外務本省

特別展示「日英交流事始―幕末から明治へ―」

開港開市延期問題と文久遣欧使節団派遣

概説と主な展示史料


 修好通商条約に基づいた外国貿易が開始されてからも、幕府は、急激な物価上昇や攘夷の風潮の広まりを理由に、条約を結んだ各国の公使に対し、修好通商条約に定められた兵庫・新潟の開港と、江戸・大坂に外国人の居留を許可すること(開市)については、国内の政治・経済状況が安定するまで延期するよう求めた。
 これに対し英国公使オールコックは、開港開市延期は条約の目的に反するという意見を述べながらも、幕府が英本国をはじめとする各締約国へ全権使節を派遣し、直接交渉することを提案した。
 1862年1月21日(文久元年12月22日)、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の幕府使節団が、英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣された。使節団に与えられた主な役割は、(1)開港・開市の延期を確約すること、(2)西洋事情を視察すること、(3)ロシアとの樺太境界を定めることであった。
 使節団は最初にフランスを訪れたのち英国に渡り、1862年4月30日(文久2年4月2日)、ロンドンに到着した。英国での開港開市延期交渉には、賜暇帰国中の駐日公使オールコックも加わってよく日本側を弁護したこともあり、日本側使節と英国政府は、同6月6日(5月9日)、新潟と兵庫の開港、江戸と大坂の開市を1863年1月1日から5か年延期することを取り決めた覚書(「ロンドン覚書」)に調印した。
 その後使節団は他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月(文久2年12月)、帰朝した。

展示史料9.文久遣欧使節団 竹内下野守写真

(写真)

 開港延期交渉のためヨーロッパに派遣された使節団(文久遣欧使節団)の正使、竹内下野守(保徳)の肖像写真。竹内は箱館奉行から勘定奉行となり、使節派遣にあたって外国奉行を兼任した。

展示史料11.ロンドン覚書(「倫敦約定」)

重要文化財

(写真)

 使節団は1862年5月16日(文久2年4月18日)よりロンドンでの交渉を開始し、同6月6日(5月9日)、開港開市を1863年1月1日から5年延期することを取り決めた覚書に調印した。この覚書には、開港開市延期を認める代わりに、日本が修好通商条約の取り決めを徹底すべきことが明記された。
 日本側3使節(竹内、松平、京極)と、当時の英国外相ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell)が署名。

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