【展示史料2】
1853年8月(嘉永6年7月)、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携えたプチャーチン(Putiatin, E. V.)ロシア艦隊司令長官がパルラダ号で長崎に来航し、日本とロシアとの条約締結交渉が開始されました。その後、長崎での数次にわたる交渉を経て、ディアナ号で再び下田に来航したプチャーチンと日本側全権・筒井政憲(つつい・まさのり)、川路聖謨(かわじ・としあきら)との間で、1855年2月7日(安政元年12月21日)に調印されたのが、日魯通好条約(日露和親条約)です(批准書交換が行われたのは1856年12月7日)。
この条約では、第1条で今後両国が「末永く真実懇」にすることが謳われるとともに、第2条において、日露間の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間とすること、樺太(カラフト)島には国境を設けずに、これまでどおり両国民の混住の地とすることが定められました。箱館、下田、長崎の3港の開港(第3条)のほか、双務的な領事裁判権が規定されていることもこの条約の特徴です(第8条)。なお、この条約は、日本語、ロシア語などで書かれましたが、このうち中国語のものでは、プチャーチンが「布恬廷」と記されています。
【展示史料2】
その後、幕末の日本とロシアとの間には、1857年10月(安政4年9月)に追加条約が、1858年8月(安政5年7月)には日露修好通商条約がそれぞれ調印されました(日露修好通商条約の批准は1859年8月(安政6年7月))。日露修好通商条約では、領事裁判権に加えて最恵国条項が双務的となっています。
なお、日魯通好条約など幕末期の日本とロシアの関係を示す条約書は、1923(大正12)年の関東大震災時に、貸出先の東京帝国大学の火災で焼失しました。【展示史料1】は、『続通信全覧』「魯國條約一件」に含まれている日魯通好条約の写し、【展示史料2】は、焼失前に撮影された日魯通好条約のロシア側批准書です。【展示史料1】が所収されている『続通信全覧』とは、江戸幕府が編集した『通信全覧』を引き継いで、明治政府が1871年から約10年かけて編纂した幕末外交に関する外交史料集です。