外交史料館
『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第二冊上・下』
(大戦の諸相と対南方施策)
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- 一 大戦にかかるわが方方針
- 二 大戦をめぐるわが方措置
- 三 大戦に伴う英国の通商制限措置への対応
1 対独通商報復令への対応
2 日英通商調整交渉 - 四 大戦をめぐる諸情報
1 独波開戦に至る経緯
2 開戦後の諸情勢 - 五 蘭印問題
1 大戦勃発に伴う蘭印保全と対蘭経済要請
2 蘭印の現状維持に関する有田声明
3 小林特使による日蘭会商 - (以上,上冊)
- 六 タイ・仏印国境紛争への調停問題
- 七 仏印問題
1 日仏印経済協定の成立
2 南部仏印進駐 - 八 南進問題をめぐる英米との関係
1 極東危機説
2 資産凍結措置への対応 - 日付索引
(以上,下冊)
4 芳沢特使の蘭印派遣と第一次提案をめぐる協議
5 第二次提案の提出と日蘭会商の打切り
6 会商打切り後の対蘭印交渉
本冊の概要
一 大戦にかかるわが方方針 (25文書)
本項目では,日本政府の大戦への対応方針に関する文書を採録しています。
昭和14(1939)年9月に欧州大戦が始まると,日本政府は9月4日の閣議で,公式の中立宣言は行わないが事実上の中立を維持することを決定し,「今次欧州戦争勃発ニ際シテハ帝国ハ之ニ介入セス専ラ支那事変ノ解決ニ邁進セントス」との声明を発出しました。
その後,欧州大戦をめぐる対外政策の方針策定が外務省を中心に進められました。この調整は難航し,ようやく12月28日に「対外施策方針要綱」が外陸海三省で決定され,「参戦ヲ得策トスルノ時期到来スレハ格別差当リハ不介入ノ方針ニ則リ」,「南方ヲ含ム東亜新秩序ノ建設ニ対シ有利ノ形勢ヲ醸成スル如ク施策ス」との対処方針が定められました。
昭和15(1940)年春以降の欧州戦局の変動や仏印(フランス領インドシナ)における援蒋ルート禁絶の実現は,日本国内に南進論の台頭を来したため,有田八郎外相は南方施策の指針を示す声明発出を閣議に諮りました。これに対し内閣では,外相ラジオ演説の形式で公表を進め,6月29日に「国際情勢ト帝国ノ立場」という演説が放送されました。
第二次近衛文麿内閣が発足すると,松岡洋右外相は8月1日,「大東亜共栄圏の確立」を外交方針に掲げた談話を発表しました。また,日独伊三国同盟締結直後の9月28日,外務省は「帝国外交方針要綱」を策定しました。同要綱では,独伊枢軸との提携強化と日ソ国交の飛躍的改善調整により,独ソの圧力を利用しつつ日中全面和平の実現を期し,これによって大東亜共栄圏確立を促進することをめざし,このような日本の対外体制強化に伴い,英米に圧力を加え,機を見て独英講和を斡旋し,さらに日米国交の一大調整を断行し,世界平和の再建を期すとの方針が示されました。
二 大戦をめぐるわが方措置 (99文書)
本項目では,日本政府の大戦をめぐる諸措置に関する文書を採録しています。
昭和14(1939)年5月18日,平沼騏一郎総理は米国政府に宛てたメッセージを一時帰国するグルー米国大使に託し,米国政府に対して「欧州での戦争を未然に防ぐため,欧州紛争の圏外にある日米両国が世界平和に向けて提携・協力すべき」との提議を伝えました。これに対し米側は8月8日,ハル国務長官が「欧州諸国,殊に日本が特別な関係を有する諸国が平和を乱す行動や政策を実行しようとする際に,日本の力でこれを阻止すれば米国政府は欣快であるが,世界平和の樹立・維持は,今日極東に存在する継続的武力抗争によって一層実現困難となっており,極東の異常状態が欧州不安を醸成していると感じている,従って極東における武力抗争の解決に尽力することが緊要であり,各地紛争の平和解決が世界平和の重要な第一歩である」との書簡を返し,日本の提議を婉曲に拒絶しました。
9月に欧州大戦が始まると,外務省は在留邦人の引揚げ措置に追われ,ワルシャワでは9月5日に引揚げ命令が発出されました。また9月14日には欧州向け旅行者への外国旅券発給が制限されました。ポーランドは独ソ両軍によって占領されましたが,外務省は「英仏両国の対独軍事行動が継続中の現状では,国際法上の征服とは認められない」との法理論から,「ポーランドは未だ消滅していない」との見解をとり,パリで樹立された仮政府を継承政府と認定しました(日本がポーランド消滅を認めて日本大使館を廃止したのは,独ソ開戦後の昭和16(1941)年10月3日)。
昭和15(1940)年1月21日,房総半島沖で英国軍艦が日本郵船の浅間丸を臨検し,乗船独国人21名を実力で抑留する事件が起きると,日本は英国に厳重な抗議を行い,抑留独国人の引渡しを要求しました。英国はこの事件が日本の世論を刺激したことに遺憾の意を表し,軍務に適さないと判明した独国人9名を引渡すと回答し,日本は全員の引渡しを留保しつつも一応の解決を見ました。
昭和15年春以降,独軍の占領地域が拡大すると,独国は「オランダ政府はもはや存在せず,理論的には蘭本国でも植民地でも重要問題は独国政府へ交渉するほかない」と主張しました(6月6日)。日本はこの独側見解には不同意でしたが,強く反駁することを控え,独軍が現に占領している地域における問題については独国と交渉する用意があると回答しました(6月21日)。また独国は,占領したノルウェー,オランダ,ベルギー,ルクセンブルグから外交代表を引揚げるよう関係国へ通報しました(7月1日)。日本は領事事務担当官の残留容認を条件に独側要求を応諾しました。一方,ソ連もバルト三国併合に伴い,日本側公館の引揚げを要求しました(8月11日)。ソ連の態度は強硬で,モスクワや東京での日本の要請に応じず,日本側公館はすべて閉館となりました。
日独伊三国同盟締結後、特に昭和16年に入ると,世界各地の英国領では,日本に対する厳しい対応が続出しました。パレスチナでは日本の外交伝書使が外交行嚢を開封される事件が起き,エジプトではポートサイドなどの領事館が閉鎖に追い込まれました。北ボルネオの諸港は閉鎖され,インドでは日本の公館に対してのみ暗号電報が禁止されました。外務省は英国に対してこれらの改善を要求するとともに,日英関係の悪化等に鑑み,欧州方面へ引揚げ船を回航して,在留邦人を引揚げる計画を立てました(昭和16年9月上旬)。しかし,軍部が欧州方面への回航に反対したため,取り止めとなりました。
三 大戦に伴う英国の通商制限措置への対応
本項目では,大戦中に英国が行った通商制限措置への日本側対応に関する文書を,2つの小項目を設定して採録しています。
英国は欧州大戦勃発以来,戦時禁制品の取締措置を進め,昭和14(1939)年11月21日には,中立国船舶による独国産品に対し輸出阻止の措置を講じる旨を声明しました。日本政府は24日,同措置が中立国の正当な通商を妨害するものとして英国政府へ厳重抗議を行いました。しかし英国は28日に対独通商報復令を公布し,敵国原産の貨物は,船舶が12月11日以前に中立港を出帆し,その載貨が完全に中立貨となっている場合ないしは,11月27日以前の契約品でありその船舶が翌年1月1日以前に中立港を出帆した場合を除き,すべてを英国が差し押さえると定めました。
外務省は関係省と協議の結果,英国措置不承認の立場を堅持しつつ,官用貨物(陸海軍の管理する工場用資材を含む)ならびに独国以外より輸入不可能な貨物は新規契約も輸送自由とし,民需貨物も11月28日現在で既契約ならば積み出しを承認するよう英国政府へ善処を要望することとしました。重光葵大使は12月4日に英国外相と会談して,対独通商報復令の適用に当たっては現実的な対応を望む旨の覚書を提出しました。
昭和15(1940)年春以降,戦局が厳しくなるにつれ,英国の対独経済封鎖は強まり,これが戦争に勝つ唯一の方法であり,そのためには中立国に不利不便を与えてもやむなしとの姿勢を示すに至りました。そこで日本は積み出しを絶対必要とする貨物に止め,積載船舶数を8隻に限定して交渉しました(4月3日)。英国の現実的対応により日本船は逐次出帆許可を得ましたが,最終船として交渉中の長良丸が英国の完全な同意を得ないまま,多量の水銀を積載して出帆したところ,9月下旬,コロンボにおいて積荷の水銀を押収されるに至りました。
英国は対独開戦とともに,自治領や植民地政府を含め,厳重な貿易管理を実施したため,これら英領地域への日本の輸出は困難となり,原料資材の輸入も甚大な支障を受けました。そこで日本は昭和15(1940)年4月,日英通商調整の交渉開始を提議しました。これに対し英国は,独国が戦争遂行上必要とする物資の対独供給阻止を希望し,他方で日英支払協定の締結交渉を提議しました。
これら諸案件に関する包括的な日英協議は5月以降に本格化しました。日本が通商制限措置の緩和を要求すると,英国は日本の希望に応じる用意はあるが,対独輸出規制に関する日本側の保障がなければ制限緩和には応じられないと回答しました。重光大使は英国の要望する対独輸出規制に応じない場合には英領からの原料品輸入に影響が及ぶことを懸念しましたが,英国は英領からの輸入のみならず,第三国からの輸入についても対独再輸出阻止を要求したため,日本側は英国の希望には応じず,協議は平行線を辿りました。
一方,日英間の為替関係を調整するための支払協定については,英国が通商調整交渉よりも支払協定の解決を先決問題とするよう求め,通商交渉を中断して協定締結交渉が進められました。日本側は日英貿易を活発化し貿易量を増やしたいとの意向から,英国案を基礎とすることを容認するなど,譲歩を重ねて支払協定の交渉を継続しました。しかし昭和16(1941)年5月,英国が貿易に関する一般討議と切り離して支払協定のみの締結に固執したため,協定交渉は物別れに終わりました。
四 大戦をめぐる諸情報
本項目では,各地在外公館から寄せられた諸情報を,大戦勃発以前と勃発以後の2つの時期区分を設けて,関係文書を採録しています。
昭和14(1939)年春,独国はポーランド(波蘭)に対し自由都市ダンチヒ(現在のグダニスク)の独国への編入と,飛び地となっていた東プロイセンと独本土を結ぶ治外法権道路をポーランド領内に建設することを要求しました。この要求にポーランドは応じませんでしたが,その頃から独国によるポーランド侵攻計画の風説が広まりました。これに対しチェンバレン英首相は3月31日,ポーランドの独立を脅かす事態が発生し,ポーランドが抗争する場合,英国は即時全力でポーランドを支援すると声明しました。
一方,英国は東欧における独国の攻勢を懸念し,仏国との同盟関係にソ連を加えて独伊両国に対抗すべく対ソ交渉を活発化させました。4月22日,クレーギー駐日英国大使と会見した有田外相は,英ソ提携が東洋に及ぼす影響は甚大であり,日本は英ソ提携に強い関心を有すると注意喚起しました。クレーギー大使は欧州の平和維持のためソ連との提携はやむを得ざる選択であると説明し,日独伊三国関係の強化が実現すれば日英国交調整の余地がなくなる旨を強調しました。その後4月27日に重光大使と会見したハリファックス英外相は,英ソ提携は欧州問題に局限されることを告げ,日英関係改善を常に念頭に置いていると述べました。
一方,独国はこのような対独包囲政策に反発し,4月28日,独波不可侵条約と英独海軍協定を破棄する旨をヒトラーが演説で明らかにしました。ポーランドのベック外相は,独波条約を廃棄されても独国の要求には屈しない姿勢を堅持しました。ポーランドは対独関係改善に日本の調停を期待していましたが, 5月13日,調停に関してポーランド外務省から照会を受けた酒勾秀一在ポーランド大使は「日本は独波両国関係の改善を希望するが,効果が期待できない斡旋には意味がなく,独国の態度に鑑みれば斡旋は時宜に適せず」と回答しました。
5月22日には独伊間に同盟条約が成立しました。6月中旬,白鳥敏夫在伊国大使と会談したチアノ伊外相は,同盟条約には相互の勢力範囲に関する秘密協定があるわけではないが,最も関心を有する地方については暗黙の了解があると説明し,その範囲は独国がバルチック諸国,ポーランド,ウクライナ,伊国が地中海のすべての地域であり,ルーマニアやハンガリーは共同地帯と定めたと内話しました。
英国とソ連の提携交渉は4月以降続けられてきましたが,8月に入っても何らの成果を生みませんでした。その中で8月22日にリッベントロップ独外相が独ソ不可侵条約署名のためモスクワを訪問することが報道されると,英国世論は唖然となり,失望と対ソ不信に包まれました(独ソ不可侵条約は8月23日成立)。この緊迫する情勢下で,山路章在ウィーン総領事は欧州大戦の勃発は避けがたいとの観測を東京へ打電しました(8月23日)。
8月24日,ダンチヒ市長にフォルスターが就任すると,ポーランドはもしダンチヒが一方的に独国に編入されれば対独戦争となるとの見解を示しました。翌25日には英波相互援助条約が成立し,独波が開戦すれば英国が参戦することが確認されました。ポーランドは戦争を覚悟して動員を急ぎ,時局収拾に向けた英独間の外交交渉は完全に行き詰まりました。8月31日,独政府はポーランド政府が対独直接交渉に応じる姿勢がないことを非難し,対波交渉を打ち切ると発表しました。同日夜,独外務次官は大島浩大使の質問に対し,戦争は避けがたいと回答しました。
昭和14(1939)年9月1日早暁に独軍のポーランド侵攻が開始されると,1日正午にベック外相は酒勾大使と会見し,あくまで抗戦する覚悟を語りました。英仏両国は1日夜,独国政府へ即時撤退を要求しましたが,翌2日,大島大使と会見したスターマー(独外相の側近)は,独国が右要求に応じる意思はなく英仏の参戦を予期すると語りました。3日正午,英国は独側から満足な回答がないとして独国と交戦状態に入った旨を宣言し,仏国も同様に3日午後5時に参戦しました。
この間,白鳥大使は伊外務次官と会談し,英仏が参戦しても伊国は中立を保持する方針である旨を確認しました(9月1日)。一方,米国は5日に中立を宣言しました。内山岩太郎在アルゼンチン公使は同国外相との会談(5日)で,もし米国が参戦したとしても南米諸国は大半が中立厳守に傾くとの見通しを聴取しました。5日に大島大使と会見したリッベントロップ独外相は,独軍は戦闘を優勢に進めており,英仏との戦争が長期戦になっても十分の準備があると自信を示しました。また9日に白鳥大使と会見したチアノ伊外相は,英国の態度は強硬で和平実現の可能性は乏しく,戦争は長期化するとの見通しを語りました。
9月11日には東郷茂徳在ソ連大使から,ソ連軍が西方へ進んでいるとの情報が報告され,ソ連軍は17日にポーランド東部へ侵攻しました。その後,東郷大使は独国大使から,独ソ両国がポーランド占領地域に国境を設定した旨の説明を受けました(9月29日)。さらにソ連軍は11月下旬にフィンランドへ侵攻しました。米国はソ連の軍事行動を非難しましたが,堀内謙介在米国大使は「米国は参戦を望んでおらず,ソ連との国交断絶や大使召還を敢行する決意はない」との見通しを報告しました(12月2日)。その後も堀内大使は「米国はソ連との関係悪化を恐れている,しかし積極的な対ソ接近を図って日本を牽制するようなことはしないだろう」と報告しました(昭和15(1940)年3月19日)。
欧州戦局はポーランド降服後,独と英仏のにらみ合いが続いていましたが,昭和15年春になると独軍は攻勢に転じ,4月9日にデンマーク,ノルウェーへ,5月10日にはベネルクス三国へと侵攻しました。重光大使は「独軍の蘭白侵入は英仏との直接武力衝突を招くであろうが,独国は相当の決意をもって進撃した」との観察を示した上で,「もし独軍が陸上において優勢となっても,海上では英仏の優勢は動かぬものと見るべきであり,ソ連の動向に注意すべし」との意見具申を行いました(5月13日)。その後も重光大使は「戦局は独軍優勢であるが,英国は中途半端な講和をなすことは絶対になく,たとえ欧州を引揚げても植民地を通じて徹底抗戦の構えである,もし戦局の進展により,英国や蘭国の政府が本国から東亜の海外領土に移るようなことになれば,東亜の安定に関係する重大問題となるので,東亜における植民地を欧州戦争の取引の目的とするような情勢は確固たる態度で否認する必要がある」との意見具申を行いました(6月5日)。
オランダ、ベルギーを席捲した独軍はフランスへと侵攻し,6月10日に仏国政府のパリ退去・ツール移転が決定すると,在仏日本大使館も翌11日ツールに近いヴェルヌーへと移転しました。さらに日本大使館は退避する仏国政府を追ってボルドーへ移り,22日に独仏停戦協定が結ばれて仏国政府がクレルモン・フエランとヴィシーへ分在移転すると,日本大使館もラ・ブールブールへ,さらに7月6日にはヴィシーへと移転しました。
五 蘭印問題
大戦勃発から太平洋戦争開戦に至るまでの蘭印(オランダ領インドシナ)をめぐる日蘭間の交渉を6つの時期区分を設けて関係文書を採録しています。
オランダは大戦勃発後も,その中立に関しては他国よりの条約的保障を希望しないと表明していました。これに対し日本は,蘭印の領土保全を条約の形式で再確認すれば,蘭側はこれを多とし,日蘭間の経済関係調整交渉に好影響が期待できると考え,蘭側の意向探査に努めました。石射猪太郎在オランダ公使は当初,現状で蘭側が条約締結に応じる見込みはないとの観測を報告しましたが,独軍の蘭領侵攻の可能性が喧伝されると,蘭印保全の条約締結交渉を開始すべきと意見具申しました(昭和14(1939)年11月11日)。
しかし外務本省は,まず蘭印との経済関係調整と欧州戦禍の蘭印波及防止に関する日本側意向を蘭側へ申し入れるよう訓令し,11月23日,石射公使は訓令を実行しました。その後,日本側は経済関係調整に関する取極要綱を蘭側に示して回答を求めましたが,蘭側は日本側提議が広範であることを理由に容易に回答を示しませんでした。またこの間,石射公使は日本側には蘭印領土保全に関して何らかの国際約束をなす用意があると蘭外相へ示唆しましたが,蘭外相は「蘭印保全は1922年の太平洋に関する四国条約で保障されているので日本の保障を希望しない」と回答しました。
昭和15(1940)年4月9日,独軍がノルウェーとデンマークに侵攻し,オランダもいつ戦争に巻き込まれるか分からない情勢となると,日本は戦禍が蘭印に及ぶことを危惧し,4月15日,有田外相は「欧州戦争ノ激化ニ伴ヒ蘭印ノ現状ニ何等カノ変更ヲ来スガ如キ事態ノ発生ニ就イテハ深甚ナル関心ヲ有スル」との談話を発表しました(いわゆる有田声明)。これに対し米国各紙は日本が蘭印を支配する意図を婉曲に述べたものと報じたため,堀内大使はハル国務長官と会見して注意喚起を行いました。ハルは日本の新聞の一部には蘭印に対する経済上の独占的利益を主張しているとの印象を持つが,そのような主張は黙認できないと反論しました。
さらに5月10日に独軍がオランダ・ベルギーに侵攻すると,有田外相は翌11日,蘭独英仏の各国政府に対し蘭印の現状維持に関する日本の意向を通報しました。またその一方で有田外相は,オランダ政府から蘭印産品の対日供給につき確約を取り付けるよう石射公使へ訓令しました。しかし戦乱により石射公使の訓令執行が確認できなかったため,東京とバタビア(現在のジャカルタ)において折衝が行われ,その結果,石油・ゴム・錫等13品目の蘭印産重要物資につき一定量の対日供給を確約する書面を在本邦パブスト蘭公使から取り付けました(6月6日付)。
国際情勢の推移に伴い,日本国内では,蘭印における日本の経済的・政治的な優越地位を確立するため,蘭印に特使を派遣して交渉すべしとの意見が高まりました。昭和15(1940)年7月中旬には酒勾大使の派遣が閣議決定されましたが,米内内閣の退陣で白紙に還り,近衛内閣になって小磯国昭前拓務大臣の名前が挙がりました。しかし軍事力を背景とした強硬な交渉姿勢が喧伝されたため蘭側が反発し,結局8月下旬に小林一三商工大臣を代表とする使節団の派遣を決定しました。また日本政府は石油資源獲得を特に重視し,三井物産の向井忠晴を石油業者代表として蘭印へ派遣しました。
バタビアでの日蘭会商は,9月12日から開始されましたが,日独伊三国同盟の締結(9月27日)によって蘭側が硬化したため,小林代表は具体的な交渉に入ることができず,10月16日に三国同盟は日本と蘭印の友好関係を阻害するものではないとの共同コミュニケを発出して,同21日には帰国の途に就きました。他方で向井石油業者代表の交渉は11月に一応の妥結を見ましたが,石油の対日供給量は日本側の満足できるものではありませんでした。なお,会商は代表不在中も在バタビア斎藤総領事を中心に引き続き進められることとなりましたが,蘭側は代表の再訪まで会商を一時中止するよう日本側に求めました。
日本は昭和15(1940)年11月下旬,小林代表の後任として芳沢謙吉元外相の派遣を決定し,会商の中止を一方的に声明しないよう蘭側に求めました。芳沢代表は12月28日にバタビア到着,昭和16(1941)年1月16日に具体的要求事項(第一次提案)を提示しました。蘭側は日本側提案を検討した上で対案を提出すると約しましたが,1月21日の松岡外相議会演説に強く反発し,日本が蘭印を仏印やタイと同列において総括的な指導権を主張することには承服できず,対案提出も再検討するとして,会商は停滞に陥りました。また日本側は,石油問題を特に重視し,石油問題に関する交渉を石油業者代表によって別途に行いたいと提議しましたが,蘭側は石油の購買問題は既に解決済みであると答えて,これに難色を示しました。
2月3日に至り蘭側が対案を提示し,ようやく双方の提案事項に基づいた細目協議が17日から始まりました。細目協議は入国,企業,通商など問題ごとに逐条的に進められました。協議に当たった石沢豊在バタビア総領事は,折衝を通じて「蘭側は日本側提案があまりに大規模で,蘭印を日本の管理下に置かんとする底意があるとの疑惑や不快を有しており,蘭印の対日態度は英米とは無関係であると述べているが,英米が対日物資供給を断絶すれば蘭印も追随するだろう」との感触を得て,これを東京に報告しました。このような蘭側の対日態度に鑑み,芳沢代表は日本側提案の全面承諾は実現不可能であり,要求を緩和した第二次提案を提出すべきとの意見具申を行いました(3月17日)。
第二次提案の作成を含む日本側の全般的交渉方針は,松岡外相が訪欧中の事情もあって簡単には定まらず,昭和16(1941)年5月上旬に至りようやく決定しました。方針決定に至る過程では,外務本省が「国際情勢の推移(日米交渉の先行き)を勘案しつつ,時機を見て第一次案に近い修正案を提出すべき」と主張したのに対し,芳沢代表は「国際情勢の好転を楽観視すべきではなく,着実に獲得できるだけのものを確保すべき」と主張しました。現地からの報告では,蘭側は対日供給物資が独国へ再輸出されることを懸念し,日本内地における実需の限度までの輸出を許可する方針であり,特にゴムと錫に関しては会商を打切りにしてもこの方針を辞さない態度でした。芳沢代表は近く武力解決を図る意向でなければ多少の不満があっても蘭側との妥協を計るべきとの意見でした。これに対し外務本省は,資源確保を急務とする国内事情に配慮し,対日輸出量についてはできる限り増大をめざすよう訓令し,入国・企業等については芳沢代表の意見を容れて要求の緩和を認めました。このような経緯を経て,第二次提案は5月14日に蘭側へ提出されました。
第二次提案に対する蘭側回答が遅延する中,日本の各新聞は蘭側が日本を満足させるような回答を示さないと予想し,蘭側の不信を論難するプレスキャンペーンを展開しました。蘭側回答は6月6日に手交されましたが,日本側提案にほとんど歩み寄りを示さない内容で,日本側にとって満足できるものではありませんでした。外務本省は芳沢代表の請訓に対し,蘭側回答への応諾は不可能であり,これを基礎に交渉を継続しても無意味であると認め,蘭印総督に再考を求め,再考の余地がない場合には会商を打切るよう芳沢代表へ回訓しました。6月17日,芳沢代表は訓令を執行し,総督が再考不可能と回答すると,会商の打切りを通告しました。また芳沢代表が,日蘭印間の通常の経済関係は維持することが望ましく,経済問題の各事項については今後も石沢総領事が折衝に当たる用意がある旨を述べると,総督はこれに同意しました。芳沢代表らは6月27日にバタビアを発ち帰国しました。
蘭印では昭和16(1941)年7月中旬になると,日本が南部仏印に基地を求めているとの報道に関心が高まりました。南部仏印進駐に対して英米両国が対日資産凍結を実施すると,蘭印政府もその直後の7月28日,対日為替取引を停止し,日本(満州国・中国・仏印を含む)への輸出を全面的に許可制とし,蘭印にある日本人の資金を凍結すると日本側へ通報しました。石沢総領事は蘭印政府の要路と接触した感触として,南部仏印進駐を受けて蘭印側が対日政策を根本的に再検討する意向であると報告しました。特に蘭印政府は石油試掘契約の調印拒否や日本船舶による石油搬出の拒否など,対日石油政策での硬化が顕著で,蘭印要路の中には「日本が三国同盟を脱退して中立を守り,南部仏印から撤兵しない限り,日蘭印関係の改善は不可能」との見解を私的に内話する者もいました。
日本側は蘭印政府に対し,凍結資金の解除や対日輸出許可の新方針提示を求めました。これに対し蘭印側は,不安定な国際情勢に鑑み,具体的態度は決定しがたいが,差し当たり可能な範囲内でバーター取引をなす用意があると回答しました(10月8日)。日本側では11月中旬に至って,定期的配船によるバーター貿易の実施を蘭側へ提議しましたが,それと併行して資金凍結によって打撃を受けた在留邦人の大規模な引揚げを進めました。
六 タイ・仏印国境紛争への調停問題 (41文書)
欧州戦局が伊国参戦などで激化しつつあった昭和15(1940)年6月12日,英仏両国はタイとの間に不可侵条約を締結し,日本も同日,日タイ友好和親条約を締結しました。その後に起きた仏国の対独降服や日本軍の北部仏印進駐は,タイの対仏態度の硬化を招き,歴史的な経緯があるタイと仏印の国境紛争が再燃しました。日本は11月5日の四相会議でタイの失地回復要求に好意的考慮を払うことを決定し,さらに11月21日には双方の調停に乗り出すことを四相会議で決定しました。これら決定の背景には日本の軍部内に日タイ軍事同盟締結の気運があり,12月26日の大本営政府連絡懇談会では,速やかに日タイ間に政治軍事協定・経済協力協定の交渉を開始することと,仏国に対し仏印に関する経済・軍事・政治的要求を提示し,タイとの国境紛争解決を要求することを決定しました。
昭和16(1941)年1月初めにタイ軍が仏印への大規模な進軍を行い,1月16日に仏印軍の反攻を受けると,タイは日本に援助を求め,日本は1月19日の大本営政府連絡懇談会で「泰仏印紛争調停ニ関スル緊急処理要綱」を決定し,双方に調停を申し入れました。その結果,1月31日に停戦が成立し,2月7日から東京で国境紛争調停会議が開催されました。調停交渉は難航し,停戦期間を2度にわたり延長して協議が続けられました。その結果,3月6日に原則的合意が成立し,5月9日に仏タイ平和条約が調印されました。日本はこれと同時に仏タイ両国と保障及び政治的了解に関する議定書を結び,日本に対抗する性質の協定を第三国と締結しないとの確約を両国から取り付けました。
七 仏印問題
本項目では,北部仏印進駐実施後における仏印問題の関係文書を, 2つの小項目を設けて採録しています(北部仏印進駐までの仏印問題関係文書は,『日本外交文書 日中戦争』の「九 援蒋ルート遮断問題 1 仏印ルート」で採録)。
昭和15(1940)年8月30日に成立した,仏印に関する松岡・アンリ往復書簡(『日本外交文書 日中戦争』で採録)には,日本・仏印間の交易を増進し,日本国民に対し仏印において第三国に比し優越する地位を保障するため,速やかに日仏間で協議する旨が規定されていました。そこで日本は15年10月,松宮順特派大使をハノイへ派遣し,仏印総督と数次にわたって意見交換を行いました。しかしこのハノイ交渉は結果的に予備協議にとどまり,仏印側の要望もあって,正式交渉は東京で12月30日から開始されました。松宮大使と元仏印総督ロバンを首班とする日仏全権団の交渉は昭和16(1941)年5月6日に妥結し,仏印に関する日仏居住航海条約をはじめとする諸協定が調印されました。日本政府はこれら協定の成立を受けて,仏印における資源開発を実現すべく現地への調査団派遣を閣議決定し(6月18日),10月より現地調査を開始しました。
2 南部仏印進駐 (76文書) 日本は日独伊三国同盟成立後,東アジアで英米を中心に対日包囲陣が形成されつつあり,南部仏印では「ドゴール派」の活動が次第に顕著となっているとの感を強くしていました。日本政府は,もし仏印が対日包囲陣に同調し,ヴィシー政府を離脱してシリアのような状態ともなれば由々しき事態になると考え,南部仏印への軍事基地設置と日本軍駐留を容認するよう仏国に要求する方針を固め,昭和16(1941)年6月25日,外交交渉の開始と仏側が応諾しない場合は武力によって目的を貫徹することを大本営政府連絡懇談会で決定しました。
外交交渉はヴィシーで7月14日より開始されました。同日,加藤外松在仏国大使はダルラン副総理と会談し,日本側要求を伝えました。仏側は7月19日,休戦条約の相手国である独伊両国の意向確認が必要のため,数日間の回答猶予を要望しました。しかし日本側は,既に独側と協議済みであり,派兵期日が切迫していると告げて,7月22日までに要求を受諾するよう求めました。その結果,仏側は若干の希望条件を付して日本側要求を承諾しました(7月21日)。仏側が特に重視した条件は,仏印の主権尊重を日本側が声明することでした。この全面的受諾を受けて,現地仏印では細目協議が開始され,7月23日には合意が成立しました。
日本政府はヴィシーでの交渉妥結を7月24日に独伊へ,25日に英米へ通報し,26日には,仏印の共同防衛につき日仏間に意見の一致を見た旨と,日本は仏印の主権を尊重する旨を声明しました。その後,ヴィシーにおいて日仏間の合意を議定書にまとめる交渉が進められ,7月29日に調印を見ました。仏側は議定書に撤兵時期の明記を求めましたが,結局,議定書の条文は「諸規定ハ現下ノ情勢ノ存続スル限リニ於テノミ有効」とし,他方で「日本軍ノ存在ハ一時的ニシテ日本国政府ハ駐屯ヲ必要トスル危険ノ解消次第速ニ之ガ全面的撤退ヲ行フベキ」とのダルラン書簡に対し,日本側がこれを確認する書簡を発出することで合意に至りました。なお,日本軍は7月28日朝,南部仏印への上陸を開始しました。
八 南進問題をめぐる英米との関係
本項目では,南進問題をめぐる英米との関係を, 2つの時期区分を設けて,関係文書を採録しています。
昭和16(1941)年1月21日の松岡外相議会演説には,「大東亜共栄圏内ノ蘭領印度,仏領印度支那及ビ泰国等」という一節があり,蘭印や英連邦諸国では大きな反響を呼びました。各国は,日本の政策目標が独国の勝利と英帝国の崩壊を前提とした東亜新秩序の建設にあること,蘭印や仏印を一方的に日本と不可分の関係に置こうとしていることなどに強く反発しました。
さらに2月7日,重光大使と会談したイーデン英外相は,タイ・仏印国境紛争への日本の調停に言及して,「大東亜共栄圏内における紛争は日本のみが調停する権利がある」との松岡外相の議会答弁に抗議し,この調停はタイおよび仏印からの政治・軍事上のコンセッションを確保するための口実ではないのかと指摘しました。そしてイーデンは「この2,3週間以内に日本によって極東に危機が発生するおそれがある」とのクレーギー駐日英国大使の報告を引用し,独軍の対英攻撃に連動した日本の極東での軍事行動の可能性について強い注意喚起を行いました。また14日には,ドゥーマン駐日米国参事官が大橋外務次官と会談し,英本国とアジアの英領との交通線を遮断する国があれば米国との戦争に入ることを覚悟しなければならないと警告しました。
松岡外相は2月17日にイーデン外相へ覚書を送り,(1)極東危機説は事実無根,(2)三国同盟の主目的の一つは戦争の終息にある,(3)英米両国の太平洋・南洋での戦備拡張は日本国内を刺激している,(4)日本は世界平和に関心を有し,世界のいかなる地方においても調停の労を執る用意がある,との見解を伝えました。この覚書の内容が報道されるや,枢軸国側からは調停とはいかなる意味かとの疑義が寄せられ,松岡は一般原則の表明に過ぎないと弁明に追われました。一方,チャーチル英首相は2月24日付の対日覚書で,(1)英米の戦争準備は防御的性質のものであり対日攻撃の意図はない,(2)英国は対独戦争を徹底的に戦う意思を有し,日本の調停提案は拒絶する,と回答しました。
その後も松岡・チャーチル間には覚書の往復が続き,松岡外相が独伊両国を訪問し,帰途モスクワに滞在した際には,チャーチル首相から日本に太平洋での軍事行動を思い止まらせることを意図した,質問調の覚書(4月11日付)が送られました。
昭和16(1941)年7月21日,南部仏印進駐に関する日本の要求をヴィシー政府が受諾すると,米国政府は7月25日,対日資金凍結措置を断行しました (米国の凍結措置は『日本外交文書 日米交渉―1941年―』で採録)。さらに翌26日には英国政府も対日資金凍結を通告するとともに,日英通商航海条約(インド・ビルマに関する関係条約を含め)を廃棄すると通告しました(ニュージーランドも27日に廃棄通告)。日本側では在米本邦資産凍結の風説が高まった7月上旬に,凍結に備えて遺漏なく手配するよう在米各公館へ訓令が発せられていました。また大蔵省を中心に経済圧迫措置が発動された場合の報復措置が検討され,その結果,7月28日に大蔵省令をもって外国人関係取引取締規則を即日実施し,いわゆる対英米蘭資産凍結を行いました。
その後,日本軍が南部仏印進駐後にタイへも進出するとの風説が流れる中,クレーギー英国大使は8月11日に豊田貞次郎外相と会談し,「南部仏印に進駐した日本軍は仏印の隣接国への攻撃を目的とするものと見なさざるを得ず,日英関係の緊張緩和を図るにはタイにおける危機を解消する必要がある」と訴えました。両者は8月25日にも会談し,豊田外相が「英国は日本の仏印進駐を資金凍結の原因と言うが,日本は仏印進駐を英側の対日包囲陣への対抗措置と考えており,英側が日本の存立上不可欠の物資輸入を禁絶する措置を継続するならば,日本は他に進路を求め,両国関係は益々悪化する」と述べると,クレーギー大使は「最良の対策は日本軍が南部仏印より撤退することであり,対日包囲陣も日本の脅威に対し共同利害を有する諸国が集結したに過ぎず,何等の攻撃的意図を持たない」と反論しました。
また10月22日には帰朝した重光大使がクレーギー大使と会談しました。クレーギーが「日本が東亜共栄圏の主張を固執すれば経済上の自由を主張する英米とは意見が合わない,排他的地域的観念は日英関係打開の根本的障害である」と述べると,重光は「英米は日本を経済的に絞殺する政策を以て日本に圧迫を加えているが,日英関係の改善を望むならば,経済自由主義を直ちに現実に立証する必要がある」と反駁しました。