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第11回外交記録公開で公開された外務省記録「米州諸国大統領本邦訪問関係 アイゼンハワー米国大統領関係」に関連記録が収められています。
1960年(昭和35年)1月、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新・日米安保条約)調印のために米国を訪問した岸信介首相は、アイゼンハワー大統領との会談で、日米修好通商条約100周年記念事業として大統領が訪日することを要請し、アイゼンハワーの合意を得ました。その後、日米両国間では、日程を6月19日から22日と確定するなど、現職大統領として初めてとなるアイゼンハワーの日本訪問に向けた準備が進められていましたが、それに影を落としたのが日本国内の安保改定反対運動でした。
6月10日には、大統領訪日の打ち合わせのために来日したハガチー大統領秘書官が乗る車を安保改定阻止を掲げるデモ隊が取り囲んで、車の屋根やボンネットに登るなどの暴行を加える事件が起きました(ハガチー事件)。また、同月15日には、デモ隊が国会に突入し、その混乱の中でデモに参加していた女子大生が亡くなるという事件も発生するなど、政治情勢はさらに混沌となりました。
結局、6月16日、政府は臨時閣議を開いてアイゼンハワーの訪日延期要請を決定するとともに、同月23日の条約発効をまって岸首相も退陣を表明しました。この大統領の訪日延期について当時の記録は、「米国官民に深刻な衝撃を与え、わが国の国際信用を著るしく(原文のまま)低下せしめ、今後の日米関係に大きな影響を与えうるもの」と記しています。
その後、岸首相にかわった池田勇人首相は、アイゼンハワー大統領の訪日を歓迎する旨の親書を発出しましたが実現せず、結局、現職大統領として初めて日本を訪問したのは、フォード大統領(1974年11月)となりました。
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1860年5月23日(万延元年4月3日)、新見正興(しんみ・まさおき)を正使とする幕府の遣米使節はアメリカ国務省を訪れ、日米修好通商条約批准書の交換を行いました。1960年は、それからちょうど100年にあたることから、日米修好通商百周年記念として日米両国でさまざまな祝賀行事が開催されました。同年5月には吉田茂元首相が民間の遣米使節団の団長としてアメリカ諸都市を訪問し、100年前に新見ら遣米使節団を迎えたのと同じ会場で開催された正式午餐会に出席しました。また、9月には皇太子、同妃両殿下が訪米し、アイゼンハワー大統領とも会見しています。これらに関する記録は、第14回および第17回外交記録公開で公開された外務省記録「皇太子同妃殿下御訪米関係一件」、「日米修好通商百年祭関係一件」に収められています。
なお、日米修好通商百周年記念の一環として、アイゼンハワー大統領の日本訪問も計画されましたが、日米安保条約改定をめぐる国内情勢を受けて、実現には至りませんでした。
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皇太子明仁親王殿下と美智子妃殿下(現在の天皇皇后両陛下)は、1959年(昭和34年)にご結婚され、翌年2月には浩宮徳仁親王(現在の皇太子殿下)が誕生しました。両殿下のご成婚と徳仁親王ご誕生を祝福する盛り上がりは、当時社会現象となりました。
1960年、両殿下は日米修好通商百周年を記念して米国政府より招待を受けました。両殿下は9月22日に日本を出発し、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドを訪問し、10月7日に帰国されました。
訪問先の各都市では官庁、学校等の教育施設、美術館・博物館等の文化施設を視察されたほか、日系人や日米協会の関係者とも交流されています。各地で盛大な歓迎を受けましたが、中でも日系人が7万人居住していたロサンゼルスの歓迎ぶりは熱烈で、空港には4千人もの人が押し寄せ、リトル・トーキョーでは約1万人の日系人が日米両国旗をもって両殿下を迎えました。また、ディズニーランドではウォルト・ディズニー自らが園内を案内し、日本の花火が打ち上げられるなどの歓迎を受けました。
これらの文書は第14回外交記録公開で公開された外務省記録「皇太子同妃両殿下御訪米関係一件」に収録されています。同ファイルには各都市の領事からの報告や現地新聞の紙面が収められているほか、ニューヨークの音楽芸術高校(The High School of Music & Art)を訪問した様子を伝える同校学園新聞も残されています。
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第14回外交記録公開で公開された外務省記録「池田総理米加訪問関係一件(一九六一、六)」(「加」はカナダ)のなかに、日米貿易経済合同委員会の開催決定に関する記録があります。日米貿易経済合同委員会は、日本から外務大臣、大蔵大臣、通産大臣など、アメリカからは国務長官、財務長官、商務長官などの主要閣僚が出席するものとされ、両国間の経済協力促進、とくに貿易問題や経済援助計画に関する情報と意見の交換などを目的に、箱根での第1回会議(1961年11月)から1973年(昭和48年)まで、計13回開催されました。
なお、同委員会については、2012年(平成24年)8月現在、第1回から第9回までの準備資料、議事録、報道ぶり等に関するファイルが公開されています。
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同外相の訪日については、外務省記録「イスラエル要人本邦訪問関係雑件 ゴルダ・メイル外相関係」に関係文書があります。それによると同外相は、1962年(昭和37)1月18日に来日し、同月25日に離日しました。
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第14回外交記録公開で公開された外務省記録「池田総理欧州訪問関係一件」に関連記録があります。
1962年11月のヨーロッパ歴訪で、池田勇人首相はアデナウアー(Konrad Adenauer)西独首相やド・ゴール(Charles A.J.M.de Gaulle)仏大統領らとの間で積極的な首脳外交を展開しました。ここで池田首相は、自由主義陣営が緊密に提携して共産主義に対する勢力を強化することが不可欠であるとの自説を強調して日本とヨーロッパの連携の意義を説きました。
こうした国際政治の話題に加えて、池田首相が強く訴えたテーマが経済問題でした。EEC(ヨーロッパ経済共同体)を中心とするヨーロッパでの経済統合の動きについて池田首相は、EECが自由貿易体制と背馳したものとならないよう、各国首脳に要望しています。また、日本政府のかねてよりの希望であったOECD加盟について各国首脳から支持を得られたことは、この外遊の大きな成果とされています。
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1964年(昭和39年)8月に発生したトンキン湾事件は、米海軍艦艇と北ベトナム海軍魚雷艇の交戦事件で、ベトナム戦争の発端となりました。この事件に関する文書は、外務省記録「ベトナム紛争 軍事情勢 東京湾事件(1964.8)」にあります。この記録は2003年(平成15年)12月、第18回外交記録公開で公開されました。
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1962年(昭和37年)11月調印の「日中総合貿易に関する覚書」は、半官半民の長期バーター取引協定で、この日中覚書に基づく貿易は、調印者である廖承志と高碕達之助のイニシャルをとって「LT貿易」とも呼ばれました。LT貿易は、1972年に国交正常化するまで、日中両国にとって相当程度公的な交渉の窓口としての機能も果たしました。この関係記録としては、外務省記録「本邦対中共貿易関係雑件 民間貿易協定関係 高碕・廖覚書交換」などがあります。
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第14回外交記録公開で公開された外務省記録「国際オリンピック大会関係第18回東京大会(1964)諸外国主要来朝者関係」にオランダの王族訪日に関する記録があります。
ユリアナ女王(当時)の夫であるベルンハルト公とベアトリクス王女(後の女王)は、随行者4名と共に1964年(昭和39年)10月12日に来日しました。
オリンピック開催中は、国際馬術競技連盟会長であったベルンハルト公は全馬術競技を、ベアトリクス王女は陸上競技、漕艇、自転車競技、ホッケー、柔道、水泳、飛込、馬術、射撃、バレーボール、水球、ヨットを観覧予定であることが在オランダ大使館から外務省に伝えられています。また期間中、軽井沢にも滞在されたようです。
ベルンハルト公は、オランダに帰国後、訪日の際に日本オリンピック委員会から贈られた記念ボタンを使用して、訪日記念の上衣を新調予定であるとの記録も見られます。