外務本省

日露講和後

19.本野一郎駐露公使より西園寺公望外務大臣宛公信機密第1号(1906年3月29日)

 日露戦争後、日本外務省は駐露公使として知露派の本野一郎(もとの・いちろう)を派遣しました。本野は、着任直後にラムズドルフ(Lamzdorf, V. N.)外相、ウィッテ首相、皇帝ニコライ2世とそれぞれ会見し、1906(明治39)年3月、【展示史料19】によりその模様を報告しました。

 報告によると、日露開戦時に閑職に追われていたウィッテ首相は、戦争には反対であり、無意味な戦争であったと嘆いたと報告されています。また、ニコライ2世は、信任状が届く以前であったにもかかわらず、異例に本野を引見し、知露派である彼が駐露公使に就任したことを喜ぶとともに、両国が戦争中に公明正大に戦ったように今後は誠実な友となることを祈ると述べたことが報告されています。

20.第1回日露協約調印書・秘密協約調印書(1907年7月30日)

21.第2回日露協約調印書・秘密協約調印書(1910年7月4日)

22.第3回日露協約(秘密)調印書(1912年7月8日)

23.第4回日露協約調印書・秘密協約調印書(1916年7月3日)

 1907(明治40)年から1916(大正5)年にかけて、日露戦争後の立場の強化を望む日本と、ヨーロッパにおけるドイツの脅威に対抗するために極東地域の安定を望むロシアとの間で、4回にわたって締結された協約です。第1・2・4回は公開協約と秘密協約からなり、第3回は秘密協約のみからなっています。

 日本側は第1回から第4回まですべて本野一郎駐露公使(1908(明治41)年5月からは大使)が署名し、ロシア側は第1・2回がイズヴォルスキー(Izvol'skii, Aleksandr P.)外相、第3・4回はサゾーノフ(Sazonov, Sergei D.)外相がそれぞれ署名しました。

 1907(明治40)年7月に調印された第1回協約では、秘密協約において、ロシアは韓国における日本の優越的地位を、日本は外蒙古におけるロシアの特殊地位をそれぞれ尊重することや、日露間の満州における権利利益の南北分界線(ハルビンと吉林のほぼ中間)などが定められました。それから3年後の1910(明治43)年7月に調印された第2回協約は、第1回協約の「拡張」を目的とし、第1回秘密協定で定められた分界線を満州における日露両国の「特殊利益」地域と画定するものでした。

 このように日露両国間で満州権益の相互確認が進められたのは、鉄道王ハリマン(Harriman, E. H.)による満鉄の日米合弁事業提案や、ノックス(Knox, P. C.)米国務長官の「ノックス満鉄中立化案」など、鉄道経営を通じた満州進出に意欲を見せるアメリカの動きを、日露両国が警戒したためでした。

 その後、辛亥革命後の外蒙古の独立(1911(明治44)年11月)という事態をきっかけに、日露間では内蒙古における勢力範囲を設定することとなり、1912(明治45)年7月に第3回日露協約が締結されました。本協約は、第1回協約で定められた分界線を延長し、内蒙古における各自の特殊権利地域を東西に分割するものでした。さらに、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツとの戦争で軍事物資不足に陥ったロシアは、その供給先として日本に期待を寄せ、また日本側でも、元老の山県有朋や満州地域での権益拡大を狙う陸軍がロシアとの接近を訴えました。その結果、結ばれたのが第4回日露協約です。

 この協約は、満州地域での利害調整を主な目的としていた従来の協約を超えて、中国が日露両国に敵対的な第3国(ただし、それがどの国を指すのかは明記されていない)の支配下におかれることを防止するために、両国が事実上の攻守同盟関係を結ぶとするものでした。

 なお、ロシア革命後、ソビエト政権はロシアが各国と締結した秘密条約を暴露し、日露協約の秘密協約も、第4回秘密協約の「第3国」とは英米両国を指すという脚注付きで1917(大正6)年12月19日の政府機関紙『イズヴェスチヤ』にて公開されました。

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