展示史料 14
1930年代、日本の対外貿易が不振に陥るなかで、中南米地域は新たな市場として注目を浴びた。日本の中南米諸国に対する輸出額は増加し(1930年・約2000万円 → 1933年・約4600万円)、1933年夏以降には、同地域へ視察員を派遣する民間の貿易会社が急増した。
こうした状況のもと日本政府は、1934年6月、中南米諸国における「我当業者ノ無秩序、不統制ノ進出ヲ抑ヘ之ヲ善導シ以テ我商権ノ拡充ヲ計ルコト最モ緊要ノコトナリ」として、これら諸国との通商関係の拡充を図ることを目的に、日本銀行出身で世界各国の経済事情に通じた首藤安人(しゅどう・やすと)商務書記官を中南米諸国に視察派遣することを決定した。
首藤は同年8月中旬に横浜を出発し、サンフランシスコ、メキシコを経て、10月6日から10月21日まで、在アルゼンチン公使館の片岡孝三郎(かたおか・こうざぶろう)書記生とともに中米5ヶ国(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ)を視察旅行し、これら諸国の経済事情などにつき調査した。
首藤が作成した10月28日付の報告書(展示史料15)によると、現段階における日本と中米諸国との経済関係は微々たるものであるとしながらも、「今ニ於テ我ガ商勢ノ維持、拡張ニ関スル対策ヲ講スルニ非ンハ折角獲得シツヽアル地歩ヲ失フニ至ルヘシ」と観察し、貿易相互主義の見地よりこれら諸国からの輸入を拡大することを訴えた。そして、その際の方策として首藤は、日本がコーヒーを輸入してそれをドイツに売却し、ドイツからは染料、硫安、鉄製品などの商品をもって決済する「三角貿易」を提案している。彼はまた、同報告書の中で、日本と中米地域との経済関係強化のためにも、これら諸国に日本の公館を開設することが「最モ緊要ナリ」と主張した。