外務本省

『日本外交文書 日中戦争』
(全4冊)

 『日本外交文書 日中戦争』(全4冊)は,戦前期の昭和12(1937)年7月の日中戦争発生から昭和16(1941)年12月の太平洋戦争開戦までの時期における日中戦争関係についての外務省記録を特集方式により編纂し,4冊に分けて刊行したものです(A5判,本文3102頁,日付索引217頁,総ページ数3319頁,採録文書総数1988文書)。本巻の刊行により,『日本外交文書』の通算刊行冊数は,209冊となりました。
 本巻の販売情報については下記までお問い合わせください。

問合せ先: 株式会社 六一書房
電話: 03-5213-6161
ホームページ: http://www.book61.co.jp他のサイトヘ

本巻の構成

  1. 一 日本の対処方針
    1. 盧溝橋事件の発生から全面戦争への拡大
    2. 邦人引揚げ問題
      1. (1)華北
      2. (2)華中
      3. (3)華南
    3. トラウトマン工作と「対手トセズ」声明の発出
    4. 宇垣外相就任から第一次近衛内閣退陣まで
    5. 平沼・阿部・米内三内閣期
    6. 第二次近衛内閣の成立から太平洋戦争開戦まで
  2. (以上,第一冊)
  3. 二 汪兆銘工作と日華基本条約の締結
    1. 汪兆銘の重慶離脱
    2. 汪兆銘のハノイ脱出から訪日まで
    3. 新中央政府樹立に向けた動静
    4. 内約交渉と南京国民政府の成立
    5. 日華基本条約の締結
    6. 汪兆銘再訪日と枢軸諸国の汪政権承認
  4. 三 占領地域における諸問題
    1. 一般問題
    2. 中国海関接収問題
    3. 興亜院の設置
    4. 経済問題
  5. (以上,第二冊)
  6. 四 国際連盟の動向と九国条約関係国会議
    1. 中国の連盟提訴と日中紛争報告書の総会採択
    2. 九国条約関係国会議
    3. 連盟規約第十六条適用問題と日本の連盟協力終止
  7. 五 事変をめぐる第三国との関係
    1. 一般問題
    2. 英国との関係
    3. ソ連邦の動向
    4. わが国空爆による列国の被害
    5. 揚子江開放問題
    6. 列国の対中財政援助策
  8. 六 事変をめぐる米国との関係
    1. 外交原則尊重に関する米国の諸声明
    2. 日米通商航海条約廃棄通告
    3. 野村・グルー会談
    4. 有田・グルー会談
    5. 米国による対日経済制裁の強化
  9. (以上,第三冊)
  10. 七 天津英仏租界封鎖問題
    1. 封鎖実施に至る経緯
    2. 封鎖措置に対する英国の抗議
    3. 日英東京会談(一) 会談開催から一般的原則に関する協定の合意まで
    4. 日英東京会談(二) 具体的問題に関する協議と会談の決裂
    5. 英国の交渉再開要請
    6. 日英公文交換と封鎖の解除
  11. 八 上海租界をめぐる諸問題
  12. 九 援蒋ルート遮断問題
    1. 仏印ルート
      1. (1)仏印ルート禁絶に至る経緯
      2. (2)北部仏印進駐に関する東京交渉
      3. (3)北部仏印進駐に関する現地交渉と進駐の実施
      4. (4)北部仏印問題をめぐる英米の対日抗議
    2. ビルマ・香港ルート
      1. (1)ビルマルート三か月間閉鎖に至る経緯
      2. (2)閉鎖の実効性をめぐる日英交渉
      3. (3)ビルマルートの再開
  13. 日付索引
  14. (以上,第四冊)

本巻の概要

一 日本の対処方針

 項目「一」では,日本政府の事変処理方針と和平工作の動向に関する文書を採録しています。

1 盧溝橋事件の発生から全面戦争への拡大

 この項目では,盧溝橋事件の発生から上海での軍事衝突を経て全面戦争へと発展していく時期(昭和12年7月~9月上旬)を対象としています。
 昭和12年7月7日に盧溝橋事件が発生すると,南京の日中外交当局間に善後処理交渉が行われましたが,事件の責任の所在をめぐって双方の主張は平行線をたどりました。10日に再衝突が起きると,日本政府は翌11日に華北派兵のための所要措置を講ずる旨を閣議決定し,中国側の態度次第では重大決意をなすと声明しました。現地では停戦の合意が成立しましたが,中国中央軍は関東軍の山海関集結に対抗して北上を開始したため,日本は中国政府に対して,挑戦的言動を即時停止し,現地解決を妨害しないよう要求しました。これに対し中国側は,日中同時撤兵と中央での解決交渉を求めました。その後,廊坊事件などが発生したため,日本政府は27日に自衛行動をとるのやむなきに至った旨を声明し,翌28日,華北駐屯の日本軍は総攻撃を開始,31日までに京津方面をほぼ制圧しました。
 8月初旬には時局収拾を目指して,船津辰一郎元上海総領事による対中交渉が試みられましたが,8月9日に大山事件が発生すると,上海の情勢は緊迫の度を高めることとなりました。戦闘回避を求める英米諸国の斡旋も実らず,13日には上海での交戦が開始され,日本政府は15日,中国政府の反省を促すため断固たる措置をとる旨の声明を発表しました。その後,上海の戦況は激しさを増し,事態は全面戦争へと拡大しました。(65文書)

2 邦人引揚げ問題

 事変の進展とともに中国各地の対日空気は悪化し,居留民とともに各地公館は引揚げのやむなきに至りました(昭和12年7月~8月)。本項目では,各地状況を知らせた報告電報や対処方針を示した訓令電報など,引揚げの経緯を明らかにする関係文書を(1)華北,(2)華中,(3)華南の三方面に分けて採録しています。(100文書)

3 トラウトマン工作と「対手トセズ」声明の発出

 この項目では,全面戦争に拡大した以後から広田弘毅外相が辞任するまでの時期(昭和12年9月~13年4月)を対象としています。
 戦局が激しくなる中,日本は昭和12年10月1日に「支那事変対処要綱」を四相決定(総理,外務,陸軍,海軍)し,停戦条件と国交調整方針を策定しました。10月下旬,九国条約関係国会議の対日招請状が届くと,日本は不参加を決定しましたが,同時に「軍事行動の目的がほぼ達成された時期には第三国の公正な和平斡旋を受理する」方針を外務省と陸海軍との間で三省決定しました。
 広田外相は11月上旬,ドイツに和平斡旋を要請し,トラウトマン駐華独国大使が中国側意向を打診しましたが,中国側は「日本側に原状回復の用意がなければ交渉に応じない」と,日本の和平案を拒絶しました。その後,戦局が日本に有利に展開すると,12月はじめ,トラウトマン大使は中国に再度和平を勧告し,蒋介石は11月に拒絶した和平条件を受諾すると回答しました。これに対し日本は12月21日,賠償要求などを加えた新条件とともに,中国国民政府が反省の色を示さない場合,同政府との交渉成立を期待せず,華北新政権を拡大強化し新中央政権となるよう指導することを閣議決定し,新条件は翌22日にドイツ側へ通報されました。
 中国側の回答は昭和13年1月14日にもたらされましたが,和平条件の詳細な内容を照会したもので,日本はこの回答を遷延策に過ぎず,誠意が認められないとして交渉打ち切りを決定し,16日,「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との政府声明を発表しました。
 本項目ではこれら関係文書に加え,占領地域に樹立された地方政権の動向に関する文書も併せて採録しています。(46文書)

4 宇垣外相就任から第一次近衛内閣退陣まで

 この項目では,近衛内閣改造による宇垣一成外相の登場から第一次近衛内閣が退陣するまでの時期(昭和13年5月~14年1月)を対象としています。
 近衛内閣は6月10日に五相会議を設置し,同会議は7月8日,国民政府が屈伏する場合と屈伏しない場合の対処方針を決定しました。この際,国民政府が屈伏したと見なす条件として,新中央政権への合流,国民政府改組,抗日容共政策の放棄,蒋介石の下野が定められました。
 一方,宇垣外相は石射猪太郎東亜局長の献策を容れ,国民政府を相手とした和平工作を進め,香港で中村豊一総領事が孔祥熙行政院副院長の使者と折衝しました。しかしこの折衝は蒋介石の下野をめぐって行き詰まり,広東・漢口陥落という軍事情勢もあいまって,和平の機運は遠のくに至りました。
 こうした状況のもと,日本政府は11月3日,事変究極の目的は東亜新秩序の建設にあり,国民政府が従来の政策を転換して新秩序建設に参加するならばこれを拒否しない旨を表明しました。また11月30日には,御前会議において「日支新関係調整方針」を決定しました。これは今後の日中関係調整のため準拠すべき大綱として,日中間に締結すべき事項,対中施策の根底となる事項などを取りまとめたもので,東亜新秩序建設の具体的目標を示すものでもありました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(63文書)

5 平沼・阿部・米内三内閣期

 この項目では,平沼・阿部・米内の三内閣の時期(昭和14年1月~15年7月)を対象としています。
 昭和13年12月末,重慶を離脱した汪兆銘が重慶政権に和平を呼びかけても重慶側は一切応じませんでした。他方でこの時期,孔祥熙を通じて日本側へ和平を打診する動きが見られましたが,日本は謀略をおそれて容易にはこれに応じませんでした。その後日本は昭和14年6月,五相会議において「新中央政府樹立方針」を決定し,汪兆銘を中心に占領地域の既成政権を糾合して新中央政府を樹立し,重慶政権の屈伏を待つという事変処理方針を確定しました。
 9月に欧州大戦が勃発すると,陸軍はこの国際情勢を利用して積極的に事変処理を促進する案を外務省に提議しました。陸軍案では,日ソ関係の正常化と,英国に対して事変処理に同調協力させる施策を強調していたのに対し,外務省の対案は日本の対外施策の基本目標を東亜新秩序の建設に置き,欧州大戦への中立的立場を利用して,アジアにおいて日本に有利な形勢を醸成し,新中央政府の樹立を進め,重慶政権の崩壊を促進するとの方針をとっていました。陸軍には事変処理を当座の基本目標とすべきとの意見もありましたが,外務案は12月末,「対外施策方針要綱」として外・陸・海の三大臣によって決定されました。
 欧州情勢の急転は中国側にも影響を与え,スチュワート・王克敏のラインを通じて重慶側から和平提議がなされることもありましたが,昭和15年3月に汪兆銘を首班とする新中央政府が樹立されると,和平の機運は急速に減退し,事変処理は手詰まり感を示す状態となりました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(48文書)

6 第二次近衛内閣の成立から太平洋戦争開戦まで

 この項目では,第二次近衛内閣の成立から太平洋戦争開戦までの時期(昭和15年7月~16年12月)を対象としています。
 第二次近衛内閣(松岡洋右外相)成立直後の7月30日,外務省は「帝国外交方針」を策定し,新中央政府を育成する一方で,重慶政権との全面和平を実現する施策を妨げないことを決定しました。重慶政権への和平工作は秋になると本格化し,満鉄の西義顕と浙江財閥の銭永銘とのルートで接触が行われました。11月に入り,重慶側から和平条件(汪政権の承認延期と日本軍の全面撤退)が提示されると,11月22日の四相会議において,12月5日までに停戦を実行することなどを条件として汪政権の承認延期を決定し,その旨を重慶側に伝達しました。重慶側は代表の香港派遣を承諾しましたが,来香が遅れたため,日本側は先方の誠意を疑い,11月28日に交渉打ち切りを決定し,30日に汪政権を承認しました。
 その後,日本側には昭和16年1月に発生した国共の武力衝突や4月の日ソ中立条約締結の衝撃が国共分裂へと発展し,対重慶和平の好機が到来すると考える向きもありましたが,6月に独ソ戦が開始されると,重慶側では米英ソとの合作が唱えられ,米国の実力援助に対する期待が高まりを見せて,和平の機運は失われることとなりました。
 日本は対米交渉において,米国による日本と重慶政権の仲介を提案しましたが拒絶され,大本営政府連絡会議は11月上旬,武力発動の時期を12月初頭とし,開戦と同時に中国における英米武力を一掃し,敵性租界・敵性重要権益を実権下に把握することを決定しました。その後,12月6日には英国租界,上海共同租界,北京公使館区域への進駐方針や敵性権益の処理,海関接収等の方針を大本営政府連絡会議諒解として決定しました。その基本方針は,できる限り混乱や動揺を起こさないように措置し,現有機構を利用して爾後の運営が円滑に続行されるよう努めるというものでした。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(79文書)

二 汪兆銘工作と日華基本条約の締結

 項目「二」では,昭和13年12月に汪兆銘が重慶を離脱してから昭和15年3月の新中央政府樹立に至るまでの一連の汪兆銘工作と,汪政権との間に昭和15年11月に締結された日華基本条約をめぐる交渉に関する文書を中心に採録しています。

1 汪兆銘の重慶離脱

 昭和13年初頭より陸軍・民間レベルで行なわれていた高宗武工作が進展し,11月に工作当事者間に合意(「日華協議記録」)が成立すると,12月18日,汪兆銘は重慶を離脱し,昆明を経由してハノイに到着しました。同月末に汪は日中国交調整の根本方針に関する近衛声明に呼応する声明を発表しましたが,外務省は汪の重慶離脱が蒋介石と一脈通じた行動ではないかとの可能性を考慮し,田尻愛義香港総領事を中心に情報収集に努めました。
 日本側が汪の動向を注視する中,昭和14年2月下旬,高宗武が来日して影佐禎昭大佐らと協議を行い,和平工作の進め方について合意しました。この間,汪は西南将領をはじめとして蒋介石派の切崩し工作を行いましたが一向に進展することなく,3月に側近の曾仲鳴が暗殺される事件が発生すると,汪は日本側に対してハノイ脱出の意向を伝えました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(42文書)

2 汪兆銘のハノイ脱出から訪日まで

 汪兆銘のハノイ脱出に協力するため,影佐大佐ら一行は昭和14年4月初旬ハイフォンへ向けて出発しました。4月18日に汪と会見し,その席で汪からは上海行きの希望が伝えられました。
 汪兆銘は4月25日未明にハイフォンを出港し,30日に台湾沖で影佐一行乗船の北光丸に収容され,5月7日,上海に入港しました。この間,洋上にて汪は影佐に対して新中央政府樹立による時局収拾方式を提案しましたが,6月には汪自身が来日して平沼首相,板垣陸相,有田外相などと会談し,中央政府樹立に向けた段取りについて日本側の原則的な了解を得ることとなりました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(18文書)

3 新中央政府樹立に向けた動静

 上海に戻った汪兆銘は,昭和14年6月下旬から7月にかけて臨時政府の王克敏や維新政府の梁鴻志らと相次いで会談し,新中央政府樹立に向けて理解と協力を求めました。また,8月末に国民党第六次全国代表大会を開催し,9月中旬には王克敏・梁鴻志と三巨頭会談を開いて新政府樹立のための中央政治会議を開催することで合意しました。ただし,この三巨頭会談で明らかになった汪の国民党中心的な政権構想は,王や梁に不信感を与える結果となり,また華北統治体制の権限問題に関しては日本側の考え方との間に大きな開きが見られました。
 こうした状況のもと,現地からは新政府樹立前に汪に対して要求する日本側要望を明確にする必要が提起され,政府内では汪に内約させるべき事項についての検討が開始されました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(34文書)

4 内約交渉と南京国民政府の成立

 汪兆銘に対する内約事項は,昭和14年11月1日,「中央政治会議指導要領」として興亜院会議決定となり,同指導要領を踏まえて11月から12月にかけて汪兆銘と影佐ら日本側との間で内約交渉が行われました。
 交渉において汪側は,日本の要望があまりに広範囲であることに強い不満を示し,日本案に対して激しく抵抗しました。これに対して新政府樹立を急ぐ日本政府は,汪側の修正要求に多少応じたものの,結局12月30日,日本側の要望がほぼ全面的に取り入れられた「日支新関係に関する協議書類」が成立しました。
 昭和15年1月,高宗武らが汪兆銘から離反して内約交渉の内容を暴露したため,汪工作は深刻な打撃を受けることになりました。しかし日本の新政府樹立方針は変更されることなく,3月,汪は中央政治会議を開催して「国民政府」の名称や南京への還都,国旗などを決定し,3月30日,汪を首班とする新政府(南京政府)が成立しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(61文書)

5 日華基本条約の締結

 日本政府は南京政府の成立を歓迎しましたが,これを即時承認はせず,新政府と国交調整交渉を行うため,阿部信行元首相を特命全権大使に任命して南京に派遣しました。南京政府要人が早期承認を督促する中,交渉は7月に開始され,16回の正式会議と23回にわたる非公式会談を経て昭和15年9月30日に交渉が妥結しました。
 しかし,松岡外相のもとで行なわれていた対重慶和平工作の成り行きを見極めるため,条約署名の時期はさらに遅れることとなり,日華基本条約および日満華共同宣言が署名されたのは11月30日のことでした。これにより日本政府は南京政府を正式に承認するところとなりました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(30文書)

6 汪兆銘再訪日と枢軸諸国の汪政権承認

 南京政府に対して日本側は,傀儡政府との批判をかわすためにも実力具備と善政による人心把握が緊要であると認識していました。他方,汪兆銘や周仏海らは,日本の南京政府支援への熱意がすでに冷却しているのではないかとの不安感が蔓延しており,民心把握に動揺を来しているとの悲観的な観測をしばしば日本側に伝えました。
 こうした中,昭和16年6月に再来日した汪兆銘は,新政府強化のための日本側協力を求めました。これに呼応して日本側は,南京政府に対する3億円の借款供与を決定するととともに,独伊両国に対して南京政府を正式承認するよう申し入れ,7月,独・伊・スペインほか東欧諸国などによって南京政府は承認されることとなりました。また,11月に南京政府は日独伊防共協定への参加を表明し同協定に加わりましたが,その直後に太平洋戦争が勃発しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(42文書)

三 占領地域における諸問題

 項目「三」では,占領地域における諸問題に関する文書を採録しています。

1 一般問題

 この項目では,「2」以下で小項目を設定した問題以外の占領地域における様々な問題に関する文書を採録しています。
 具体的には,戦闘が一段落した後の治安状況,治安回復に伴う居留民の復帰策,わが方権益や邦人財産への被害状況,被害に対する救恤策などに関する文書を採録しています。
 また,第三国人の治安攪乱・間諜行為への対応方針,第三国人の前線への移動自粛要請,天津外国租界への戒厳・軍政適用検討などの占領地域における第三国人への対応方針を示す文書や,陸軍が作成した各地占領地域の政務処理要綱,蒙古軍の統帥に関する駐蒙兵団と蒙疆連合委員会との交換公文,交通・通信・航空に関する北支那方面軍と中華民国臨時政府との交換公文などの軍事関連の関係文書も含まれています。
 さらに蒙古連合自治政府と新中央政権との関係性の問題や,蒙古自治に関する徳王の対日要求,徳王の訪日および松岡外相との会談内容などの関係文書も採録しています。(70文書)

2 中国海関接収問題

 この項目では,占領に伴う中国海関に対するわが方の管理要求や,中国関税収入中の外債担保部分の処理に関する日英取極めに関する文書を中心に採録しています。
 現地日本軍は,軍費に利用される可能性がある関税収入の中国政府宛送金を阻止するため,占領地域にある中国海関の接収ないしは管理を主張しました。これに対して外務当局は,国際的非難を浴びるおそれのある接収は避け,話し合いによって海関管理を実現することとし,天津では昭和12年10月下旬,税収を日本側銀行に預け入れ,経費以外の支出をしないことを税関長に認めさせました。
 一方,上海では列国の介在により交渉は難航し,昭和13年2月には日本が上海海関収入の漢口宛送金を差し止めたため,中国は外債支払いに窮し,英米など債権国は日本に海関制度の保全を申し入れました。そこで日本は,堀内謙介外務次官がクレーギー駐日英国大使と協議を重ね,その結果昭和13年5月2日,事変中の暫行的取扱いとして,占領地域内の海関収入はすべて横浜正金銀行に預金し,右収入中より外債を分担して支払うことで日英に取極めが成立しました。
 しかし,この取極めの条件にある北清事変賠償金の対日支払い再開に中国政府が応じなかったため,昭和14年1月14日,日本は外債担保部分の支払いを拒絶する旨を発表し,翌15日には重慶政権が内外債の支払い停止を宣言しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(49文書)

3 興亜院の設置

 この項目では,興亜院の設置経緯および同院の現地機関である各連絡部の設置に関する文書を中心に採録しています。
 昭和13年1月,企画院第三委員会幹事会によって提起された「東亜事務局」設置案を嚆矢として,中国問題処理を統括する中央機関設置をめぐる議論が高まりました。こうした動きに対し外務省は,外交の二元化を招くものとして反対する一方,外務省機能を強化・拡大する方向で独自案の検討を進めました。
 その後問題はいったん立ち消えとなりましたが,9月初旬,強力な対華中央機関の設置を主張する陸軍が「対支院」設置案を提案したことにより再燃することとなりました。同案に対して外務省は,「対支院」の権限をめぐって強く抵抗し,その過程で宇垣外相は9月末に辞任した。結局「対支院」の設置は10月1日に閣議決定され,12月の興亜院官制の公布により「興亜院」として成立することとなりました。そして興亜院の現地機関となる連絡部および出張所が華北(北京),蒙疆(張家口),華中(上海),厦門および青島にそれぞれ設置されました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(10文書)

4 経済問題

 この項目では,占領地域における経済問題に関する文書を採録しています。
 具体的には,まず通貨問題として,軍費に使用すべき通貨をどうするかは軍事行動遂行上の重要課題でした。華北では当初,河北省銀行券を中心とする華北金融対策が採られましたが,後に華北連合準備銀行が設立され,華中では華興商業銀行や中央儲備銀行が設立されました。また,法幣の流通阻止や法幣の価値を下落させる方策も検討されました。円系通貨の膨張を防止する一手段としては,邦人による不要不急の中国渡航を制限する措置も採られました。
 また外貨資金維持のため,華北では為替統制が行われ,華北物産の輸出を外国資材輸入の範囲内とする輸出入リンク制度が実施されました。物価の高騰を抑制することも重要な課題であり,物価統制策が練られました。米穀の不足も深刻な問題となり,昭和16年には南京政府の外米緊急輸入計画に日本が協力を実施することとなりました。
 この項目ではこれらの関係文書を中心に,第三委員会や興亜院会議で決定された経済施策,北支那開発会社・中支那振興会社の設立に関する文書も採録しています。(120文書)

四 国際連盟の動向と九国条約関係国会議

 項目「四」では,日中紛争をめぐる国際連盟の動向と九国条約関係国会議に関する文書を三つの時期区分を設けて採録しています。

1 中国の連盟提訴と日中紛争報告書の総会採択

 昭和12年9月12日,中国政府は事変を国際連盟に提訴し,連盟理事会は中国の提訴を議題に追加して問題を諮問委員会に付託しました。同委員会は日中独豪4国に対して参加を招請しましたが,日本は日中間の問題は二国間において解決方法を発見しうるとの理由をもって参加拒絶を回答しました。9月27日に開催された諮問委員会は,利害関係国に局限した小委員会を設置して審議を行い,日中紛争報告書草案と決議案を作成し,諮問委員会に提出しました。諮問委員会はこれを採択して総会に回付し,10月6日,総会も全会一致で採択しました。
 採択された日中紛争報告書は,第1報告書と第2報告書に分かれており,第1報告書は日本の軍事行動は自衛の範囲を超え,九国条約および不戦条約の義務に違反すると断定しました。第2報告書は日中直接交渉では紛争の解決は不可能であるとし,九国条約締約国による会議開催を提案しました。また決議は九国条約締約国会議の招集に必要な措置をとるべきと要請し,中国に対する精神的援助の意を表し,中国の抵抗力を弱める一切の行為を差し控え,各個における対中援助の考慮を勧奨したものでした。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(11文書)

2 九国条約関係国会議

 連盟総会決議を受け,ベルギーのブリュッセルで九国条約関係国会議が開催されることとなり,日本政府に対しても昭和12年10月21日にベルギー政府より招請状が届けられましたが,日本は27日,参加拒絶を回答しました。この間,ベルギーはもとより英米仏の各国は盛んに日本に会議へ参加するよう働きかけを行いましたが,日本は応じませんでした。
 日本は10月27日,参加拒絶の回答発出と同時に,内外に向けて声明を発出しました。この声明では,日本は盧溝橋事件以来,事態不拡大を図ったが,中国の挑発行為によってやむなく自衛のため反撃したと事変の経緯を説明し,さらに九国条約成立の当時に比して東亜の事態は著しく変化しているにもかかわらず,連盟は日本を九国条約違反と断定し,しかも会議参加国は連盟の諸決議に拘束されるので,そのような状況で日本が会議に参加しても公正な結果は期待できないと,参加拒絶の理由を説明しました。
 九国条約関係国会議(ブリュッセル会議)は日本を除く九国条約締約国とソ連が参加して11月3日に開会し,日本に再度招請を行いましたが,日本は再びこれを拒絶しました。結局,同会議は,日本が主張する日中直接交渉では紛争は解決できず,日本が条約の規定を無視するのであれば共同態度について考慮しなければならないとの宣言を採択したものの,それ以外には何ら具体的な成果をみることなく,11月24日に会議経過を詳述した報告書を採択して無期休会となりました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(67文書)

3 連盟規約第十六条適用問題と日本の連盟協力終止

 ブリュッセル会議閉幕後,日中紛争をめぐる連盟討議が活性化することはありませんでしたが,昭和13年9月11日,中国は対日制裁を実現するため,連盟理事会に対し連盟規約第17条(連盟国と非連盟国との紛争に関する規定)の適用を要求しました。これに対して理事会は,第17条に基づく日本の招請を決定し,招請状を発出しました。日本は9月22日,連盟規約の手続きでは事変の円満な解決を招来することはできず,かえって事態を紛糾させ,解決を阻害するとの理由から,理事会の招請を受諾できない旨を回答しました。
 理事会は日本の拒絶回答を受けて決議案の作成を進めましたが,連盟規約第16条の制裁措置について議論が紛糾し,結局,制裁は各国の自由において適用しうるという議長報告を採択しました。同議長報告では,制裁の適用条件である戦争状態の存在について,前年以来の総会および理事会の決議に明らかなとおり,条件は満たされていると認定しました。
 日本は10月3日の外務省情報部長談話をもって,理事会の決定に従って日本に対し制裁措置を実行する国があれば日本は対抗措置をとる決意がある旨と,日本が連盟脱退後も行ってきた連盟の平和的,社会的,および技術的分野における事業への協力を今後も維持することは困難となった旨を表明しました。その後日本は,連盟機関への協力終止を閣議決定し,枢密院の審議を経て,11月2日,連盟事務総長に対し協力終止を通告しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(50文書)

五 事変をめぐる第三国との関係

 項目「五」では,事変をめぐるわが国と第三国との関係に関する文書を採録しています。ただし,米国との関係については関係文書が多く,内容も多岐にわたっているため,項目「六,事変をめぐる米国との関係」を別途設定して関係文書を採録しています。また租界に関する第三国との関係や援蒋ルートの遮断問題は,項目「七」から「九」で関係文書を採録しています。

1 一般問題

 この項目では,事変をめぐる第三国との関係のうち,「2」以下で小項目を設定した問題と項目「六」以降で採録する問題を除いた,各種問題を対象としています。
 主な問題としては,中国船舶の沿岸交通遮断に伴う第三国からの抗議,欧州交戦国軍隊の中国からの撤退問題,蒙疆連合委員会の石油販売統制実施に対する英米資本の態度,西沙群島・海南島・新南群島をめぐる仏国との関係,華北での日独経済提携に関するドイツ側提議,上海における米国船舶の現銀輸送を日本側が阻止した問題,シンガポール・タイ・インド・オーストラリアなどにおける排日ボイコットの状況,ドイツやイタリアの事変をめぐる対日態度などに関する関係文書を採録しています。(105文書)

2 英国との関係

 中国問題をめぐる英国の対日空気は,中国各地での英国側被害や国際連盟の動向を受けて次第に悪化の傾向を示し,他方,英国による対中支援の態度が明確となるにつれ,日本側の対英態度も硬化するに至りました。日本側では,英国の経済界が「日本の財政経済力は脆弱であり事変を継続すればいずれ経済的破綻を来す」との認識を有していることに着目し,このような英国側の認識を是正するため,来日したホールパッチ駐華英国大使館財務官に働きかけを試みました。
 また昭和13年7月から9月にかけては,宇垣外相とクレーギー駐日英国大使との間に数次にわたって会談がもたれました。この会談において宇垣外相は,日本国民の対英感情を和らげ日英関係を改善するために,英国は中国問題で対日協調の態度を示す必要があると要請しました。他方,クレーギー大使は在華英国権益の尊重を強く要請して,結局会談は物別れに終わりました。さらに昭和14年1月には,英国は日本の東亜新秩序声明に対して強い不満を表明する覚書を手交しました。本項目ではこのような事変をめぐる英国の一般的見解を中心とした関係文書を採録しています。(33文書)

3 ソ連邦の動向

 昭和12年7月の盧溝橋事件発生直後から,ソ連と中国との間に軍事同盟締結交渉が進められているとの風説が流れました。日本側では重光葵駐ソ大使をしてソ連政府に対し軽挙妄動の不利益なることをほのめかし,ソ連の策動阻止を試みました。当初,各国から日本が収集した情報では,軍事同盟締結交渉は確証がなく疑わしいとの説が有力でしたが,8月下旬,中国外交部から駐日中国大使館へ送られた電報を傍受した日本側は,中ソ間に不可侵条約が締結されたことをキャッチしました。この電報には,中国側は中ソ間に結ばれた条約と同様の条約を日本との間にも締結する意向を有し,東京で日本側の意向を打診するようにとの訓令が含まれていました。しかし結局,8月29日,中ソ両国は不可侵条約の締結を発表し,日中間に不可侵条約の交渉が行われることはありませんでした。
 本項目では中ソ不可侵条約をめぐる動きのほか,西北ルートによるソ連の対中軍事援助の動きなど,事変に対するソ連の動向に関する文書を採録しています。(28文書)

4 わが国空爆による列国の被害

 この項目では,日本軍の空爆により生じた被害をめぐる列国とのやり取りに関する文書を中心に採録しています。
 日本政府は事変当初より,中国における列国の権益および生命財産保護の問題について十分これを尊重するとの姿勢を内外に示しましたが,作戦地域が拡大し,日本軍による本格的な空爆が開始されると,各国より空爆の停止や被害に対する補償要求等が相次いで寄せられました。これに対し日本政府は,原則として日本軍の軍事行動は自衛措置であり日本側に賠償責任はないとの立場を列国側に説明しましたが,ヒューゲッセン駐華英国大使負傷事件(昭和12年8月)やパネー号事件,レディーバード号事件(同年12月)など国際関係の観点から速やかな解決を必要とする事件については賠償要求に応じるなどの対応をとりました。
 その後ドイツより「日独友好関係」に鑑みドイツ人被害の賠償を優先して補償するよう強く要求されるなど,日本側は列国の一般被害に対する具体的対応を迫られることとなり,15年以降にはドイツをはじめ英米等との間で一般被害補償の解決が進められました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(55文書)

5 揚子江開放問題

 昭和12年12月,日本海軍は英米等の列国に対し,揚子江の機雷掃海および残敵掃討作戦を続行中であるとして,原則として揚子江の通行を差し控えるよう通告しました。これに対して列国側は,揚子江の自由航行権を留保するとともに事あるごとに開放を迫りましたが,日本側は,揚子江封鎖はあくまで軍事作戦上の必要に基づくやむを得ない措置であるとの立場を堅持しました。
 その後,日米関係の打開を目的に昭和14年12月に実施された野村・グルー会談において野村吉三郎外相は,作戦上必要な条件を付した上で南京より下流域を開放する意向をグルー米大使に伝えました。しかし実際には,揚子江開放に向けた準備が進捗することはなく,結局封鎖が解除されないまま,太平洋戦争を迎えることとなりました。
 本項目では,これら揚子江封鎖をめぐる列国との関係のほか,珠江および内河の航行制限問題に関する文書を採録しています。(31文書)

6 列国の対中財政援助策

 この項目では,中国の戦争継続を可能ならしめるとして日本側が注視した列国による対中財政援助に関する文書を採録しています。
 具体的には,数次にわたって協定が結ばれた米国による中国からの現銀購入問題,中国の物資調達を助けるために設定された英米によるクレジット設定,米中間に結ばれた為替資金供与協定,法幣安定を目的とする英国の対中為替平衡資金設定,英国輸出補償法に基づく対中借款,米国輸出入銀行による対中借款などに関する文書を採録しています。(39文書)

六 事変をめぐる米国との関係

 項目「六」では,事変をめぐる米国との関係を五つの時期区分を設けて関係文書を採録しています。

1 外交原則尊重に関する米国の諸声明

 この項目は,事変当初から昭和13年の日米間における覚書の応酬までの時期(昭和12年7月~13年12月)を対象としています。
 主な問題としては,外交原則の尊重を求めた昭和12年7月と8月のハル国務長官の2回にわたる声明,同年10月のシカゴにおけるルーズベルト大統領の演説,日本の行動を九国条約および不戦条約違反とする国務省声明,昭和13年3月のハル声明,同年10月の米国政府の対日覚書(満州事変後の満州での門戸閉鎖を筆頭に,華北での通商制限や差別的待遇,専断的な中国関税改正,占領地域における独占的企業経営,揚子江等の通行制限などを列挙してその是正を求めたもの),これに対する11月のわが方回答(日本は在華米国権益尊重に十分努力するが,軍事行動中には時として権益尊重に支障を生じることがあるとして、その了承を求めたもの),12月の米国覚書(日本の東亜新秩序建設を非難し,日本の専断的企図を容認できないと反駁)などの関係文書を採録しています。(47文書)

2 日米通商航海条約廃棄通告

 この項目は,中国への軍事援助や日本への経済制裁を意識した米国における中立法修正の動きが活発となり,米国政府が日米通商航海条約の廃棄通告を行うまでの時期(昭和14年1月~8月)を対象としています。
 主な問題としては,昭和14年1月の年次教書におけるルーズベルト大統領の中立法修正に対する積極的な姿勢とそれを受けた米国議会の動向,東亜新秩序声明が排他的なものではないことを説明した5月の有田外相とグルー駐日米国大使の会談,ハル国務長官による中立法修正を容認する意見開示,中立法審議を次会期に延期した米国議会の動向,7月26日の米国政府による日米通商航海条約の廃棄通告などの関係文書を採録しています。(41文書)

3 野村・グルー会談

 この項目では,米国の通商航海条約廃棄通告後,同条約の失効を目前に控えて行われた野村外相とグルー大使との会談を中心とする時期(昭和14年9月~12月)を対象としています。
 主な問題としては,廃棄通告に対する日本側の対応策の検討,11月から12月にかけて行われた野村・グルー会談などが含まれています。同会談において野村外相は,懸案となっていた揚子江封鎖問題について南京から下流域を開放する旨を明らかにし,通商条約廃棄問題では暫定通商協定の締結を提議しました。これに対しグルー大使は12月22日の会談において,通商上の権利尊重および機会均等の原則の確立が新条約締結の先決条件であり,日本がこの方針の重要性を認識して具体的措置を提示するよう求め,暫定協定締結交渉に当面は応じない姿勢を示しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(17文書)

4 有田・グルー会談

 この項目では,昭和15年1月に通商条約が失効して以降,対日経済制裁に対する米国世論が高まる中で行われた有田外相による対米交渉の時期(昭和15年1月~7月)を対象としています。
 主な問題としては,昭和15年6月に米国が実施した工作機械の輸出制限,6~7月に行われた有田外相とグルー大使の国交調整交渉などが含まれています。
 有田・グルー会談においてグルーは,日本が武力をもって国家的目的を達成しようとする限り日米の根本的親善は望めないとの主張を強調し,日本は間もなく次の二つの問題に関して決定しなければならないとして,(1)日本は自己の一時的利益のため占領地域における商業・資源の確保に甘んじるか,それとも永久的利益のため世界各国との通商・経済協力を図るか,(2)日本は武力による領土獲得政策を堅持する諸国と協調するか,それとも資本・技術の利用による世界各国との経済協力を図るか,との二者択一を示しました(この直後に米内内閣が倒れたため,有田・グルー会談はこのまま打ち切りとなりました)。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(24文書)

5 米国による対日経済制裁の強化

 この項目では,昭和15年7月以降の米国による対日経済制裁を中心に昭和16年12月の日米開戦までの時期を対象としています。
 主な問題としては,昭和15年7月に米国が石油や屑鉄を輸出許可制の適用品目とした問題,同月に航空機燃料の輸出許可を西半球諸国のみに認めることとした問題,昭和15年9月に屑鉄の西半球諸国および英国本国以外禁輸とした問題などが含まれています。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(36文書)
 昭和16年に行われた「日米交渉」に関する文書は,『日本外交文書 日米交渉―1941年』上・下巻で採録しています。

七 天津英仏租界封鎖問題

 項目「七」では,日本軍による天津英仏租界封鎖問題をめぐる英国との交渉を六つの時期区分を設けて関係文書を採録しています。

1 封鎖実施に至る経緯

 昭和13年12月,日本軍は天津租界への抗日分子進入阻止を目的として,英仏両租界の入り口で検問検索を開始しました。この検問検索は昭和14年2月に終了しましたが,現地軍は抗日分子取締りのみならず,租界に保管される中国政府所有の現銀の引渡し要求など,租界に関する諸懸案の解決状況によっては将来一層有効な措置をとると公言しました。
 昭和14年4月,新海関監督に任命された程錫庚が英租界内で殺害され,その容疑者の身柄引渡しを英国側が拒絶すると,日本軍は6月14日,英仏租界の封鎖(交通制限)を断行し,「英国の援蒋政策に猛省を求め,日本と協調して東亜新秩序建設に協力するまで矛を納めない」との談話を発表しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(51文書)

2 封鎖措置に対する英国の抗議

 クレーギー駐日英国大使は封鎖開始の翌日,有田外相に対して,英国人が検問の際に中国人と同列に扱われて厳重な取調べを受けていることを指摘し,かかる不当な待遇を即刻停止するよう要請しました。その後もクレーギー大使は現地からの情報に基づくとして,英国人への侮辱的取扱いや食糧供給妨害の事例を次々と列挙してその是正を要求し,これらの現地情報は英本国でも大きく報道されて同国世論を硬化させました。
 これに対して天津の田代総領事は,数例の行き過ぎた取調べがあったのは事実であるが,日本軍は英国人の取扱いに十分慎重を期しており,英国側の報道はほとんどが誇大・ねつ造に基づくものであるとの報告を行うなど,日英両国の事実認識には大きな懸隔が存在することとなりました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(32文書)

3 日英東京会談(一) 会談開催から一般的原則に関する協定の合意まで

 天津問題解決のための日英東京会談が,英国の提議で昭和14年7月15日から開始されました。
 会談の冒頭で有田外相は,英国の援蒋政策放棄を意味する根本原則の確認を要求しました。クレーギー大使は,天津問題の背景としてならば一般問題の討議に応じるが,日本側提案の原則は天津のみならず中国全域に適用されるおそれがあるとの難色を示し,これに対して有田外相は天津について容認できるのであれば,他の地域において容認できない理由はないと反駁しました。さらにクレーギーは,利敵行為の判定が判然とせずブランク・チェックとなるおそれがあることや,日本軍占領地域における排英運動取締りを付加すべきこと等を挙げて,日本案の修正を求めました。その後の討議の結果,利敵行為の判定について「いかなる場合においても英国側の対日抗議を排除しない」と有田が口頭で言明することを条件に,ほぼ原案通りで合意され,7月24日に発表されました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(21文書)

4 日英東京会談(二) 具体的問題に関する協議と会談の決裂

 日英会談において,昭和14年7月24日からは具体的問題に関する協議が開始されました。
 日本側は,英租界内での抗日分子の捜査・逮捕に関する日英協力,容疑者の臨時政府当局への即時引渡し,英租界内における国幣の流通禁止,租界内に保管されている現銀の租界外への搬出などの12項目を英国側へ提出しました。
 その後,協議は経済事項(国幣流通禁止・現銀移管の両項目)をめぐって難航し,英国側は容易に回答を行いませんでした。8月18日に出された英国の最終回答は,警察事項については協力に同意するが,経済事項は第三国の権益に害を与えるおそれがあるため英国単独で受諾することはできないというもので,経済事項はすべての関係国により公平な解決を必要とする旨が述べられていました。これに対し日本側は,警察事項と経済事項を分離しようとする英国側提案を受諾できないと反駁しましたが,英国側が対日回答を公表する旨を明らかにすると,日本側もこれに対抗する公表を行うこととし,ここに日英会談は決裂するに至りました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(36文書)

5 英国の交渉再開要請

 欧州大戦勃発直後の昭和14年9月4日,クレーギー大使は沢田廉三外務次官を往訪し,日英東京会談の決裂に遺憾の意を表して交渉再開を提議しました。これに対して沢田次官は,英国が自身の見解を表明しなければ再開には応じがたいと回答しました。
 その後,抗日テロ容疑者の身柄引渡しなど,英国側が東京会談において合意に達していた事項の履行を進めたため,11月,日英協議は再開されました。日本側は,現銀問題については臨時政府の帰属という建前は崩せないが,銀を華北地方の水害救済資金に流用しても差し支えないこと,国幣流通禁止問題はドロップするが臨時政府の紙幣(連銀券)流通に協力することを柱とする解決案を提示しました。これに対しクレーギーは12月4日,修正案を提示して,現銀は10万ポンドを水害救済資金とし,残余は香港上海銀行と横浜正金銀行の共同管理とする,英租界当局は連銀券の使用に何ら妨害をせず,その使用は個人の需要に任せるとの試案を提示し,このクレーギー試案を基礎に解決を図ることで合意が成立しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(51文書)

6 日英公文交換と封鎖の解除

 日英間で協議を重ねた結果,昭和15年5月上旬にはほぼ意見の一致を見て,交換公文の作成交渉に入りました。また,この段階において日本側では仏国側とも英国と同様の公文交換を行う方針で交渉を開始しました。
 6月12日,谷正之外務次官・クレーギー大使間において合意事項(治安・現銀・通貨の3事項)を覚書にしてイニシャルを行い,19日に有田・クレーギー間に合意覚書に基づき必要な措置をとる旨の公文を交換しました。
 他方,仏国側とは19日,谷次官とアンリ駐日仏国大使との間で一般原則(昭和14年7月に日英間で合意した内容と同じもの)にイニシャルを行い,20日に治安・現銀・通貨の3覚書に調印し,かつ有田・アンリ間に英国と同様の公文を交換しました。この結果,6月20日,天津英仏租界の封鎖は解除されました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(25文書)

八 上海租界をめぐる諸問題

 項目「八」では,上海租界をめぐる諸問題に関する文書を採録しています。
 主な問題としては,共同租界で発生した連続対日テロを受け,昭和14年2月,日本側が租界当局に対して対日テロ禁絶のため日本側警備機関が租界内で随時必要な措置をとることを認めさせた問題,昭和14年5月,日本側が共同租界の機構および制度の改善を求め,特に租界当局における邦人職員の増員と地位向上を求めた問題,租界内での政治運動禁止・排日言動取締り・青天白日旗の掲揚禁止などを要求した問題,上海特区法院の維新政府ないしは南京国民政府による回収要求をめぐる問題などの関係文書を採録しています。(69文書)

九 援蒋ルート遮断問題

 項目「九」では,日本軍による中国沿岸交通の遮断措置実施(昭和12年8~9月)以降,蒋介石政権を援助するための軍事物資の重要輸送経路となった,仏印ルートとビルマ・香港ルートの二つの経路の遮断問題に関する文書を採録しています。

1 仏印ルート

 この項目では,仏印ルート(ハイフォンから鉄道でドンダンに至り同地から陸路南寧に向かうルートと,ハイフォンから雲南鉄道(別名:滇越鉄道,ハイフォン・昆明間)で昆明に向かうルートがあり,昭和14年11月の南寧陥落以後は後者が唯一のルートとなった)をめぐる問題を対象としています。

(1) 仏印ルート禁絶に至る経緯

 昭和13年10月に広東が陥落すると,仏印ルートは対中武器援助の最重要経路となりましたが,仏国は日本の警告的申入れにもかかわらず,武器禁輸を完全には実施しませんでした。そこで日本は,南寧陥落後の昭和14年12月末から中国領内での雲南鉄道爆撃を開始しました。翌15年2月,パリにおいて日仏交渉が開始されると,日本は,蒋政権の抗戦力を強める一切の物資輸送の停止などを要求し,その対価として在華仏国権益の尊重,雲南鉄道空爆の中止などを提示しました。
 その後交渉は決裂し,交渉中停止していた空爆も4月下旬から再開されました。ところが5月以降,欧州の戦況が仏側の不利に傾くと,仏国は日本の要求を全面的に応諾するところとなり,6月下旬には仏印経由軍事物資の禁輸を決定し,禁輸を確認するための監視団の派遣も応諾するに至りました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(49文書)

(2) 北部仏印進駐に関する東京交渉

 西原一策少将を団長とする監視団がハノイに到着した後,日本は仏国に対し,(1)政治軍事協定(日本軍隊の仏印通過と仏印領内飛行場の使用を仏国が認め,日本は仏印の領土保全を尊重する)と,(2)経済協定(仏印での通商につき仏国人と同等の待遇を認める)の締結を8月上旬に要求しました。交渉は東京において松岡外相とアンリ駐日大使との間で行われ,昭和15年8月30日,松岡・アンリ間に公文が交換されて東京交渉は妥結しました。
 この松岡・アンリ協定では,軍事上の具体的事項を明示することは体面上不可能との仏国の要望を容れて原則の承諾のみとし,具体的事項については現地交渉で承認すると仏国側が口頭約束するにとどまりました。また経済協定については,松岡・アンリ協定で「第三国に優越する地位を保証する」との原則を明記し,詳細は後日の交渉に委ねられました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(41文書)

(3) 北部仏印進駐に関する現地交渉と進駐の実施

 仏印進駐の具体的事項を詰める軍事交渉は,昭和15年8月30日からハノイで開始されました。
 日本側は9月2日,松岡・アンリ協定に基づき5日以降に日本軍が仏印領内へ進駐するとの一方的通告を行い,その結果,4日夜に西原とマルタン軍司令官との間に進駐に関する協定が調印されました。ただし同協定は最終的な軍事協定成立のための基礎事項に過ぎず,進駐開始日時や輸送・補給に関する細目協議が継続されました。
 その後9月19日に日本側は「23日零時進駐開始」を通告し,22日夕方に細目協定が成立しました。しかし同協定には事務的な未決定部分が残されており,西原は23日零時の進駐を中止するよう命じたものの徹底せず,23日未明には越境した日本軍と仏印軍がドンダンで軍事衝突するに至りました。24日午後には未決部分の合意が成立し,最終的取極めが完成しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(43文書)

(4) 北部仏印問題をめぐる英米の対日抗議

 雲南鉄道空爆および仏印問題をめぐる日仏交渉に関しては,米英が強い対日抗議を行いました。
 昭和15年8月1日に松岡外相がアンリ大使へ仏印に関する要求を提出すると,グルー駐日米国大使は7日,松岡外相へ覚書を提出して憂慮を表明しました。さらに9月に至りハノイでの軍事交渉が開始されると,ハル国務長官は事態を重大視するとの声明を発表しました。これに対し大橋忠一外務次官はグルー大使を招致し,「米国の仏印問題への容喙が日本の国論に及ぼす影響は,西半球における第三国の領域に対する米国の政策に第三国が干渉がましき態度に出ることへの米国世論に及ぼす影響と同様である」との趣旨を申し入れました。
 日本側の申入れに対してグルー大使は20日,松岡外相に対し,大橋次官との会談に反駁する覚書を提出しました。また22日にはウェルズ国務次官が堀内駐米大使に対し,「日本の仏印に対する要求は侵略と言うほかなく,過去三年以上にわたる日米間の諸問題の最高潮に達したるもの」との見解を表明しました(米国政府は26日,「10月16日より西半球および英本国以外に対し屑鉄の輸出を禁止する」と発表)。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(19文書)

2 ビルマ・香港ルート

 この項目では,ビルマルート(ラングーンから鉄道でラシオに至り同地から陸路雲南省に入るルート)をめぐる問題を対象としています。

(1) ビルマルート三か月間閉鎖に至る経緯

 昭和15年6月24日、有田外相はクレーギー駐日英国大使に対し,重慶政権の抗戦力増加に資する物資(武器弾薬のほかガソリンやトラックなど)のビルマルートによる輸送を至急停止するよう要望しました。しかし英国側はこれを婉曲に拒絶したため,日本は強く再考を求め,その結果,7月12日にクレーギーは有田と会談して軍事物資のビルマ経由輸送を3か月間停止すると表明しました。この会談で有田は,禁輸の完全履行確認を目的とする日本の領事館員の国境方面派遣容認を求めましたが,クレーギーはこれに強硬に反対しました。しかしその後の押し問答の末,クレーギーはビルマ各地への領事館員の旅行は自由であると回答しました。また,クレーギーは閉鎖期間中に日本が日中紛争の解決に努力することを求めました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(27文書)

(2) 閉鎖の実効性をめぐる日英交渉

 日本は閉鎖を実効あるものとするため,ビルマ政庁に対し税関の輸出入明細等を随時提出するよう求めましたが,ビルマ側はこれを拒否しました。また日本が禁輸状況を視察するため国境方面への旅行を求めると,ビルマ側はこれも拒絶しました。その後日本は執拗に要求の受諾を求めましたが,ビルマ側は日英間で協議ありたいとして容易に応ぜず,他方,英国側も種々の理由をつけながら回答を引き延ばしたため,日本側は禁輸措置が完全に履行されているのかどうかを確認できないまま,9月中旬に至りました。
 9月18日、クレーギー大使は大橋次官と会談し,その中で仏印に関する日仏交渉に憂慮を表明して,日本が仏印から中国軍に対し新たな攻撃を行えば,それはビルマルートに関する日英取極めの精神に反するとの覚書を手交しました。これに対して大橋が「日本が仏印に対する計画を断行すればビルマルートを再開するという趣旨か」と質したところ,クレーギーは日本に再考を促したいとのみ回答しました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(34文書)

(3) ビルマルートの再開

 昭和15年10月8日,クレーギー大使は松岡外相と1時間にわたり三国同盟(9月27日調印)について意見交換をした後,3か月間の期限が終了した後にビルマルートを再開する旨の口上書を読み上げました。この口上書には「3か月の閉鎖期間中に極東和平は達成されず,一方で日本は中国軍を攻撃するために仏印に進駐し,さらに枢軸国との間に同盟条約を締結したが,このような状況下では遺憾ながら英国政府はビルマルートに関する日英取極めを延長することはできない」旨が述べられていました。これに対して松岡は遺憾の意を表明しました。
 こうしてビルマルートは10月18日から再開され,直ちにラシオから第一陣のトラックが出発しました。日本軍は報復的に同ルートの中国領内への空爆を実施しましたが,空爆の効果は上がらず,その後,米国の援蒋物資はビルマルートに集中し,仏印ルートを失った後の重要な援蒋経路となりました。本項目ではこれら関係文書を採録しています。(29文書)

このページのトップへ戻る
目次へ戻る