外務本省

外交史料 Q&A
昭和戦前期

Question
 二代目市川左団次(いちかわ・さだんじ)一行がソ連で行った歌舞伎公演に関する記録はありますか。

Answer

(写真)ソ連の機関紙に掲載された写真
ソ連の機関紙に掲載された写真

 外務省記録「文学、美術及演劇関係雑件 演劇関係」に関連記録があります。
市川左団次一行はソ連邦対外文化協会の求めにより、1928年(昭和3年)、ソ連で歌舞伎公演を行いました。ソ連の機関紙は一行の訪問を、日本劇団の海外初回の進出であり、歌舞伎は日本劇界の粋、芸術の真髄で幾百年の歴史を有すると紹介し、両国の親善のために一行を心より歓迎すべしと報じました。
 一行は7月13日に日本を出発し、26日にモスクワに到着、同地で公演を行いましたが、道中、ロシア各地で大歓迎を受けました。在ウラジオストク総領事渡邊理恵(わたなべ・りえ)は、「当地露側ノ歓迎振リハ義理一遍的ノモノニ非ズ所謂息ヲモ継ガセサル白熱的歓迎ノ誠意ヲ以テ終始セルモノ」と報告しています。
 なお、左団次はソ連公演の終了後、欧州を巡遊し、9月24日にはローマでムッソリーニ首相(Benito Mussolini)と面会しています。左団次は歌舞伎役者として活躍する一方で、現代劇にも取り組み、渡欧する直前の同年5月には、小山内薫(おさない・かおる)作・監督の舞台「ムッソリーニ」で英雄的に描かれたムッソリーニを演じていました。この縁で、左団次は同首相と面会し、手拭、扇子を贈りました。同首相は快く受領し、深く感謝の辞を繰り返したとの記録が残っています。

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Question
 1937年(昭和12年)頃、チリ国がモアイ像で有名なイースター島を日本へ売却しようとしたというのは本当ですか。また、その記録は残っていますか。

Answer

 本当です。外務省記録「各国ノ領土譲渡租借及同風説関係雑件」に関係記録が含まれています。
 当時、チリ国では軍艦建造の財源を捻出するために、「イースター島」(記録ではスペイン語で復活祭(イースター)を意味する「パスクア島」と記述)と「サラ・イ・ゴメス島」の売却を検討しており、1937年6月上旬、在チリ国公使三宅哲一郎(みやけ・てついちろう)を通じて、日本側に打診がありました。三宅公使は広田弘毅(ひろた・こうき)外務大臣の命を受け、イースター島の現況や地理的・経済的価値について調査し、島の概要や地図等の参考資料を送付しました。
 外務省では、これらの資料の写しを海軍と水産関係企業に送付しました。海軍からは(1)軍事上の価値はそれほどないが、航空機が発達すれば、航空路用地として有益である(2)産業的見地からは漁業基地に適するので関係者の意向を確認する必要がある(3)購入する場合、日本の領有に米国の反対が予想されるので、表向きは漁業使用とした方が良いだろうとの意見が出されました。
 チリ国とのその後の交渉経緯を示す記録は見あたりませんが、同年6月30日に三宅公使がチリ国大統領と謁見した際に、大統領から英国、米国にも売却の打診を行ったことを告げられたため、三宅公使は、しばらく静観する方が得策との意見を広田外務大臣に具申しています。

(写真)三宅公使が送付したイースター島の地図
三宅公使が送付したイースター島の地図

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Question
 欧州で第二次世界大戦が勃発した後、多数のユダヤ人が日本に逃れてきて、神戸に滞在したという話を読んだのですが、彼らが神戸でどのように暮らしていたかがわかる史料はありますか。

Answer

 戦前期の日本とユダヤ人のかかわりに関する史料は、主として外務省記録「民族問題関係雑件 猶太人問題」(猶太=ユダヤ)に綴じられています。また、同記録ファイルには、日本に逃れてきたユダヤ系避難民に関する史料も多数残っています。神戸における彼らの生活状況を詳細に報告した史料として、当時の日本郵船の神戸支店長が1941年(昭和16年)4月9日付けで、本社に送った報告書があります。
 同報告書によると、当時の神戸には約1,700人にものぼるユダヤ系避難民が滞在し、そのうちおよそ1,000人は生活費にも困窮していて、在米ユダヤ人協会からの援助で1人1日1円20銭を支給されていましたが、食事や住居など厳しい暮らしを強いられていたそうです。その暮らしぶりを報告書では、「至極惨メナ生活ヲ営ミ居レリ」と、同情的に伝えています。
 この報告書が現在外交史料館に残っているのは、日本郵船東京本社の船客課米国係が外務省亜米利加局第三課(旅券、査証関係を担当)の土居萬亀(どい・まんき)嘱託に送った書簡に、神戸支店長からの報告の写しを添付していたことによります。日本郵船側がこの問題を重視していた姿勢が読み取れます。
 この後、ユダヤ人の多くは、外務省の判断と日本郵船の尽力により上海に渡り、第二次世界大戦後まで生き延びました。

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