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外務省記録「明治天皇崩御一件」には、明治天皇の不例から崩御までの経過と、大喪儀に関する史料が収められています。また、そのうち主要な文書は、『日本外交文書』第45巻(明治45年)第一冊に採録されています。
明治天皇は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分に崩御し、大喪儀は1912年(大正元年)9月13日に東京・青山練兵場内の葬場殿で行われました。この儀式には各国元首の名代、特派大使、特派使節が参列しており、その中、イギリスからはコンノート親王(Prince Arthur of Connaught)、ドイツからは皇弟ハインリヒ親王(Prince Heinrich)が、それぞれ国王の名代として特派されています。また、スペインは当初駐日公使が参列することになっていましたが、日本の皇室に対し最高の敬意と同情を表明するためとして、急遽国王の従兄弟であるアルフォンソ親王(Prince Alfonso)が派遣されました。大喪儀の後、コンノート親王とハインリヒ親王には菊花章頸飾が、アルフォンソ親王には大勲位菊花大綬章が贈られています。
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外務省記録「墨国内乱関係一件」及び「外国勲章本邦人ヘ贈与雑件 墨国ノ部」に関係史料が含まれており、そのうち主要なものは『日本外交文書』大正2年第一冊に採録されています。
メキシコ革命の勃発により、1911年(明治44年)11月、ポルフィリオ・ディアス(Porfirio Diaz)大統領による30数年にわたる独裁体制が崩壊し、米国に亡命していたマデロ(Francisco Indalecio Madero)が新大統領に就任しました。しかし、1913年(大正2年)2月9日、メキシコ市内で反乱が勃発すると、鎮圧を命じられた陸軍司令官ビクトリアーノ・ウエルタ(Victoriano de la Huerta)がマデロ大統領を拘束し、同22日、マデロは副大統領とともに殺害されてしまいました。
この間、身の危険を感じたマデロ大統領の夫人や父母などの親族は、日本公使館に庇護を求めました。これに対して堀口九萬一(ほりぐち・くまいち)臨時代理公使は、大統領の親族が日本公使館に保護を求めてきたのは「上下官民一般ニ当館ニ深ク同情ヲ寄セ厚ク敬愛ヲ表シ居ル」ことから「大ニ安全」と信頼したためであると外務本省に報告し、事態が収まるまでマデロ大統領一家を保護しました。
この堀口臨時代理公使の行為は、多くのメキシコ人から賞賛されるところとなり、1934年(昭和9年)には、堀口に対してメキシコ政府より「アステカ鷲勲章」が贈られました。
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宋教仁暗殺の経緯については、外務省記録「支那南北衝突関係一件 宋教仁暗殺事件及衝突ノ経過」に詳しい記録が残されており、そのうち主要な文書は、『日本外交文書』大正二年第二冊に採録されています。
宋教仁(1882~1913)は中国の革命家で、早稲田大学に留学中の1905年(明治38年)、孫文らと共に「中国革命同盟会」を結成し、その後上海で新聞を発行するなど、華中を中心に革命工作に従事しました。1912年(明治45年)1月の辛亥革命後、臨時大総統として独裁支配を強化しつつあった袁世凱に対し、宋教仁らは同盟会を「国民党」に改組して議会闘争により対抗しましたが、1913年(大正2年)3月、袁世凱が放った刺客によって宋教仁は暗殺されました。
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日本赤十字社は、救護班を結成してイギリス、フランス、ロシアに送りました。当館には、外務省記録「帝国各国間医術開業互認協定雑件 日英間ノ部 開業医資格問題」という関連記録があります。
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外務省記録「桑港ニ於テ巴奈馬運河開通記念博覧会開設一件 附軍艦派遣ノ件」に関連史料が残されています。
1880年(明治13年)、レセップス(Ferdinand M. Lesseps)の設計によりフランスの主導で建設が始まったパナマ運河は、その後運河の建設と管理などの権利を取得した米国の手によって1914年(大正3年)8月に開通しました。これを記念して、翌年2月から12月まで、サンフランシスコにて、パナマ太平洋万国博覧会が開催されました。博覧会には当時第1次世界大戦(この段階で米国は中立国)の交戦国であったドイツ・イギリス・フランス・オーストリア・トルコを含め45カ国が参加しました。
1912年(明治45年)2月に米国政府から博覧会への参加の打診を受けた日本政府は、他国に先がけてこれに参加することを決定し、政府予算を計上して参加に向けての準備を進めました。この時期カリフォルニア州で外国人土地法(いわゆる「排日土地法」)が成立する(1913年)など排日の気運が高まっており、一時は参加中止も検討されました。しかし対米関係と排日感情の悪化を懸念した日本政府は、1914年1月、再度参加方針を確認し具体的計画の実施に着手することとなりました。
博覧会で日本は、金閣寺を模した政府館をはじめ日本庭園や特別陳列館を建設し、美術品や絹織物など日本固有の文化工芸品を多数出展しました。政府代表として開会式に出席するため渡米した出羽重遠(でわ・しげとお)海軍大将は、帰国後、日本が博覧会に進んで参加し展示物が好評を得たことで、米国における排日感情が緩和されつつあると報告しています。
* 桑港=サンフランシスコ
* 巴奈馬=パナマ
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第一次世界大戦期の海運業については、外務省記録「欧州戦争ノ海運業ニ及ホス影響報告雑件」の「本邦船腹調節関係」及び「本邦船舶調達関係」によって知ることができ、日本・フランス間の関係記録もその中にあります。
大戦中、フランスは軍需物資輸送のため、日本からの定期船を増やすよう要請していました。しかし大戦の影響で欧州航路の定期船は喜望峰を迂回せざるを得なくなり、海運大手の日本郵船会社は、フランス港湾(マルセイユ)への寄航を省略するなど、かえって航路を縮小する方針をとりました。日本郵船会社の航路縮小は日仏両国の通商貿易関係に大きく影響しましたが、フランス国内には寄航設備の整った適当な港がなく、また航路延長による運航数の停滞も懸念されたので、日本政府は有効な対策をとることができませんでした。
しかしその後、1917年(大正6年)には、日本政府の要請もあり、日本郵船会社はポートサイド(エジプト)・マルセイユ間に新たに傭船亜細亜丸を航行させ、ポートサイドを中継地点として日本とフランスの海路を繋ぐ計画を立てました。この航路は元来フランスへの軍需品輸送支援のために開かれたものでしたが、フランス政府は船舶管理令の適用に例外を認めないとの原則を固持し、入港した亜細亜丸に対し運賃の引き下げと船体の一部使用を命じました。フランス当局のこうした態度は日本の海運業者の反発をかい、このような制限が強要され続けられるならば欧州航路よりの撤退も辞せずとする覚書を日本郵船会社と大阪商船会社が連名で提出するなど物議を醸し、政府間の懸案となりました。
この問題は膠着状態のまま時日が経過しましたが、戦況の好転によってフランスが船舶管理権に執着しなくなったことから、1919年(大正8年)3月には、政府間案件としては取り扱わないこととなりました。
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外務省記録の中には外国人に対する日本政府からの叙勲に関する記録があります。R.H.Anstrutherに関しては、第一次世界大戦当時海軍少将であり、同大戦中の日英共同作戦に従事し、また日本の従軍武官に対し特別の便益を供したとして、1917年に勲二等重光章が授与されました。
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第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)8月、東部シベリア方面で孤立したチェコスロバキア軍を救援する目的で、日米両国を中心とする連合国がシベリアに派兵しました。その後日本は、各国が次々と撤兵する中で、1922年(大正11年)10月まで駐兵を継続しました。シベリア出兵に関しては、外務省記録「露国革命一件 出兵関係」というファイル200冊に及ぶ膨大な関係記録があり、この中に出兵に至る経緯を示した調書なども収録されています。
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外務省記録「領事館新設請議一件」、「領事館名誉領事館設置方在外大公使領事ヨリ具申雑件」などに関係記録があります。同記録によりますと、日本は1897年(明治30年)よりニューオリンズが米国南部産の綿花集積地であったことから、同地に名誉領事をおきました。その後、第1次世界大戦期に中西部諸州の各種産業が発展し、ミシシッピー河の水運を利用して生産品が運ばれたため、同河の河口に位置するニューオリンズの貿易上の重要度が高まりました。そこで、同地に領事館を設置することは日米貿易の発展に役立つと考えられ、1919年(大正8年)に領事館が設置されました。
なお、同領事館は、1959年(昭和34年)に総領事館に昇格しています。
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1919年(大正8年)6月です。初代領事を務めたのは杉野鋒太郎(すぎの・ほこたろう)です。これに関連する史料は、外務省記録「各国駐在帝国領事任免雑件 ハバロフスク之部」に収められています。ちなみに、このハバロフスクへの領事館設置は、日本政府のコルチャック政権(ロシア革命後、シベリアでの反ボルシェビキ運動の中から出現した反革命政府)仮承認の直後に行われた施策でした。
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本当です。
第1次世界大戦後のドイツとの講和条約を議定するために開催されたパリ講和会議に、日本は西園寺公望、牧野伸顕、珍田捨巳らを全権とする代表を送りましたが、彼らは、南洋旧ドイツ領委任統治問題や山東問題と並んで、人種的偏見問題についても対処するようにとの訓令を受けていました。議場では、イギリスなどの消極的な姿勢を前に少しずつ妥協しながらも、牧野が「人種的、宗教的な憎しみが紛争や戦争の源泉となってきた」と主張するなど、日本全権団は人種差別の撤廃に向けて粘り強く交渉を続けました。
1919年4月11日に開催された国際連盟最終委員会において、牧野は国際連盟規約の前文に「各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し」との文言を盛り込むよう提案し、出席者16名中11名の賛成を得ました。しかし、議長であるウィルソン(T. Woodrow Wilson)米大統領は、このような重要事項の決定には全会一致を要するとして、日本の提案を退けました。こうして日本の人種差別撤廃に関する提案は、最終委員会での牧野の陳述と日本の提案に対する賛否の数が議事録に残されただけの結果に終りました。
このようなパリ講和会議における人種差別撤廃問題に関する史料は、外務省記録「人種差別撤廃」に収録されています。また、このうち主要な文書は『日本外交文書』大正7年第三冊および大正8年第三冊上巻に採録されています。
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パリ講和会議は、第1次世界大戦後、ドイツとの講和条約を議定するため、1919年(大正8年)1月から同年6月まで開催されました。日英同盟の誼(よしみ)に従いドイツに対して宣戦していた日本は同会議に首席全権の西園寺公望をはじめ、牧野伸顕、珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使、後に追加)を全権とし、総勢約60名からなる全権団を送りました。
この全権団に随行した日本人のなかには、後に日本外交の中核を担うこととなる人材も含まれていました。そうした人々としては、近衛文麿、吉田茂、芦田均、松岡洋右らが挙げられます。また、同じく会議に参加した有田八郎、重光葵、斎藤博、堀内謙介ら当時少壮の外交官達は、初めての国際会議で露呈した日本の準備不足から外交力強化の必要を痛感し、会議開催中のパリで「門戸開放」「省員養成」「機構の拡大強化」の三点を軸とした外務省革新綱領を作成するなど外務省革新運動に乗り出しました。帰国後、彼らは外務本省内で本格的な活動を開始し、多くの省員の賛同を得て「革新同志会」を結成、その成果は省内に正式に設置された「制度取調委員会」に継承されました。1921年(大正10年)から23年(大正12年)にかけては外務省機構、人事、予算が最も膨張した時期ですが、それにはこの革新同志会運動が与えた影響が少なくないとされています。
こうしたパリ講和会議における日本人の動向やその後の外務省革新運動の経緯については、外務省編『外務省の百年』に詳述されています。