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第11回外交記録公開で公開された外務省記録「インド要人本邦訪問関係雑件 ネール首相関係」に関係記録が含まれています。
インドのネルー首相は、1957(昭和32)年10月4日に国賓として来日し、10月13日まで滞在しました。同年5月には岸信介(きし・のぶすけ)首相がインドを訪問しており、その際、ネルー首相が日本訪問の意思を示したことを受けて、来日が実現したものです。
日本滞在中、ネルー首相は、岸首相や藤山愛一郎(ふじやま・あいいちろう)外相など、日本側の要人と会談したほか、広島や奈良・京都など日本各地を視察しました。会談では、軍縮や核実験禁止問題など国際情勢に関する問題について意見交換がなされるとともに、日本・インド間の通商貿易や経済協力促進の必要性について話し合われ、13日に共同コミュニケが発表されました。また、視察先では、広島の原爆資料館(平和記念資料館)や奈良・東大寺の大仏、京都御所などを訪問したとの記録が残っています。
なお、ネルー首相は10月8日に、上野動物園を訪問しました。当時、上野動物園では、1949(昭和24)年に東京の小学生の要望に応えてネルー首相から贈られたインド象が飼育されていました。上野動物園でネルー首相は、同首相の令嬢の名をとって「インディラ」と名づけられたこのインド象と対面しました。この時の様子を伝える写真は、外務省記録「国賓訪日記念写真アルバム ネール・インド首相」に綴られています。
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外務省記録「日本万国博覧会(一九七〇年於大阪)博覧会開催地問題」に関係文書が収録されています。
日本政府は1964年(昭和39年)から、パリの博覧会国際事務局に1970年の万博開催を打診していました。その開催地については、いち早く関西方面から強い要望が寄せられたため、近畿地方での開催方針が立てられました。具体的な会場としては、大阪の千里丘陵のほか、神戸市や琵琶湖の埋立地などからも立候補があったため、政府内には会場を近畿地方の複数箇所に分散させる案もありましたが、同事務局がこの案に否定的であったため、結果として会場は大阪に一本化されました。
また、外国との兼ね合いでは、オーストラリアのメルボルンも1970年頃の万博開催を非公式に表明していました。しかし、オーストラリア政府が同市での万博開催に必ずしも積極的ではなかったことや、博覧会国際事務局内では日本での開催に対する支持が強かったことから、メルボルンが同事務局に対する正式申請を行わなかったため、1965年(昭和40年)9月14日、大阪での開催が決定しました。
なお、1970年の「日本万国博覧会」に関する記録は、博覧会国際事務局の政府代表者による運営委員会、理事会、広報に関する準備資料や、万博を訪れた参加国・機関の要人写真アルバムなど、約200冊のファイルが2004年(平成16年)に公開されました。それに加えて、2011年(平成23年)以降、同万博に関する外務省記録ファイルが順次外交史料館で公開されています。
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日中国交正常化を決着させた1972年9月の田中角栄(たなか・かくえい)総理大臣の中国訪問については、北京での交渉を記録した田中総理と周恩来(しゅう・おんらい)総理との会談録、大平正芳(おおひら・まさよし)外務大臣と姫鵬飛(き・ほうひ)外交部長との会談録や、訪中の概要をとりまとめた資料などが公開されています。
またこれに関連して、田中総理の訪中直前の米国や台湾での報道ぶり、台湾当局高官との会談記録、主要国への事前通報に対する任国政府の反応といった、各国での反響に関する記録があります。その他、中国承認に関する法律上・事実上の問題点を整理した調書など、国交正常化の様々な局面で外務省中国課が作成した検討文書、カナダやイタリアの中国承認に関する文書も公開されています。
これらの記録は、2011年(平成23年)12月及び2012年(平成24年)7月の外交記録公開で一般公開されました。