文化外交(海外広報・文化交流)

文化外交最前線 [II]:ユネスコ編
―第9号―

2008年4月2日
ユネスコ大使 近藤誠一

はじめに

 平和というのは意味の無い空虚な言葉だ。我々にとって大切なのは栄光ある平和だ。

(ナポレオン)

今月のテーマ:リトリート

<ジョセフィーヌのお城>

 パリを出て、高層ビルが立ち並ぶラ・デファンス地区を過ぎると、細い曲がりくねった道が西へと長く続きます。このボナパルト街道と名づけられた通り沿いで、パリの中心から約20キロのところにあるのが、シャトー・ド・ラ・プティット・マルメゾンです。鉄の門から続く少しぬかるんだ道は、小さな池を越える橋につながり、やがて白い瀟洒な二階建ての建物が見えてきます。ここはナポレオンのお妃ジョセフィーヌが晩年を過ごした小さなお城で、彼女が世界中から集めたいろいろな植物が今でも残っています。

<日常から離れて>

 1月のある日、ここにユネスコ駐在の大使15人を招いて、リトリートを行いました。「リトリート」とは元々は退却とか隠遁などを意味する言葉ですが、次第にリゾート地など日常生活から離れた場所で、企業や国際機関の幹部などが泊りがけで集まり、長期的視野に立った議論をすることを指すようになりました。毎日の忙しさから逃れることで、新鮮なアイデアが湧いたり、人間関係を築くことができるのです。スイスのダヴォスで毎年開かれる「世界経済フォーラム」はその最も大規模で、かつ成功した例と言えましょう。雪に閉ざされたこの地に世界の各界のリーダーが集まり、その時々の重要なテーマが話し合われ、また廊下やレストラン、カフェ等で無数の貴重な会話がなされます。その年の国際関係の主なアジェンダはそこで決まるとさえ言われています。今年は福田総理もとんぼ返りながら行かれました。

<ユネスコの将来を語る>

 しかしユネスコでは、大使と事務局幹部の間にそのような機会がありません。普段毎日のように会議で顔を合わせていれば改めてリトリートの必要はないと考えたのかも知れません。しかしそれだからこそ、長期的なビジョンを話すための「場」が必要なのです。その思いを強くしたのが、前号でご紹介したユネスコ総会でした。3週間近くにわたり、連日多くの議題を議論し、いろいろな人と顔を合わせましたが、そこでは当面の議題についての意見交換や、コンセンサスを探るための水面下の政策調整が行われるばかりで、ユネスコの将来など長期的なテーマをじっくり語る時間も、心のゆとりさえ無かったのです。

 ユネスコが担当する平和や文化、教育などは、長期的視野無しには語れません。それこそ短期成果主義に流れがちな現代において、ユネスコが重要な役割をもつ所以なのです。それが総会のような重要な場で議論されなくて良いのかというのが私の強い問題意識でした。そこでユネスコ大使のリトリートを考えつき、すぐ実行に移したのです。

<日程調整と人選の悩み>

 しかしリトリートの実現はた易いことでないことが分かりました。予算、場所の設定、日程調整、人選、テーマの選定、資料の準備、食事やコーヒー・ブレークのアレンジ等、ひとつひとつが重要です。これらの殆どは代表部の部下たちが、通常の仕事をしながらやってくれました。親しい大使たちに相談した結果、人数を16人に絞ること、泊りがけは大変なので、日帰りにすることにしました。

 最大の悩みは人選でした。ユネスコは伝統的に6つの地域グループに分けられ、重要な委員会の構成は、すべての地域がバランス良く代表されるように配慮されています。またジェンダー・バランスも重要です。従ってあくまで非公式なリトリートとは言え、193人の大使の中から、長期的課題の議論に最も良く貢献してくれそうな大使を、地域バランス、男女バランス、そして先進国と途上国のバランスを保ちつつ選び、彼(女)らが全員都合のつく日を選ぶというのは並大抵のことではありませんでした。

 手帳にこっそり15-20人の意中の人の名前を書き、一人ひとり都合を聞いて回りました。しかし全員が都合の良い日がありません。一旦12月に予定したところ、ある有力大使が急に都合が悪くなりました。1月に決めた途端、その日にユネスコで臨時の重要な会議が開かれることになってしまいました。

<ユネスコの文化3条約>

 ユネスコには30を超える条約がありますが、最も知られているのが文化関連の3つです。世界遺産条約は、建築物や自然などで人類共通の価値があるものを世界遺産として登録して産業化の危機から保護することを目的とします。無形文化遺産条約の目的は、伝承文学や伝統芸能、民族舞踊など形とならない文化遺産の保護です。文化多様性条約は、各国・地域の文化の多様性を保護し、促進するために、各国政府が措置をとり、開発途上国を支援することを目的としています。

 これらはいずれも産業化、グローバル化が進む中で、各民族、国、地域の人たちのアイデンティティーの基になっている文化が押しのけられ、それを象徴 する文化遺産などが破壊されたり、消滅したりするのを防ぐため、国際的に協力しようという共通の目的をもっています。それが有形遺産、無形遺産、多様性の維持という3つの分野に分かれて条約になった訳です。

<成立の経緯と3条約の関係>

 しかし実は最初から全体像をもち、それを技術的・論理的に3つに分けたのではありません。先ず目につく有形の遺産で価値の高いものに注目して、世界遺産条約を作りました(1972年採択)。そしてグローバル化が進むうちに、人々の心にとって重要だが、有形遺産でカバーできない貴重な遺産もあるとの認識が高まって無形の条約を作りました(2003年)。やがて個々の遺産に価値があるか否かではなく、多様な文化が共存すること自体に価値があり、それを維持することが重要という認識が進み、多様性条約ができたのです(2005年)。

 しかし厄介なことは、相互に関連し、重複すらし得るこれら3つの条約の加盟国が同一でないことです。各条約の加盟国は独立に行動し、条約の目的実施のために独自の分担金を出すので、予算はユネスコ全体の予算と、条約加盟国が払う予算が組み合わさったものになります。事務局も世界遺産条約を扱う「世界遺産センター」は、他の部署よりもやや独立した運営を行っています。

 折角文化遺産や、多様性の保護という素晴らしい目的で活動していながら、法律的権限と予算という制度的違いがあるため、円滑な協力ができないのです。一種のセクショナリズムが事務局のみならず、加盟国にすらあるのです。政治的理由などで、ある条約には加盟しているが、他の条約に入っていない国は、自国の入っている条約の運営には熱心ですが、分担金としてユネスコ全体に払っている資金が、自国の入っていない条約の運営のために使われることを快く思わないという感情的要素もあります。

 そのため、本来であれば文化の役割を高め、平和につなげていくという高度な目的のために3つの条約を有機的に運営していかねばならないのに、実態はそうなっていないのです。リトリートで話すに相応しい長期的課題なのです。

<ビジビリティー>

 もうひとつのテーマは、ユネスコのビジビリティーの低さです。ユネスコは教育、科学、文化などの幅広い分野で、人の心を通して、長期的に平和を達成しようとする、ある意味で人間にとって最も本質的な仕事を担当しています。しかし扱う範囲が広いこと、目に見える現場の仕事が少ないことなどから、テロや経済など「事件」の報道に追われがちなメディアには報道され難いのです。例えば2005年にモハメッドの挿絵事件が大きな国際問題になりましたが、ユネスコが水面下で全会一致で収めたことはニュースになりませんでした。その結果世間が十分評価せず、予算低下につながるという危機意識です。ホーム・ページを充実させるなどの広報努力はやってきましたが、まだ不十分というのが加盟国の認識です。私は事務局だけに責任を押しつけるのではなく、加盟国やユネスコ国内委員会が協力してもっと自国の国民にユネスコの実績を紹介し、理解と支援を求めるべきとの立場でリトリート会合をリードしました。

<豊かな議論と今後>

 リトリートは無事に終わりました。いずれの問題も、明確な結論は出ませんでしたが、出席してくれた大使たちの理解と問題意識はかなり進みました。その証拠に、深夜まで議論が続きました。しかし16人の大使たちの相互理解、相互信頼が思った以上に深まったことが大きな成果でした。立場の違いはあっても、それを理解しあい、真剣に解決策を見出すための個人の信頼関係は外交の基盤だからです。

 どうすればユネスコがこうした障害を乗り越えて本来の目的を達成できるかは、我々大使たちが引き続き考えていくべき問題です。しかしこれは同時に世界全体が真剣に考えるに値する問題でもあると思います。

今月の引用

 しかしユネスコのような組織がその業務を成し遂げるためには、それ自身の一般的な目標や目的が必要であるだけでなく、それが扱う諸問題に対する明確なアプローチの仕方を規定するか、少なくともそれを示唆するような、人間の存在の目標と目的に関する、作業のための哲学や作業仮説が必要である。このような概括的な展望やアプローチなしには、ユネスコは個々ばらばらで、自己矛盾でさえあるような行動に陥る恐れがあろう・・・。

(ジュリアン・ハックスレイ『ユネスコ、その目的とその哲学』より))

:Julian Huxley(1887-1975)は、英国の生物学者で、ユネスコの創始者であり、かつ初代事務局長を務めました。作家のAldous Huxleyとは兄弟です。

今月の数字

 ユネスコ文化関連3条約加盟国数(2008年3月20日現在)
  世界遺産条約(1972年): 185ヶ国
  無形文化遺産条約(2003年): 93ヶ国
  文化多様性条約(2005年): 80ヶ国

今月のクイズ

 問:ユネスコの文化関連の上記3つの条約(世界遺産条約、無形文化遺産条約、文化多様性条約)のすべてに加盟している国は何カ国あるでしょうか。

 イ.24ヶ国、 ロ.35ヶ国 ハ.53ヶ国 ニ.66ヶ国 ホ.82ヶ国

 前号の答:ユネスコで正規職員として雇われている同時通訳の数は、(イ)の3人です。わずか3人とは驚きですが、予算の厳しい制約がその主な要因です。同時通訳は春と秋の執行委員会、2年に一度の総会(秋)のように朝から夜まで多くの会議が同時に開かれる時に集中的に必要になりますが、その他の時期は公式・非公式の会議がそれほど同時に開催されることはないこと、またアジアや中南米等遠方の加盟国で会議が開催される場合には、1件6人のチームのうち2人は現地(またはその地域)にいるフリーの同時通訳を雇うことで旅費を節約しているからです。最大時に必要な人数を常時雇用するより、需要に応じてその都度、フリーの通訳を雇う(いわゆるアウト・ソーシング)方が経済的なのです。パリには多くの一流のフリーの同時通訳がおり、長い経験からユネスコの専門用語も分かっている人が多いことも幸いしています。
 前回の総会では、内部・外部合わせて150人の同時通訳が動員されたそうです。

<大使の一日>〈2007年12月12日。実際の日程ですが、固有名詞は省略します〉

<大使の一日>
時間 内容
8時30分 講演会出席(日仏商工会議所)
13時00分 昼食会
16時00分 館内スタッフ・ミーティング(大使執務室)
18時00分 フランス人芸術家来訪(大使執務室)
18時30分 アジアの国主催レセプション
19時00分 中東の国主催レセプション
20時00分 公邸での夕食会

後記

ご意見やコメントは以下のいずれかにお寄せ下さい。

イ.郵送:Permanent Delegation of Japan to UNESCO, 1, rue Miollis 75732 Paris, Cedex 15 FRANCE
または、外務省広報文化交流部 国際文化協力室(〒100-8919 千代田区霞ヶ関2-2-1)

ロ.E-mail:seiichi.kondo@mofa.go.jp

前回の「文化外交最前線」は、今回のシリーズと共に、外務省ホーム・ページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/staff/index.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/index.html
でご覧になれます。

またユネスコ日本政府代表部のホーム・ページ, http://www.unesco.emb-japan.go.jp/他のサイトヘでは、英語版とフランス語版がご覧になれます。

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