文化外交(海外広報・文化交流)

文化外交最前線 [II]:ユネスコ編
―第1号―

2007年1月9日
近藤誠一

はじめに

 げに多くの枝によりて人のしきりに尋ね求むる甘き果は今日汝の飢えをしづめむ。
 ・・・・・
 わが登るの願ひ願ひに加わり、我はこの後一足毎に羽生いでて我に飛ばしむるをおぼえき

(ダンテ『神曲』「浄火」第27曲 山川丙三郎訳)

 パリに息吹く文化と、ユネスコという国際機関のもつ独特の使命からインスピレーションを得て、新年を機にこのニュース・レターを始めることにしました。ユネスコ大使として赴任してから3ヶ月。本省の文化交流部長の時に始めた「文化外交最前線」(2004年2月から2005年8月まで 全24号)の続編とお考え下さい。今回は「ユネスコ大使って一体何をやるの?」というご質問にお答えするべく、「大使の一日」という項目を加えました。
 本レターは外務本省、ユネスコ日本政府代表部それぞれのサイトにも掲載します。ご意見、ご質問など大歓迎です(詳細は末尾をご参照下さい)。

今月のテーマ:幸福について

<戦争の世紀に続くものは何か>

 20世紀は戦争の世紀と言われました。そこには21世紀こそ・・・という願いがありました。しかし現実の世界にはテロ、紛争が絶えず、日々の経済ニュースは人々を更なる競争へと駆り立て、社会ニュースは「いじめ」とスキャンダルばかりです。人々の顔はみなひきつっているように見えます。帝国主義による収奪の時代も、冷戦という緊張の時代も終わり、民主主義が広まり、科学技術が利便さを飛躍的に増し、個人は自由を謳歌しています。19世紀の人々が見たら羨む環境です。しかもローマ時代末期のように社会は退廃している訳ではなく、人々は真剣に生きています。それなのに「平和」という言葉には空虚さが伴い、「幸福」や「希望」を語ることが何か空々しいような時代になってしまいました。それは何故か・・・という問をじっくり考えるゆとりさえ無いままに、追われるように毎日が過ぎていきます。

<武器やお金で幸せはつくれない>

 グローバル化の下、人々の関心は専ら安全と経済利益を求める競争に集中しています。その結果、安全で経済が成長することが幸福であると思い込んでいるようです。幸福は自ら能動的に求めて初めて得られるもので、安全と繁栄はそれを得やすくする環境に過ぎませんが、今はそれ自体がひとつの目的になってしまいました。しかも戦う力とお金という基準だけで「勝ち組」と「負け組」に分けてしまうため、人の成功を妬み、自分と異なるものを憎む気持ちが増しています。それが一層の紛争、競争、格差の拡大を生み、それが新たな妬みを生むという悪循環に陥っています。ヒルティは言います。

 大きな財産の所有と管理、あるいは大きな名誉や権力を伴う地位は、ほとんど絶対確実に、およそ幸福とは正反対の、心情の硬化を導くものである。

(ヒルティ『幸福論』草間平作・大和邦太郎訳)

 幸福を求める上での手段が目的化し、そのことがかえって人々を幸福から遠ざけているのです。いまこそ、幸福は環境をつくって待っていればやって来るというものではなく、冒頭の引用にあるように「浄火」の険しい山を登ってこそ最終的に得られるものだということを再認識しなければなりません。それは決して難しいことではないはずです。旧石器時代、野獣の声と飢えと寒さに怯えつつも、あの素晴らしい壁画を描いたラスコーのクロマニヨン人たちや、貧しさの中でも歌を詠んで季節の移ろいと一体となっていた万葉の防人(さきもり)たちの心がいかに充実していたかを思い起こすべきです。

<好循環へのステップ>

 人々が心の充実感を取り戻し、それが寛容の心を広げ、紛争を減らし、競争を健全なものに変えていくという好循環に切り換えなければなりません。テロ対策の強化、大量破壊兵器の拡散の防止、途上国への経済協力の強化、貿易や投資のルール整備・・・いずれも大変重要な課題です。しかしそれらはあくまで一種の対症療法であって、これらの完成が自動的に幸せをもたらす訳ではありません。悪循環はある程度止まるかも知れませんが、好循環は始まりません。

 まず心の充実を実現しなければなりません。科学の知識や技術もその目的のために建設的に使えるはずです。そしてそれを世界中の人々に、そして我々の子孫一人ひとりに伝えていかなければなりません。これらをばらばらではなく全体的に扱い、そして国際的に力を合わせて進めなければなりません。ではどうすればそれが可能になるのでしょうか。

<心の豊かさを与える文化>

 好循環を始め、継続させるには4つのことが必要です。まず人々が自国(民族)の固有の文化を正しく理解し、そこに自信と誇り、すなわちアイデンティティーを見出していける仕組みをつくることです。それは各国の文化遺産や伝統、そしてその奥にある精神的価値観を、経済や貿易の価値ではなく、文化の価値として国際的に認め、保護する体制を整備することです。貧しい国々でもそれができるようにすれば、彼らは自信と誇りを取り戻し、国づくりに励む力を得るでしょう。旧植民地の人々も過去と訣別し、前に進む力を得るでしょう。

 それをやっているのがユネスコです。1972年の世界遺産条約、2003年の無形遺産条約、そして2005年の文化の多様性に関する条約という3つの条約は、まさにこうしたことを目的にするものです。ユネスコの活動では世界遺産が良く知られています。最近、戦闘によって破壊されたレバノンのビブロスという遺跡の修復に対し、専門家ミッションを派遣しました。日本も資金を出しました。

 しかし目に見える建造物だけでなく、各地の祭りや劇など、形になっていない「生きた文化」とその継承の重要性を国際的に再認識することを目的とする無形遺産条約は、とりわけ途上国のひとびとに自国(民族)文化への誇りと心の豊かさを与えるという観点で画期的な意味をもつものです。

<科学を如何にして人間の幸せに立てるか:科学者の倫理>

 科学技術の発達により知識は飛躍的に増大し、文明は繁栄し、生活は便利になりました。しかしそれは同時に原爆を生み、地球を危機に陥れ、そして人ゲノムの研究など人間の尊厳に関わる大問題を引き起こしつつあります。より強い武器と、より多くのお金を求める力が科学を引っ張っています。ナノ・テクノロジーなど、先端技術の進歩は止まるところを知りません。人が自分の役に立てるために発達させてきた科学が、いまや制御を失ってとんでもない結果を招くのではないかとの危惧が広がっています。科学が人類に役立つという本来の役割を果たす国際的仕組みをつくることが、好循環に重要な第二のことです。

 科学の健全な利用のための基準づくりは、ユネスコの仕事のもうひとつの柱です。個人の研究の自由とのバランスを考えながら、国や科学者個人に如何なる倫理を求めるべきかについて、専門家による真剣な討議がなされており、既に「科学者の地位に関する勧告」(1974年)、「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」(1997年)、「ヒト遺伝子情報に関する国際宣言」(2003年)、また2005年には「生命倫理と人権に関する世界宣言」が出されています。

<平和を能動的につくる力を未来の世代に伝える>

 好循環に必要な第三は教育です。グローバル化の下で、一般市民が心の準備が十分ないままに異文化や専門的科学の知識に晒されている今、政府や専門家の取り組みを直ちに世界の人々に広げ、子孫に語り継いでいくことが必要です。地球環境と経済発展を両立させるための「持続可能な開発」についても、市民各自が十分な知識と、自ら行動に参加する意思・能力をもつことが必要です。

 そのためには、貧しい途上国ではまず識字率の向上、初等・中等教育制度という基礎の整備が、先進国にあっては、高度でしかも専門に偏らない、総合的な知識と知見を市民に与えることが必要です。自国文化へのアイデンティティーが、狭いナショナリズムに向かわぬための広い視野を与える教育も重要です。

 ユネスコが今最も力を入れているのが教育です。EFA(万人のための教育)というテーマの下、2015年までに全ての子どもが無償初等教育を終えられるようにするという国連の目標や、持続可能な開発の重要性を広く市民が認識し、よりよい社会作りに参画するための力を育む教育(ESD「国連持続可能な開発のための教育」)を、他の国際機関と協力して推進するリーダーの役割を任されています。

<自由な情報の流れ>

 第4に、上で述べたような重要な課題が正しく世界に伝わり、市民の理解と行動に結びつけるためには、教育に加え、自由で公正な情報の流れを確保することが重要です。コミュニケーションはユネスコの4つ目の柱です。

 1月8日、ユネスコは、イラクにおいて民主化に不可欠な、自由で公正な報道体制を打ち立てるにはどうしたら良いかを話し合う会議を、イラクのCMC(コミュニケーション・メディア委員会)等を招いて行い、勧告を出しました。日本政府もメディア関連機材の提供、新聞記者の訓練などをイラク援助の一環として行ってきましたし、私はそのことをこの会議で発言し、注目されました。

<ソフト・パワーとユネスコ>

 60年前、戦争の惨禍を繰り返すまいと誓った世界のリーダーたちは、国連とブレトン・ウッズ体制(世界銀行、IMF=国際通貨基金、GATT=貿易と関税に関する一般協定など)をつくって安全保障の確立と経済復興を目指しました。しかしそれだけでは十分でないと考えて、文化、教育、科学、コミュニケーションの分野における国際協力を通じて、平和を能動的につくっていく力、即ちソフト・パワーを包括的に担う組織としてユネスコを創ったのです。

<日本外交とユネスコ>

 外交の目的は、国民が心の充実した生活を送るに必要な安全と繁栄を守ることです。しかし安全保障にはテロ対策や貿易交渉のような短期的政策だけでなく、自国がその文化や品格を通して、世界から信頼され、尊敬され、愛される国になるという長期的な政策も必要です。特に日本にはそれに必要な文化的・精神的資産があります。世界中が目先の政策にとらわれている今、長期的視野に立って、心の充実を基礎とする好循環をつくることに貢献することで、その安全保障の厚みが増し、そして世界の平和に貢献するでしょう。「ソフト・パワー」において日本外交とユネスコの接点は極めて大きいのです。

今月の引用

 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」(ユネスコ憲章(1946年)前文より)

 平和や幸福は物理的環境や政治制度を整えて待っているだけではやって来ません。我々が能動的につくろうとしなければなりません。文化の価値の再認識とアイデンティティーの確立、科学における倫理の確立、教育によるそれらの伝達、公正なコミュニケーションが、ひとの心から憎しみを取り除き、寛容の心をつくります。それが「平和のとりでを築く」という意味なのです。

今月の数字

 ユネスコ加盟国(2007年1月1日現在):191(国連加盟国と若干の出入り)
 ユネスコ予算(2006年度):305百万ドル(わずか430億円です)

今月のクイズ

 問:日本がユネスコに加盟したのは何年でしょうか?(正解は次号)

 イ. 1946年 ロ. 1951年 ハ. 1956年 ニ. 1964年 ホ. 1979年

<大使の一日>(2006年9月26日。実際の日程ですが、固有名詞は省略します)

<大使の一日>
時間 内容
9時00分  ASPAC(アジア・太平洋地域グループ)の調整会合出席
13時00分  ランチ(オフィスでサンドウイッチ)
15時00分  ジュネーブ・グループ会合出席(G7,ロシア,豪州など大口拠出国の集まり)
15時30分  韓国代表部大使への着任挨拶訪問
16時30分  ユネスコ事務局次長への表敬訪問
17時30分  スタッフ・ミーティング(代表部内での打ち合わせ)
20時30分  夕食(近くのカフェで)

後記

ご意見やコメントは以下のいずれかにお寄せ下さい。

イ.郵送:Permanent Delegation of Japan to UNESCO, 1, rue Miollis 75732 Paris, Cedex 15 FRANCE
または、外務省広報文化交流部 国際文化協力室(〒100-8919 千代田区霞ヶ関2-2-1)

ロ.E-mail:seiichi.kondo@mofa.go.jp

前回の「文化外交最前線」は、今回のシリーズと共に、外務省ホーム・ページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/staff/index.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/index.html
でご覧になれます。

またユネスコ日本政府代表部のホーム・ページ, http://www.unesco.emb-japan.go.jp/他のサイトヘでは、日本語版に加え、英語版とフランス語版も掲載されます。

このページのトップへ戻る
目次へ戻る