展示史料 13
1935年に正式な外交関係が樹立される以前から、日本と中米諸国との間には様々な交流が行われていた。中米諸国からは、大統領が交代するたびに、その旨を伝える親書が届けられており(展示史料7-9)、また、関東大震災(1923年)の際には、コスタリカ(展示史料10)や、パナマ、ニカラグアから御見舞いの電報が寄せられている。
他方、中米諸国との間には人的交流も行われていた。その代表的な人物が屋須弘平(やす・こうへい)である。1844年現在の岩手県に生まれた屋須は、金星の太陽面通過を観測するために日本を訪れたメキシコの天文観測隊の通訳を務めたのち、同隊と共にメキシコへ渡航(1875年)。その後、1878年にグアテマラに渡り、グアテマラ市で「フォトグラファ・ハポネッサ」という写真館を開いた。1889年に一時帰国した後、1890年に再びグアテマラ市で写真館を設立。1895年にはアンティグア市へ移転して写真館を経営し、1917年同地で死去するまで、風景や宗教儀式などに関する数多くの写真を残した(展示史料13)。また、1905年に来日したグアテマラ人のエンリケ・ゴメス・カリージョは、"El Japon: herico y galante"(『誇り高く優雅な国、日本』)を著し、中米のみならず世界に広く日本文化を紹介した。