外務本省

万延元年遣米使節団のパナマ通過(1860年)

1.「新見豊前守等米國渡航本條約書交換一件 六」(『続通信全覧』類輯之部 修好門)

(写真)展示史料 1
展示史料 1

1860年(万延元年)、日米修好通商条約(1858年に調印)の批准書交換を行うため、新見正興(しんみ・まさおき)を正使とする遣米使節がアメリカに向け出航した。米艦ポーハタン号に乗船した一行は、ハワイとサンフランシスコに寄港した後、大西洋へと抜けるため当時大コロンビアの一州であったパナマを訪れた(4月25日)。パナマ運河はまだ完成していなかったため、一行はパナマ鉄道会社が特別に用意した汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、現在のコロン)へと移動した。このときの様子を副使の村垣範正(むらがき・のりまさ)は「車の轟音雷の鳴はためく如く、左右を見れば三四尺の間は、草木もしまのよふに見へて、見とまらす、・・・更に咄しも聞へず、殺風景のもの也」と記している。

アスピンウォールで米海軍の軍艦ロアノーク号に乗船した一行は、5月15日にワシントンに到着し、ブキャナン大統領との謁見や日米修好通商条約の批准書交換などを行った。その後、ポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をまわり、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、11月10日に江戸に入港した。なお、ポーハタン号とともにアメリカへ渡った咸臨丸は、船体の損傷が激しかったことから、サンフランシスコにて補修後、再度太平洋を渡って帰国している。

展示史料は、サンフランシスコに到着した一行が、パナマ到着の期限をポーハタン号船長ピアソンに尋ねた書簡の写し。なお、本展示史料が所収されている『続通信全覧』は、江戸幕府が編集した『通信全覧』を引き継いで、明治政府が1871年から約10年かけて編纂した幕末外交に関する外交史料集である。

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