外務本省

「伯剌西爾」(ブラジル)との出会い

展示史料1 開陽丸のリオデジャネイロ寄港の報(『続通信全覧』より)

展示史料2 「南米伯剌西爾、中米尼加拉瓦、瓦地馬拉、西印度ゴアデロプ探検報告」

(写真)【榎本武揚】
【榎本武揚】

 1861年(文久元年)、海軍操練所教授であった榎本武揚(えのもと・たけあき)は、幕府の発注した軍艦「開陽丸」の建造監督を兼ねてオランダに留学しました。榎本は1866年(慶応2年)に留学を終え、開陽丸に乗って帰朝途中の1867年1月21日(同12月16日)、リオデジャネイロに寄港しました。開陽丸は同地において「甚々宜しき風聞を得たり」と、幕末外交史料集『続通信全覧』の「荷蘭(オランダ)製造軍艦開陽丸一件」に記されています。

 その後、新政府に出仕した榎本は、北海道開拓使、駐露公使、駐清公使などを経て1891年(明治24年)に外務大臣となり、条約改正事業にあたる一方、外務省に移民課を設置して移民事業に意欲を見せました。また、外務大臣辞任後の1893年(明治26年)には「殖民協会」を設立し、移住地建設計画に取り組みました。

 同年、殖民協会会員でもあった外務省通商局の根本正(ねもと・しょう)はメキシコに赴き、同国の地質・気候・国情などにつき調査しました。根本はさらに翌1894年(明治27年)7月、ブラジル・ニカラグア・グアテマラの調査にも向かいました。実に234日をかけた調査の内容は、その報告書である「南米伯剌西爾、中米尼加拉瓦、瓦地馬拉、西印度ゴアデロプ探検報告」(*)に詳細に記されています。この報告書において根本は、ブラジルのサンパウロ州が「土地豊饒気候温和」であり、「法律正明ニシテ山野ヲ旅行スルニモ短銃ノ携帯ヲ要セズ」と評し、同地が移民に適していることを述べました。

伯剌西爾=ブラジル
 尼加拉瓦=ニカラグア
 瓦地馬拉=グアテマラ
 ゴアデロプ=現在のフランス領グアドループ島

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