特別展示「日英交流事始―幕末から明治へ―」
概説と主な展示史料
1865年7月8日(慶應元年5月16日)、オールコックの後を継いで駐日特命全権公使(兼総領事)に着任したパークス(Sir Harry Smith Parkes)は、1883年(明治16年)までその地位にあった。
パークス着任の時期、英国は日本に外交使節を置く列国の中でも、対日貿易額、海軍力において他を圧倒し、対日政策を主導する発言力を築いていた。英国は修好通商条約締結以来、同条約の目的とする自由貿易の理念を、英国側の満足する形で実現することを目指した。パークスは忠実にこの方針に沿い、開港の促進や条約の勅許(天皇の許可)取得、輸入品に対する関税の引き下げなどを幕府に強く要求した。
パークスは、幕府との関係を維持しながらも、薩英戦争や下関戦争を経た薩長両藩が開国に転じると、これら倒幕勢力に接近し、幕府を支持するフランス公使ロッシュ(Léon Roches)と対立した。また戊辰戦争中は、厳正な局外中立を提唱して列国の介入を阻止する一方、新政府成立の通牒が発せられると、1868年3月(慶応4年2月)の各国公使天皇謁見の実現に協力し、同年5月(同3月)には、自らの信任状を天皇に奉呈することで、列国に先がけて新政府承認を表明するなど、明治政府の成立を援助した。
1869年(明治2年)のエディンバラ公(Duke of Edinburgh)訪日は、外国王族の接遇という新しい問題を明治政府に提起した。
ヴィクトリア女王の第2王子であるエディンバラ公は、当時海軍大佐でもあり、軍艦ガラティア(Galatea)号の艦長として世界周遊の途中であった。パークスは同公が天皇と対等の立場で面会することを希望し、これに対して政府、宮中で賛否両論の検討が行われた結果、同公を国賓として遇することに決まった。エディンバラ公の来日は、外国の王族が日本を訪問した最初の事例であり、事前に慎重に計画が練られ、詳細な接遇要領が作成された。
エディンバラ公は1869年8月29日(明治2年7月22日)に来日し、その3日後、明治天皇に謁見した。滞在中は延遼館(後の浜離宮)に宿泊した。
1866年6月25日(慶應2年5月13日)、関税の引き下げを骨子として英・米・仏・蘭の4か国との間に調印した協定。修好通商条約で20%と定められた関税率が、過去4年間の平均価格を基準とする5%の従量税(重さや個数に応じて課税する方式)に改められた。同年7月1日(慶応2年5月19日)より実施。税則以外にも、より自由な貿易を実現するための英国の意向を反映した様々な規定が盛り込まれている。
1869年9月25日(明治2年8月20日)付。エディンバラ公に対する明治政府の手厚いもてなしに対し、パークスは澤外務卿に書翰を送り、感謝と満足を表明した。