフラ整備や、エイズ対策など保健衛生状況の改善、技術援助その他いろいろな分野で強化が必要です。その中で教育に関するこうした6つの目標を達成するために、どこまでの資金をつぎ込む必要があるのかという素朴な疑問が生まれます。
ある資金を特定分野に投じるべきか否かの判断を行うひとつの手段は、経済学的なアプローチです。経済学では、教育は個人の能力を向上させ、社会の生産性を高め、経済成長を高める「投資」としてとらえます。人間を他の資本財と同じように「人的資本」とみなすのです。その限りにおいて教育の効果を数量的に把握することも可能です。それを他の分野への投資の効果と比較すれば、一定の資金をどこにつぎ込むのが最も効率的かを判断することは可能です。
英国がブレア政権の下で教育、とくに基礎教育の改善に力を入れてきたのも、それが労働生産性や国際競争力の向上に果たす役割を強く認識しているからです。EFAにおいても、基礎教育への資金の傾斜配分を主張しています。
しかし教育の効果について改めて考える必要があるように思います。教育には、経済発展への貢献としての「投資」だけでなく、生活の質の向上、個性や才能の醸成などによる満足度の向上という、経済学的にみれば「消費」に当たる側面もあります。そしてそれは更に個人の見識、教養、寛容性を育て、社会の安定や改革、異文化との対話に貢献するという面も無視できません。冒頭のルソーの言う教育も、下記に引用したダカール宣言が言う教育も、こうした広い意味のものなのです。経済面での「消費」には政府は援助をしないのが原則としても、こうした非経済面で効用があるなら、それは政府にとって意味のある投資になるでしょう。その意味で基礎教育のみに限られた資金を費やすことには疑問なしとしませんが、教育そのものへの資金投入は強化すべきです。
こうした教育の重要性は誰もが分かっていますが、結果が出るのに時間がかかること、それ以外に上述のような喫緊の課題が次々と現れ、メディアに報道されるので、各国の為政者の関心を維持できません。しかし何をするにも、目標を決めたら最後までそれをやり通す努力を続けねばなりません。ひとつひとつの目標に着実に全力を尽くすこと、その繰り返しによって初めて世界の大きな問題は解決されます。地味ではあっても教育の問題から手を抜いてはなりません。どんなに先であっても、タンザニアの漁村から世界的なシーラカンス研究者や環境専門家が生まれる日が来るのを待とうではありませんか。
ここでいう教育とは、知識を得、行動を起こすための学習、そして共に生きるための学習のみならず、学ぶという行為自体を含むもののである。即ち、個々人の才能並びに可能性を見出し、学習者の個性の開花を促進する教育であり、これにより個々の生活を改善し、社会を変革することを可能ならしめるものを指す。
(『ダカール宣言』2000年 第3パラグラフより)
国名 | 教育分野への援助 (A) |
基礎教育分野への援助 (B) |
比率 B/A |
---|---|---|---|
フランス | 1,537 | 279 | 18% |
日本 | 1,047 | 281 | 27% |
ドイツ | 760 | 146 | 19% |
アメリカ | 672 | 563 | 84% |
イギリス | 646 | 540 | 84% |
問:初等教育の普及にとって、十分な数の教師がいることが不可欠です。サブ・サハラ・アフリカでは、教師1人当たりの生徒の数が45人と、世界平均の25を大きく上回っていますが、それ以上に深刻なのが、教師の長期欠勤と死亡・退職です。その最大の原因は何でしょうか?
イ.栄養失調、 ロ.地域紛争 ハ.自然災害 二.マラリヤ ホ.エイズ
前号の答:リチャード・フロリダのglobal creativity indexの上位5カ国は、1.スウェーデン、2.日本、3.フィンランド、4.米国、5.スイス です。2005年の出版です。いくつもの指数の中で、日本は自己表現指数は低いものの、才能指数、技術指数、イノベーション指数、寛容性指数などで高い点をとっています。因みにドイツは10位、韓国は16位、中国36位、インドは41位です。
時間 | 内容 |
---|---|
10時00分 | 館内打ち合わせ |
11時00分 | アジア太平洋グループ・ビューロー会合 |
14時30分 | 館内打ち合わせ |
15時30分 | アジア太平洋グループ全体会合 |
16時00分 | 日仏協会新年会 |
17時00分 | 館内打ち合わせ |
18時30分 | ユネスコ本部での会議 |
20時00分 | ヨーロッパ大使主催夕食会 |
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イ.郵送:Permanent Delegation of Japan to UNESCO, 1, rue Miollis 75732 Paris, Cedex 15 FRANCE
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前回の「文化外交最前線」は、今回のシリーズと共に、外務省ホーム・ページ
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