【展示史料3】
批准書(左)と批准書を入れた箱(右)
19世紀初頭にポルトガルから独立したブラジル帝国は、1888年(明治21年)、欧米にならって奴隷解放を行いました。しかし、そのため生じた労働力不足は農園主の不満を招き、それに端を発した革命により、翌年帝政から共和制に移行しました。その後ブラジル合衆国政府は、移民を労働力として積極的に受け入れました。また、1894年(明治27年)からは、移民送出を希望する各国の移民会社はブラジル各州の政府と個別に契約することとなりました。
ブラジル側では日本移民の受入れ態勢が整っていましたが、日本とブラジルの間には正式な国交が無いとの理由から、日本はブラジルからの移民送出要請に応えることができませんでした。しかし1895年(明治28年)11月5日、パリにおいて、曾禰荒助(そね・あらすけ)駐仏日本公使とアルメイダ(Gabriel de Toledo Piza E Almeida)駐仏ブラジル公使との間で、「日伯修好通商航海条約」(「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」)が調印されました(同条約をもって正式国交樹立)。この条約は1897年(明治30年)2月に批准書交換が行われ、ブラジルに日本公使館が設置され、8月には初代公使珍田捨巳(ちんだ・すてみ)が着任しました。
初期の駐ブラジル日本公使の主な任務は、ブラジルが日本移民送出に適するかどうか調査することでした。ブラジル公使館が設置された明治30年代前半にはコーヒー価格の暴落による恐慌があり、そのため初代公使珍田、二代目公使大越成徳(おおこし・なりのり)はいずれもブラジル移民送出には慎重でしたが、この見方を転換したのが三代目公使杉村濬(すぎむら・ふかし)でした。杉村は1905年(明治38年)6月30日に提出した「南米伯剌西爾サンパウロ州移民状況視察復命書」において、当時北米やハワイで排斥されていた日本移民にとり、サンパウロ州が新たな移住地として「天与の楽郷福土」になるとの期待を寄せました。この「復命書」は外務省の『通商彙纂』(*)に掲載され、新聞にも報じられたため、移民に熱意を持つ人々から多大な反響がありました。杉村公使は在任中の1906年(明治39年)5月21日、病気により急逝し、現地に埋葬されました。
*『通商彙纂』
『通商彙纂』は、海外通商事情に対する国内関係者の関心の高まりをうけ、それら事情を周知するために外務省通商局が刊行、各府県や商工会議所に配布されたもので、各地の領事が本省に送った海外通商情報(領事報告)が掲載されました。なお当時、駐ブラジル公使は総領事を兼務していました