外務本省

経済・文化交流

展示史料23 平生釟三郎経済使節団団長の御進講草案

展示史料24 「ブラジル経済使節の日本訪問印象記」

 1935年(昭和10年)、川崎造船社長の平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)を団長とするブラジルへの経済使節団が派遣されました。この使節団派遣は、両国経済関係の促進を主眼としていましたが、同時にブラジル新憲法の移民制限(*)を緩和する親善使節としての役割も期待されました。使節団との協議において、当時コーヒー豆輸出が不振であったブラジルは、綿花輸出により自国側の入超であった貿易の均衡を図ろうとし、使節団もブラジル綿業が今後有望であるとしてこれに理解を示しました。使節団はブラジル各所を視察した後、同国外務省委員との間に通商に関する各種勧告、決議、宣言を採択して帰国しました。使節団団長を務めた平生は、帰国後の1935年12月5日、昭和天皇に日伯貿易に関する御進講を行いました。平生の御進講草案には、ブラジル国民は概して親愛的で、ブラジルには移民制限はあるが排日なるものは無い、と記されています。

 また翌1936年(昭和11年)には、訪伯使節団への答礼としてブラジルからも使節団が来日し、日本の商工関係者と通商関係促進に関する協議を行いました。使節団は巡遊した日本各地で歓迎を受け、ブラジル経済使節団の副使節が記した滞日印象記には、「ブラジル人のハートと日本人のハートが触れ合った」と、日本滞在中に受けた歓待への感激ぶりが示されています。

ブラジルの移民制限問題
 国交樹立以来、日本とブラジルの関係はおおむね友好的なものでしたが、移民問題をめぐっての摩擦もありました。ブラジルの移民制限は1923年(大正12年)にレイス(Fidelis Reis)下院議員が提出した欧州移民奨励・有色人種移民排斥を基礎とする移民制限法案によって国家的な問題となりました。
 レイス法案は廃案となりましたが、1930年(昭和5年)からのサンパウロ護憲革命で設置された新憲法起草委員会が提出した憲法草案には移民制限条項が含まれており、1934年(昭和9年)にそのまま可決されました。この条項は、移民の毎年の受入数を、過去50年間で定住した移民数の二分(2%)に各国一律で制限することを規定しており、当時最も数の多かった日本移民を標的としたものであると見られました。この憲法条項に対し、日本政府は遺憾の意を表する覚書を発しました。


展示史料25 「文化的協力に関する日本国ブラジル国間条約」(批准書)

(写真)【展示史料25】

【展示史料25】

 1938年(昭和13年)に国際連盟との協力を終止した日本にとって、各国との文化協定が、国際社会との協力関係の手がかりとなりました。文化協定を締結した国は、当初ドイツ、ハンガリー(1938年調印)、イタリア(1939年調印)などヨーロッパの友好国のみでしたが、1940年(昭和15年)9月23日に桑島主計(くわじま・かずえ)駐ブラジル大使とアラニァ(Osvaldo Aranha)ブラジル外相との間で調印された「日伯文化協定」(「文化的協力に関する日本国ブラジル国間条約」)は、米州諸国との間に結ばれた最初の文化協定となりました。この条約は、翌1941年(昭和16年)11月5日に批准書が交換されましたが、その直後の12月8日に太平洋戦争が勃発し、日本とブラジルの国交が断絶したため、ほとんど効力を発揮しないまま失効しました。

 両国の国交断絶によって、1941年6月にブラジルに渡った「ぶえのすあいれす丸」を最後にブラジル移民は中断し、サンフランシスコ平和条約が発効する1952年(昭和27年)まで、日本からブラジルへの移住(戦後、「移民」に替わって「移住」の用語が使われるようになりました)は行われませんでした。第一回笠戸丸から1941年に至るブラジル移民の数は、累計188,986人にのぼります。

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